4:本物の祈り
食事の最中に見せた柔らかな笑みは、既に消えていた。
ヘンリーの問いかけを受けたローレルの表情から、すっと色が抜け落ちる。
次に浮かんだのは、痛々しい自嘲の笑みだった。
「私は……聖女などと、とても呼べたものではありません」
掠れた声が、静かな食堂に響く。
「偽りの聖女、だったのです……」
「偽りって、おい」
ルークが思わず声を荒らげた。
兄とローレルの顔を見比べる。
ヘンリーが口にした以上、何か根拠があるのだろう。
兄は軽々しくものを言う人ではない。
けれど、どうしても納得できなかった。
聖女だというのなら、なぜローレルはこんなにも痩せているのか。
なぜ、腸詰めひとつであんなに目を輝かせたのか。
なぜ、誰より優しくて、誰より傷ついているように見えるのか。
何もかもが噛み合わない。
「君が偽なわけないだろう!」
思わず立ち上がりかけたルークを、ヘンリーが軽く目で制した。
それでもルークは収まらない。
「だって、君は現に俺を治してくれた! あれだけの力を持っていて、偽物なわけが――」
「……人を癒やすことは出来ても」
ローレルは小さく俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「私は、土地を潤すことが出来なかったのです」
その一言には、長い諦観が滲んでいた。
「毎日、祈りました。寝る時間も惜しんで……神官長様の教え通りに、紫水晶に神聖力を注ぎ続けました。でも……」
ローレルが、唇を噛む。
ラドクリフ神聖国の不作や水不足は、隣国ベレスフォードでも噂になっていた。
水の女神の加護に守られたはずの国が、ここ数年で急速に衰え始めていることは、二人も知っている。
だからといって、こんな娘ひとりにすべての責任を押しつけていいはずがない。
「それでも偽物だなんて、おかしいだろ」
ルークは低く唸るように言った。
「神聖力がある。それだけでも十分すごいことじゃないか」
「……でも、結果が出なかったんです」
ローレルは微かに笑った。
笑っているのに、その目はまるで泣いているようだった。
「きっと、私は女神様に嫌われているのでしょうね」
寂しげな笑みを前に、ルークは何も言い返せずにいた。
どれだけ祈っても、どれだけ力を注いでも、国は潤わなかった。
結果だけを見れば、ローレル自身が自分を責めてしまうのも無理はない。
だが、だからといって。
だからといって、こんなふうに追い詰められていいはずがない。
握りしめた拳に、爪が食い込む。
一方で、ヘンリーは別の部分に引っかかっていた。
(紫水晶……?)
ローレルの口から出た、単語。
小さな違和感が、じんわりと広がっていく。
“神官長様の教え通りに、紫水晶に神聖力を注ぎ続けました”
祈りの対象が水晶。
それも、神像でも祭壇でもなく、ただの紫水晶。
そんな祈りの形式など、ヘンリーは聞いたことがない。
(それはむしろ……)
ひやりと、背筋を冷たいものが伝う。
(魔石を作る手順ではないのか?)
魔石とは、魔力を石に蓄えたものだ。
それを用いれば、魔力を持たぬ者でも擬似的に魔法の力を使うことができる。
もし神聖力でも同じことが起こるのだとしたら──。
そこまで考えて、ヘンリーは唇を噛みしめた。
今ここで、軽々しく言うべきではない。
まだ確証はないし、何よりローレルの前で断定するには残酷すぎる。
弟はすでに彼女に強く肩入れしている。
半端な推測を口にすれば、余計に話が混乱するだけだ。
今、必要なのは──真実を確かめること。
「……少し休んだら、一緒に神殿へ行きましょう」
唐突な提案に、ローレルが瞳を瞬かせる。
「神殿、ですか?」
「ええ。こちらの神殿で、改めて祈っていただきたいのです」
「でも、私なんかが……」
「だからこそ、です」
ヘンリーは静かに言い切った。
ローレルは戸惑ったようにルークを見た。
ルークも事情は分からないながら、兄の真剣な顔を見て、小さく頷く。
「行こう、ローレル」
「……はい」
不安を抱えながらも、ローレルはおずおずと頷いた。
砂漠の只中にそびえる、ベレスフォード王国の大神殿。
この大陸は水が命であり、人々は古くから水の女神を深く崇めてきた。
白い石で築かれた神殿は陽光を受けて眩しく輝き、その佇まいにはどこか澄んだ神聖さがあった。
「皆様、ようこそお越しくださいました」
出迎えたのは、年配の神官だった。
ウォーベック侯爵家の名で先触れを出していた為、一行は滞りなく神殿の奥へと通される。
ローレルは、落ち着かない面持ちで辺りを見回した。
ラドクリフの神殿も、荘厳ではあった。
けれど、彼女の知る神殿は、ひたすら重苦しく、息の詰まる場所だった。
自室と、紫水晶の部屋──その往復ばかりで、他の場所をゆっくり見ることは、ほとんどなかった。
それに比べて、この神殿は明るい。
窓から差し込む光は柔らかく、どこか空気まで澄んでいるように思えた。
「この神殿に、祈りの間はありますか?」
ヘンリーの問いに、神官は穏やかに頷く。
「ええ、勿論。こちらへどうぞ」
案内されて辿り着いたのは、荘厳な祈りの間だった。
「わぁ……」
ローレルの口から、思わず感嘆の声が漏れる。
高い天井からは、色とりどりのステンドグラスを透かした光が降り注いでいた。
その先、部屋の奥には、白く美しい女神像が静かに佇んでいる。
ローレルは目を見張った。
神殿に長くいたはずなのに、こんなふうに“祈るための場所”に立ったことは、一度もなかったのだ。
「女神像の前で、祈ってみてください」
ヘンリーに促され、ローレルは恐る恐る前へ進み出た。
「……私で、いいのでしょうか」
「ええ」
彼女はそっと女神像の前に立つ。
胸の前で手を組み、静かに目を閉じた。
──次の瞬間だった。
ローレルの身体から、柔らかな白い光が溢れ出した。
「な――っ」
驚きの声を上げたのは、ルークだった。
いや、彼だけではない。
案内役の神官もまた、目を見開いて息を呑んでいる。
光は一瞬で祈りの間を満たし、まるで水面のように静かに揺らめいた。
冷たさはない。
むしろ乾いた砂漠に染み込む雨のような、優しく満ちる力だった。
女神像の周囲の空気まで澄み渡り、場そのものが祝福されているように感じられる。
ローレル自身は何が起きているのか気付かぬままに、ただひたすらに祈り続けていた。
神官は呆然とその光景を見つめ、それから掠れた声で呟いた。
「この方が……偽聖女?」
ヘンリーが低く返す。
「ラドクリフでは、そう扱われたようです」
「あり得ません」
神官は即座に言い切った。
「偽どころではない。これほどの神聖力……私も長く神に仕えておりますが、ここまでのものは初めて見ます」
ルークは何も言えなかった。
ただ、光に包まれたローレルを見つめる。
昨日、砂まみれで倒れかけていた少女と、今目の前にいる存在が、同じ人間だとは思えない。
それほどまでに、彼女は神々しく、美しかった。
やがて、光が静かに収まっていく。
ローレルがゆっくりと目を開け、戸惑いがちに振り返った。
「……あの」
「ローレル様」
年配の神官が、思わずと言った様子で一歩進み出る。
その瞳には驚愕と、深い敬意が宿っていた。
「ひょっとして……ラドクリフ神聖国は、本物の聖女様を追い出してしまったのですか?」
その問いが、祈りの間に重く響いた。
聖女追放の話は、すでにベレスフォードの神殿にも伝わっていたのだろう。
呆れと困惑を滲ませた神官の声に、ヘンリーは深く息を吐いた。
──どうやら、最悪の予感は当たってしまったらしい。









