9:想い
「な、何を言い出すんだ!?」
ルークの声は明らかに上擦っていた。
ヘンリーがちらりと横目で窺えば、弟の顔は見る間に赤く染まっていく。
あまりにも分かりやすい反応に、ヘンリーは深々とため息をついた。
「いいから、落ち着け……そして、よく聞け」
「兄上こそ、いきなり何なんだよ……」
ルークは視線を逸らしながら、落ち着かなげに言う。
動揺を隠せていないのは、誰の目から見ても明らかだった。
ヘンリーはそんな弟を見つめ、少しだけ声音を引き締めた。
「ローレルのことは、既に王太子殿下の耳に入れてある。近いうちに、必ず何らかの対策を講じることになるだろう」
「対策……?」
問い返したルークの声は、低く凄んでいた。
「万が一にも、ラドクリフの連中にローレルを取り返されないようにするための、だ」
その一言に、ルークの身体が強張った。
ラドクリフ神聖国が、ローレルを取り返しに来る。
想像するだけで、身体の奥底から凍り付くような気がした。
ようやく彼女は、少しずつ笑うようになった。
人並みとは言えないまでも、それでも以前よりは食べてくれるようになった。
怯えながらも、ソフィアと街へ出て、甘いものを食べて、小さく笑ってくれたのだ。
──それを、またあの国へ連れ戻す?
初めて会った時のローレルの姿が脳裏に蘇る。
痩せ細った手足。
ぼろぼろの服。
砂にまみれた髪と肌。
疲れ切り、追い詰められたような顔。
あんな目に遭わせた連中のもとへ、彼女を帰すなど――。
「……そんなこと、させるか」
ルークの口から、低く押し殺した声が漏れた。
ヘンリーは弟の反応を確かめるように見つめ、それから静かに言葉を続ける。
「一番確実なのは、ローレルにベレスフォードでの身分を与えることだ」
「身分というと……」
「どこかの貴族家の養子にする。そうなれば、少なくともラドクリフが勝手に手を出すのは難しくなる」
ルークが目を瞬かせる。
ベレスフォード王国の貴族として正式な立場を得れば、ローレルは単なる“追放された女”ではなくなる。
国に守られた存在となる以上は、いかな強国といえど、容易には手出しできない。
ヘンリーはさらに言葉を重ねた。
「最初に保護した縁もあり、我がウォーベック家で引き取るのが最も自然ではないか、という話が出ている」
「――は?」
ルークの息が、止まった。
ローレルが、ウォーベック家の養子になる。
それはつまり、ヘンリーと自分の義妹になるということだ。
「……そんなの、駄目だ」
気づけば、ルークは低く呟いていた。
「何?」
「そんなの、絶対に駄目だ!!」
今度ははっきりと、声が廊下中に響いた。
ベレスフォード王国では、たとえ血が繋がっていなくとも、兄妹となった者同士の婚姻は認められない。
つまりローレルがウォーベック家の養女になれば、その時点で自分はもう――。
そこまで考えて、ルークは息を呑んだ。
ローレルが義妹になったら……。
いつかは、他家へと嫁いでいく日が来るのかもしれない。
そんな光景が脳裏に浮かんだ瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
(ローレルが、他の男のところへ……?)
嫌だ。
そんな感情が、理屈より先に湧き上がる。
「駄目だ……そんなの」
「ルーク」
「俺は、そんなの認めない……!」
ルークは顔を歪めた。
ローレルを守りたいと思った。
傷ついてほしくないと思った。
笑っていてほしいと願った。
それだけのはずだった。
なのに、今胸の中を満たしているのは、それだけではない。
もっとずっと利己的で、醜くて、言葉にするのもためらうようなどす黒い感情だ。
顔をくしゃくしゃにした弟を前に、ヘンリーは長く息を吐いた。
「……だから、先にお前の気持ちを確認しておきたかったんだ」
「兄上……」
ルークが縋るように兄を見上げる。
近年ではまず見せたことのない、幼い子供のような顔だった。
ヘンリーは少しだけ表情を和らげると、昔のように弟の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「大丈夫だ。すぐにウォーベック家の養子にする、という話ではない」
「……本当か?」
「ああ。まだ案の一つにすぎない」
ヘンリーの声は落ち着いていた。
「聖女を受け入れる先となれば、どの家も我先にと名乗りを上げるだろう。だが、だからこそ慎重に進めなければならない」
「……」
「ローレルの存在は、今なお極秘だ。話を持ちかける相手さえ、慎重に選ばなければならない」
ルークは黙ったまま俯く。
分かっている。
これは自分一人の感情でどうこうできる話ではない。
ローレルを守るためには、立場も身分も必要なのだ。
それでも。
「……他の家にやるのも、嫌だ」
「だろうな」
「嫁ぐのなんて、もっと嫌だ」
ぽつりと零れた本音に、ヘンリーは眉を上げた。
ようやく、自分でも認めたらしい。
ルークは耳まで真っ赤にしながら、唇を噛みしめている。
「兄上」
「何だ」
「……俺は、どうしたらいい」
珍しく弱音にも似た問いだった。
ヘンリーは少しだけ考え、それから穏やかに答える。
「まずは、お前が自分の気持ちを誤魔化さないことだ」
「……」
「ローレルを守りたいのか。傍にいたいのか。それとも、誰にも渡したくないのか」
「……っ」
ルークは何も言えなかった。
いや、言えないというより、もう答えは出ていた。
ヘンリーが、弟の肩を軽く叩く。
「後のことは、私が動く」
「兄上……」
「お前はお前にできるやり方で、ローレルを支えてやれ」
それだけ言うと、ヘンリーは踵を返した。
「どこへ行くんだ?」
「少し、人に会ってくる」
親友に会って、協力を持ちかける為に。
この先、ローレルの身の振り方を考えるうえで、信頼できる家を確保しておく必要があった。
一人廊下に残されたルークは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
自室へ戻ると、ルークはベッドへ身を投げ出した。
兄の言葉が、ぐるぐると頭の中を駆け巡っている。
他の家にローレルを取られるのは嫌だ。
だが、それ以上に。
ローレルが誰かの妻になって、自分の知らない場所で笑う未来など、考えたくもなかった。
そんな感情を抱く自分が、ひどく醜く思えた。
ただ大事にしたいだけだった。
ただ傍にいたいと思っただけだった。
なのに、いつの間にかそれだけでは済まなくなっている。
「俺は……」
天井を見上げたまま、ルークは呟く。
初めて会った時から、ずっと気になっていた。
守りたいと思った。
笑ってほしいと思った。
もっと食べて、もっと元気になってほしいと願った。
──そして、今は。
「……彼女を、誰にも渡したくない」
その言葉は、驚くほどすんなりと胸の内に落ちた。
もはや目を背けることさえ出来ない、紛うこと無き本音だった。
「俺は……ローレルを、独り占めしたいのか」
自分で口にして、ようやく理解した。
これはもう、ただの庇護欲ではない。
守りたいだけでもない。
ずっと傍にいてほしい。
できることなら、自分だけのものにしたい。
そんな、どうしようもなく身勝手な想いだ。
けれど、一度形になってしまった感情から、もう目を逸らすことはできそうになかった。









