二話
病は唐突に
カチカチ、カチカチカチ、
薄暗い室内。
OLもびっくりな素早い動きでキーボードを打つ音が響く。
ずり下がってくる赤いフレームの眼鏡を押し上げ、切るのが面倒だからと伸びっぱなしにしている漆黒の髪を掻き揚げて、思うように進まない文章に苛立ちながらもキーボードを打ち続ける。
キーボードを打ち始めた頃はまだ明るかった空は薄暗くなってきたが灯りを付けに行くのも面倒で億劫。
椅子に座ってかれこれ六時間が経過しようとしている。
もはや、こうなったら嫌でも立たない。
死ぬ気で完成させてやる、と意気込む。
残り十分、しかし紫の勘では残り五分で自分の担当編集者をしている彼女が来るであろうと予測していた。
最後の最後。死ぬ間際の足掻きと言わんばかりに我武者羅に打ち上げた文章を保存すると、ぱたりとキーボードに顔の乗せて息をつく。
甘いような切ないような、自分には到底理解できない『恋愛』と言う一つのルーツ。
理解できないもので一躍ベストセラー作家になってしまった自分が一番理解できない。と言うよりも、したくもない。
生まれてこの方、まともに恋だの愛だのをしてこなかった自分の、3作目の作品。
デビュー作も二作目も、世界に数百数千いるであろう作家達と同じようにあまり売れるものではなかった。
自分がやりたくてなった作家と言う職業。
しかし、売れないと言うのは周りにあまり受け入れられるものではない、と言う事で。
精神的にちょっとめげるのだ。
そんな時に滅多に鳴ることのない自分の携帯が数ヶ月ぶりに啼いた。
「もしもし?」
「久しぶり、飲みに行かない?」
携帯の泣き声よりも久しぶりに聞いた声。
医大にいたころ、内気で人付き合いの悪い奴、と周りから言われていた私に向こうから良く声を掛けてくれた数少ない友人の一人だった。
彼女は私が「もしもし、どなた?」と言い切る前に用件を言った。
その声は何処か弱弱しく、今にも泣き出しそうだったので了承し一時間後にね、と電話切った。
久しぶりに会った彼女は長い茶髪を綺麗にカールさせシルクの美しい光沢を放つスーツを着て立っていた。
相変わらず美しい、容姿。
なのにその表情はとても泣き出しそうで、私はすぐに両手を広げてニヤリと意地の悪そうな笑みを浮かべて言ってやった。
「久しぶりの再開は涙の抱擁かしら?」
それを見た彼女は暫くの間、私の顔と広げた腕に視線を行ったりきたりさせてから腕に飛び込んできた。
それから二人で居酒屋に入って日々の愚痴を零しあった。
彼女はやはり医大に行っていただけあって大学病院に就職したらしい。
そして日々休みもなく働き、同僚の男性と恋に落ち、婚約するという約束までしたはいいが、彼は仕事をやめて専業主婦でいてくれと言う、のだそうだ。
就職してまだ数年。医者になるために有名なあの医大にあがるまで死ぬ気で勉強してやっとの思いで現場に入れたのに、今度は女としての幸せのか昔からの夢か選ばねばならないのだ、と彼女は零しす。
大学生として勉強の話などや本の話などしか話題を持っていなかったあの頃からは考えられないような現実的な恋愛話。
幸せにはなりたい。彼の妻になりたい。彼以外には愛せる人などいないと思えるほどに愛せる人に出会えたのに、今の仕事を、夢を諦めたくないのだ、と彼女は酔いつぶれて眠ってしまう直前に呟いた。
「運命の、、、人、か。」
少し羨ましい。のかもしれない。生まれたときから母は亡くなっていて、ある意味それは自分のせいで、でも父は私を責めることなく大切にしてくれた。滅多に帰ってこなくて何時も周りにいるのはベビーシッターと家政婦さん二人だけ。
だから人と関わり合うとか人に甘えることが出来なかった。怖かったから。
コトン、
「え、、、?」
目の前に置かれたおつまみ。自分が頼んだ覚えはないので彼女が頼んだのだろうか?と酔いつぶれた相方を見る。
「サービスですよ、恋だの愛だので悩めるのは若い証拠だ。あっしの若い頃を思い出すなあ、、、。」
そういって居酒屋の大将は顔をしわくちゃにして笑った。
若い証拠。
つまり、私は肉体年齢は若いが精神年齢はこの大将と同じくらいなのだろうか、とつまみを食べながら思う。
恋愛は出来ないが思うだけなら自由だろうか。
この酔いつぶれた友人のために現実的な恋愛、と言う題材で書くのもいいかもしれない。
思ったら即行動。自分の座右の銘はこれかな、と思いながらバックからメモ帳とボールペンを取り出して書き始める。
それが今は世界を震撼させたベストセラーの生まれた由縁だった。




