10:返還要求
翌月、ローレルはウォーベック侯爵家の面々とともに、ベレスフォード王国の王城へ招かれた。
高い天井。
磨き上げられた床。
厳かな空気の漂う謁見の間に足を踏み入れただけで、ローレルの背筋は強張る。
ラドクリフ神聖国の王城で受けた仕打ちが、どうしても脳裏をよぎってしまうのだ。
そんな彼女を迎えたのは、ベレスフォード王国の王太子ジョシュアだった。
「よく来てくれました、ローレル殿」
その声音は穏やかで、視線にも威圧や侮蔑はない。
そのことに、ローレルはかえって戸惑ってしまう。
「貴女のおかげで、今やベレスフォードの大地は潤いに満ちている」
「そう……なのですか?」
ローレルは目を瞬かせた。
ベレスフォードへ来てからというもの、ラドクリフ神聖国にいた時のように、一日中祈り続けているわけではない。
ただウォーベック侯爵邸で暮らし、人と食事をし、時に笑い、時に神殿で祈ることもある――その程度だ。
それなのに、どうして大地に実りが戻るのか。
ローレル自身には、まだ実感が持てていない。
「古い文献によれば、本来、聖女は特別な祈りを必要としないらしい」
そう口を開いたのはヘンリーだった。
「聖女とは、その存在そのものが女神の祝福を呼ぶ者なのだと」
「そんな……」
ローレルの声が小さく上擦る。
毎日のように祈りを強いられていた、あの日々は何だったのか。
国のために力を尽くすのは当然だとされ、休むことさえ許されず、祈りが足りないのだと責められ続けた。
「ただそこに在るだけで、大地を潤す。それが本来の聖女なのだろう」
「でも、私は……ラドクリフの土地を、癒やせませんでした……」
ローレルがぽつりと呟く。
その声には、未だ拭えぬ深い悲しみが滲んでいた。
どれだけ説明されても、すぐに割り切れるものではない。
自分は役立たずだった。
偽物だった。
そう思い込まされてきた時間は、あまりにも長いのだから。
「……あんな状況で、誰が聖女の力を発揮できるっていうんだ」
堪えきれず、ルークが低く漏らした。
謁見の場であることを忘れたわけではない。
それでも、ローレルが自分を責める度に、腹の底が煮え滾る思いがした。
「愛し子である聖女を虐げておいて、女神が恵みを与えると本気で思うのか」
その言葉に、ジョシュアは静かに目を細めた。
既に事情は聞いている。
だが実際にこうして見ていると、ウォーベック家の次男がローレルに寄せる想いは、単なる同情ではなさそうだった。
「殿下、お願い申し上げます」
ルークが一歩進み出る。
「どうかローレルを……あんな連中の手に、二度と渡さないでください」
「無論だ」
ジョシュアは迷いなく頷いた。
「ベレスフォードにいる限り、彼女は我が国が守る」
力強い言葉に、ローレルが顔を上げる。
守る、と。
そうはっきり言われたことなど、これまで一度もなかった。
そして、その言葉が試される機会は、ほどなくして訪れることになる。
ラドクリフ神聖国から、ベレスフォード王国へ特使が送られてきた。
ローレルを国境まで送り届けた騎士の報告だけではない。
ベレスフォードに水と緑の恩恵が戻り始めたという報せもまた、ローレルがこの国に居ることを裏付けていた。
特使として遣わされたのは、王宮で文官を務めるビル・ギンズベリー子爵だ。
謁見の間へ通された彼は、ラドクリフ王太子アリスターから預かった書簡を恭々しく掲げ、朗々と読み上げた。
「これなるベレスフォードの地に、聖女ローレルが滞在していることは、すでに調べがついている。よってベレスフォード王家は、速やかに聖女ローレルをラドクリフ神聖国へ返還すべし」
一方的な宣告だった。
ジョシュアの眉間に、うっすらと皺が寄る。
だが、ギンズベリー子爵は構うことなく言葉を続けた。
「なお、返還に応じぬ場合は、これまで行ってきた貴国への水と食糧の輸出を停止する。直ちに我らが要求を受け入れよ――とのことにございます」
謁見の間に、ぴんと張りつめた沈黙が落ちる。
自ら聖女を国外追放しておきながら、今更返せと言う。
そのうえ、応じなければ水と食糧を止めると脅しまでかけてくる。
何とも身勝手で、傲慢な話だった。
ベレスフォードはこれまで、長くラドクリフからの輸出に高い代価を払わされ続けてきた。
関税は重く、水も食糧も決して良心的とは言えぬ条件で買わされてきたのだ。
ジョシュアは小さく息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。
「そちらの言い分は、よく分かった」
「ならば――」
「だが、断る」
ギンズベリー子爵は、ぽかんと口を開けた。
「……今、何と?」
「断る、と言った」
ジョシュアの声音は落ち着いていた。
それだけに、その拒絶は揺るぎないものとして響く。
「聖女ローレルは、貴国が自ら国外追放した者だ」
「それは……事情がありまして!」
「事情?」
ジョシュアの声に、冷たい皮肉が混じった。
「追放しておいて、都合が悪くなれば返せと言う。それを事情と呼ぶのか」
ギンズベリー子爵の頬がみるみる赤くなる。
「そ、それでも! 我が神聖国を敵に回すおつもりか!?」
「敵に回しているのは、どちらだ?」
静かだが鋭い返しだった。
「そもそも、今のローレルは我が国に庇護を求めている身だ。そして――」
ジョシュアは玉座の間に響くよう、はっきりと言い切った。
「今や、我が国の民でもある」
ギンズベリー子爵は絶句した。
ローレルの存在がもたらしている恩恵を、もはやベレスフォード王家は疑っていない。
このまま祝福が広がれば、水も食糧も、いずれは国内だけで賄えるようになるだろう。
ラドクリフ神聖国に頭を下げ続ける時代は、終わるのだ。
「……今に、後悔なさいますぞ」
子爵は唇をわななかせながら言った。
「後悔しているのは、そちらではないのか?」
ジョシュアの言葉が、静かに突き刺さる。
ギンズベリー子爵は、ぐっと奥歯を噛みしめた。
このままでは王太子アリスターに顔向けできない。
ただ追い返されました、では済まされない話だ。
(ならば……やむを得まい)
胸の内に浮かんだ醜い打算を必死に押し隠し、ギンズベリー子爵は深々と頭を垂れた。
「……承知いたしました。では、本日のところはこれにて」
その伏せられた目には、従順さとは別の光が宿っていた。









