6:祝福の兆し
「父上、ご報告がございます」
「なんだ?」
ウォーベック侯爵家の執務室。
長男ヘンリーを迎えたのは、現当主ユーイン・ウォーベックだった。
机上の書類から目を上げ、手にしていた羽ペンを静かに置く。
年齢を重ねてもなお鋭さを失わぬ美丈夫であり、その面差しは、ヘンリーやルークによく似ていた。
「当家にて、ラドクリフ神聖国の元聖女様を保護いたしました」
「……聖女だと?」
さすがのユーインも、僅かに目を見開いた。
ラドクリフ神聖国の偽聖女が追放された、という話なら、ユーインも耳にしている。
それを元聖女様と呼ぶあたりに、ヘンリーの確信が滲んでいた。
「偽聖女が国外追放されたという噂は聞いていたが……」
「その件についても、お耳に入れておきたいことがございます」
「話せ」
ユーインは自然と姿勢を正した。
ヘンリーは、隣国の神殿で見たこと、ローレルが語ったこと、そして自分の推測を順に説明していく。
神官長の指示で、祈りを神像ではなく紫水晶へ捧げ続けていたこと。
その結果、ローレルは国を潤せず、自らを偽物と思い込んでいたこと。
だが実際にベレスフォードの神殿で祈りを捧げた途端、驚くほど強い神聖力が発現したこと――。
話を聞き終えたユーインは、静かに息を吐いた。
「馬鹿な……ラドクリフの連中は、わざわざ聖女の恵みを長年溜め込んでいたというのか?」
「可能性は高いかと」
雨不足と水不足が数か月続くだけで、大地は容易に干上がる。
作物は枯れ、人は渇き、水を求めて争い始める。
治安は乱れ、政情も不安定になる。
そんな状況を自ら作り出すなど、常軌を逸していた。
「なんでも、新たに聖女を名乗った女は、現神官長の姪だそうです」
「ふむ……」
ユーインの眉間に、深い皺が刻まれる。
神官長個人の野心として見れば、筋は通る。
姪を聖女に仕立て上げれば、神殿内での立場はより盤石になるだろう。
だが、個人の権勢のために国全体の実りを犠牲にするなど、あまりに愚かで、あまりに罪深い。
「それと、もう一点」
「まだあるのか」
「……聖女様は、まともな食事すら与えられていなかったようです」
「は?」
ユーインの声が、珍しく上擦った。
聖女といえば、国の宝どころではない。
人の世の安寧そのものを左右する、まさに至宝。
それを粗略に扱うなど、常識で考えれば有り得ないことだ。
「ルークが見つけた時、彼女はひどくやつれ、粗末な衣服を纏っておりました。さらに、当家で食事をお出しした際には……腸詰めを口にして、たいそう喜んでおられましたので」
「……腸詰め?」
「はい。あの腸詰めです」
ユーインは、暫し絶句した。
辣腕で知られる侯爵が、あんぐりと口を開けるその顔を見て、ヘンリーはかえって冷静になる。
自分もまた、初めは同じ顔をしたものだと。
「ラドクリフの貴族は、平民を激しく見下しております。おそらく、それが理由かと」
「平民だからといって、女神の愛し子を蔑ろにするとは……なんという愚かさだ」
執務室に、重苦しい沈黙が落ちた。
やがて、ユーインが口を開く。
「このことを知る者は?」
「私とルーク、それから神殿で立ち会った神官です。一応口止めはしておりますが、あの場にいた以上、上に報告が上がる可能性はあります」
「当然だろうな。神官一人が胸に秘めておける話ではない」
ユーインは頷き、それから低く言葉を続けた。
「使用人たちは?」
「食事の場にいた者はおりますが、ローレルが聖女だとは知りません」
「とはいえ、そのままにもしておけぬな」
「そちらは既に手配済みです。身元の確かな者だけを彼女の世話役につけています」
ヘンリーは淡々と答える。
ローレルの身元が外へ漏れぬように。
それでいて、最大限の敬意と保護を与えられるように。
そのための段取りは、すでに済ませてあった。
「……して、どうなさいますか?」
「事は、我等の手に余る」
ヘンリーの言葉に、ユーインは小さくため息をついた。
そして立ち上がり、壁際に掛けてあった外套へと手を伸ばす。
「王城へ行く」
「私もお供します」
ヘンリーが即座に応じると、ユーインは片眉を上げた。
「構わんが、聖女様は大丈夫なのか?」
「母上にお願いしてあります。それに、護衛もつけておりますので」
「そうか」
その護衛が自分の次男であるなどとは露ほども思わぬままに、ユーインは頷いた。
その頃、ローレルは屋敷の庭園にある四阿にいた。
ルークに勧められるまま腰を下ろしてはいるものの、その視線は力なく宙を漂っている。
テーブルに置かれた紅茶の表面に、はらりと花びらが落ちた。
「……私がこれまでしてきたことは、一体何だったのでしょう」
小さく零れた呟きに、ルークは拳を握りしめた。
ショックを受けるのは当然だ。
偽聖女の噂はベレスフォードにも届いていた。
だが、その“偽”とされた本人が、こんなにも傷つききった顔で目の前に座っているのを見ると、噂の軽さが腹立たしかった。
「ずっと、必死に祈り続けていたのに……っ」
ぽたり、と涙が落ちる。
ルークはたまらず椅子を立ち、ローレルの傍に膝をついた。
「ローレル」
「……」
「貴女は、ずっと祈り続けてきた。それは誇らしく、素晴らしいことなんだ、ローレル」
こんな言葉しか掛けられない自分が、酷くもどかしかった。
兄ならば、もっと気の利いたことを言えただろうか。
「でも……全て、無駄なことでした」
ローレルは自嘲するように笑った。
その笑顔があまりにも痛々しくて、ルークは唇を噛む。
「違う。そんなふうに言わないでくれ」
「……」
「全部、貴女を騙した連中が悪いんだ。貴女は、自分にできることを精一杯やってきただけだろう」
ローレルが涙に濡れた目でルークを見つめる。
どくん、とルークの心臓が跳ね上がった。
不思議と鼓動が速まり、胸が落ち着かない。
じんわりと、掌に汗が滲んでくる。
「ルーク様……」
「様はいらない」
「え……?」
「ルークと呼んでくれ」
ローレルが戸惑う。
それでもすぐに断れないのは、ルークの顔が驚くほど真剣だからだ。
「でも、あなたは侯爵家の方で……」
「そんなの、いいんだ!」
思わず声が大きくなる。
ローレルがびくっと肩を震わせ、ルークは慌てて首を振った。
「す、すまない……怒ったわけじゃない。そうじゃなくて……その、俺は、貴女にそんなふうに距離を置かれたくないんだ」
「……」
「だから、どうか。ルークと呼んでくれないだろうか、ローレル」
聖女を呼び捨てにするなど、本来なら不敬かもしれない。
けれど今のローレルの態度ひとつ取っても、これまでどれほど身分や礼儀を盾に押さえつけられてきたかが分かってしまう。
ラドクリフへの怒りが、また胸の奥で煮えたぎった。
「では……ルーク」
「ああ、それでいい」
ルークが照れたように笑うと、ローレルもつられて小さく笑った。
「あらあら、まあまあ」
穏やかな女性の声がして、二人が同時に振り向く。
「なっ……母上!?」
「ルーク、あなたも隅に置けないわね」
茂みの向こうから姿を現したのは、ソフィア・ウォーベック侯爵夫人だった。
最初から盗み聞きをしていたわけではない。
ヘンリーに頼まれ、客人であるローレルの様子を見に来たところ、ちょうど会話が耳に入ってしまったのだ。
「あ、あの……お邪魔しております」
ローレルが慌てて立ち上がる。
侯爵夫人と聞いて、見るからに身体を硬くした。
そんなローレルに、ソフィアはふわりと柔らかな笑みを向けた。
「あなたがローレルさんね。ヘンリーから話は聞いているわ」
「は、はい……」
「そんなに固くならなくていいのよ」
ソフィアはそう言いながら、まるで旧知の間柄に接するような気安さで四阿へ入ってくる。
「私、この四阿でお茶を飲むのが好きなの。でも一人で飲んでもつまらなくて」
「……?」
「だから、当家に滞在している間、私の茶飲み友達になってくださらない?」
悪戯っぽく微笑むその様子は、ヘンリーとルークの母とは思えぬほど若々しく、美しかった。
「え……あの、私でよろしいのでしょうか……?」
「もちろんよ!」
ためらうローレルに、ソフィアは即答する。
「うちの子は男二人でしょう? 気の利いたおしゃべりなんて、ちっとも出来ないのよ。ねえ、それより今度、一緒にドレスを選ばない?」
「えっ……ええっ!?」
「そうだわ、すぐにでも屋敷に仕立て屋を呼びましょう!」
ぐいぐいと話を進めるソフィアを前に、ローレルは完全に目を回していた。
「母上、あまり困らせないでください」
「あら、服は必要でしょう?」
「それはそうですけど……」
ルークがため息をつく。
だが内心では、少しだけ安堵していた。
放っておけば、ローレルはきっと遠慮してしまう。
母のように最初から距離を詰めてしまう相手の方が、かえって彼女には楽なのかもしれない。
「ローレルさんは、どんなお菓子が好き?」
「お菓子……ですか? クッキーなら、たまに神官の方々が食べているのを見たことがあります」
「まあ。では、クッキー以外のお菓子もたくさん教えてあげなくてはね!」
押しの強いソフィアに流されながらも、ローレルの表情は少しずつ和らいでいく。
その様子を見て、ルークは静かに息を吐いた。
「なんという……」
ベレスフォード王国の王太子ジョシュア・ベレスフォードは、ウォーベック侯爵とヘンリーからの報告を受け、呆れたように額へと手を当てた。
隣国から聖女がやって来た。
しかも先方が勝手に追放したというのだから、本来なら願ってもない話だ。
だが、あまりにも都合が良すぎて、さしものジョシュアも戸惑いを隠せない。
それに、ウォーベック侯爵が謁見を求めたのとほぼ同時に、神殿からも報告が上がっていた。
強い神聖力を持つ女性が現れた、と。
両方の情報を突き合わせれば、それがローレルを指しているのはまず間違いない。
ラドクリフ神聖国は、大陸随一の強国である。
もっとも、それも聖女の恵みに支えられてこその話だが。
その国と事を構えるのは得策ではない。
しかし、相手が勝手に追放した聖女を保護することに、何の落ち度があるというのか。
「こちらとしては願ってもない話だが……それにしても、なんと愚かなことをしたものだ」
「まったくでございます」
ユーインが重々しく頷き、ヘンリーは苦笑を浮かべる。
その時だった。
「殿下、失礼いたします。急ぎのご報告が」
「何事だ」
従者が駆け込み、ジョシュアは片眉を上げた。
「はっ。十年前に干上がった王都近郊のオアシスが、復活したとの報せが入りました!」
「何――?」
ガタリ、と椅子が鳴る。
ジョシュアが思わず腰を浮かしかけた。
誰もが予想しえない吉報だった。
そして、それを皮切りに。
ベレスフォード王城には、次々と朗報が舞い込むことになる──。









