5月17日 木曜日 黒板消しとグレーゾーン3
「合コン?」
びっくりして、問い返す。黒板に歩み寄ろうとした足が止まる。
意味が聞きたいのだろうか。変な人だし、ありえなくもない。
「辞書ひいてください、辞書」
そこにありますから、と黒板の横の、日めくりカレンダーのかかった棚を示す。
いつかの生徒の忘れものだか寄付だか知れない辞書が、進路雑誌やチョークの箱などと一緒に置かれている。生徒はそれぞれ辞書を持っているが、何かのときには頼りになる味方だ。あれ、そもそも合コンって辞書に載っているのだろうか。
「そうじゃなくて、お前がもってきたこれだ」
彼は教卓から離れ、私の荷物を勝手に持ち上げてこちらに示した。
ああ、と思い当たる。
一目で手作りと見てとれる、薄い冊子のようなもの。
表紙にはマジックで大きく「合コン用」と書かれている。
なぜか今日も放課後やってきた教育実習生は、新たな獲物を見つけたらしい。
「違います。あえて読むなら『がっこん』です」
私が答えたにも関わらず、彼は断りもなく表紙をめくる。中には、固めの台紙に張り付けられた楽譜。がっこんってなんだ、と訝しげな表情が語っている。
「合唱コンクールの略ですよ」
正解を告げると一度は納得したように頷いたが、不満げな顔になる。
「わかりにくい。そもそもそんな略語使うな」
「いいじゃないですか、仲間内では通じるんだから」
無関係の人にわかってもらいたくて使っているわけではない。
さて。気を取り直して、今度こそ黒板掃除だ。窓に近い側からふいていくことにする。
「誤解されるぞ。お前にその気がなくても、間違って解釈される」
背後から、彼はしつこく文句を言う。
「またそれですか」
解釈とか何とか。
昨日の混迷を極めた会話を思い出してしまったじゃないか。話題を変えなくては。
「大学生にはそっちの方が馴染み深いかもしれませんがね」
「高校生だろうが『ごうこん』と読む」
だいたい俺には馴染み深くない、と彼は溜息をついた。楽譜を閉じたらしい音がする。
「まあ、さすがに意味は知っているがな。下心が明快な飲み会もしくは食事会だろう」
ああ、シタゴコロは漢字の部首の名前じゃないぞ、ちなみに、と付け足される。
それくらいわかっている。というかそういうぼけをかましそうに見えるのか、私は。どんな第一印象なんだ。
「いや、たぶん定義違いますから。辞書引いてくださいってば」
適当に答えて、黒板消しを縦方向にかけていくのに集中しようとする。
答えは返ってこない。
訝しく思い振り返ると、いつの間にか彼は棚の方に移動していた。辞書をぱらぱらめくっている。やけに素直だ。
しばらくして、載ってない、とつまらなそうに告げる。やっぱり載っていなかったか。最近の言葉だしな。
まあとにかく、と黒板をふきつつも、きっぱり言う。
「『合コン』と書いて合唱コンクールと読む。これが合唱部員の心意気です」
合唱部員に尋ねたら十人中十人がそう答えるに違いない。たぶん、きっとそうだ。
うん、みんなのこと、信じてるからね?
そうじゃないなら人の楽譜の表紙に勝手に「合コン」なんて書いたりしないよね? しかも油性マジックで。
いや、紙に書くなら油性も水性も関係ない気もするけれど、それは気分の問題で。




