5月17日 木曜日 黒板消しとグレーゾーン4
「『あふひ』と書いて『あおい』と読む、という感じか」
いきなり独り言のように呟かれたので、黒板消しを動かす手を止めて、聞き返す。
「あおいって、葵の御紋の葵、ですか?」
「まあそうでもあるがな、すぐ思いつくのがそれか」
彼は少し呆れたようにこぼしてから、葵祭ってあるだろう、そっちの葵だ、と訂正する。
それって結局同じじゃないのか。
解説してやるか、と少し恩着せがましく前置きしてから彼は始める。
「葵は『あふひ』。これは『逢ふ日』に通じるんだ」
なんのことかわからない。
首をかしげた私に、彼は詳しい説明を続けていく。
「『あおい』の旧かなづかいは『あふひ』だ。どうしてそうなのかはいろいろ説があるんだが、それはおいておくとして」
『あおい』
『あふひ』
かつ、かつ、という途切れがちなチョークの音とともに、ぎこちない文字が黒板に現れる。
「和歌に、掛詞ってあるだろう。ある言葉に、もうひとつの意味を重ねる。『あおい』には『あふひ』、つまりは逢う日、逢瀬の意味も重ねられるんだ」
『逢ふ日』
話しながらも、手は文字を記していく。
黒板に『あおい』『あふひ』『逢う日』が順に並べられた。国語科の教員志望だけあって縦書きで。
ぽつりぽつりと黒板に書き連ねられた単語の羅列に、妙に惹きつけられた。
「ああ、悪い。掃除してるのに」
殊勝に謝られると、調子が狂う。
「まだそっちは終わってませんし、大丈夫ですよ。それに、どうせ明日になれば使うんですし」
話を聞いていたら、完全に手が止まってしまっていた。
「面白いですね。まあ、『合コン』にはそんなに深い意味はない、と思いますけど」
「そうでもないかもしれない」
彼はにやりと笑ってチョークを置いた。そんなふうに笑うのは初めて見る気がする。
「歌を交わして逢瀬を交わす、歌垣なんていうものもあったしな」
「いつの時代の話ですか……」
うたがき、って確か万葉のころじゃなかったか。
黒板をふくのを再開する。
彼が書いた字の上にも、黒板消しを滑らせていく。1回で消えなくても、むやみにいろいろな方向に動かしたりはしない。あくまで縦方向にのみ。ほら、きれいになった。




