1:偽りの聖女
砂漠の大陸にあって、唯一、水の女神の加護に守られた国──ラドクリフ神聖国。
かつては砂漠の楽園とまで称えられたその国も、近年は見る影も無い。
潤っていたはずの大地はひび割れ、オアシスの水位は年々下がり、民は空を仰いでは雨を求めるようになっていた。
その原因について、誰もが噂していた。
“聖女が役に立たないからだ”と。
「まだです。手を止めてはなりません、聖女様」
神官長の低い声が、神殿の奥まった一室に響く。
聖女ローレルは、石床に膝をついたまま、小さく肩を震わせた。
目の前に据えられた巨大な紫水晶は、彼女が神聖力を注ぐ度に、ギラギラと不気味な光を返している。
朝から、何も口にしていない。
唇は乾き、指先は痺れ、祈りの言葉を紡ぐ喉もひりついていた。
それでも、ローレルは両手を組み、必死に祈り続けている。
聖女の祈りが、国を潤す。
神官長カールは、いつもそう言っていた。
けれど何時間祈っても、何日祈っても、外の景色は少しも変わらない。
紫水晶だけが、目映いばかりに輝きを増していく。
(どうして……?)
眩みそうになる視界の中で、ローレルは唇を噛んだ。
(どうして、毎日こんなに頑張っているのに、土地は豊かにならないの……?)
祈りが足りないのだろうか。
自分の力が弱いのだろうか。
それとも──。
「……今日は、ここまででよろしいでしょうか」
ようやく絞り出した声は、情けないほど掠れていた。
カールは白い法衣の袖を揺らし、ゆっくりとローレルを見下ろした。
神官長カール・フォレット。
ラドクリフ神聖国でも有数の大貴族、フォレット公爵の弟であり、神殿内でも絶大な権力を誇る男だ。
「女神の加護が薄れている今、休んでいる暇などありません」
「……申し訳、ございません」
叱責に、ローレルは慌てて頭を下げる。
謝りながらも、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
ローレルは孤児だった。
孤児院の前に捨てられていて、親の顔も見たことがない。
七歳の頃に神託が下り、聖女となってからは、国のためだけに生きてきた。
だが、身分格差の厳しいラドクリフ神聖国で、平民の──それも孤児の聖女が歓迎されるはずもない。
『平民の聖女など、前代未聞だ』
『神託が誤っていたのではないか』
『慣習に従って、平民を娶らなければならない王太子殿下がお気の毒だ』
王城でも神殿でも、顔を合わせるたびにそんな言葉を浴びせられてきた。
聖女は国の宝だと、皆は言う。
けれどローレルは、一度だって宝物のように扱われたことがない。
(私だって……好きで聖女になったわけじゃないのに)
それでもローレルは祈り続けた。
罵られても、疎まれても、国が救われるならそれでいいと思っていた。
だが、現実はどうだ。
神殿の外に出れば砂埃が舞い、民は疲れ切った顔で水を求めている。
作物は育たず、井戸は浅くなり、かつて楽園と謳われた神聖国は少しずつ枯れつつあった。
そして、民の不満は、祈りの届かぬ聖女へと向けられていく。
「聖女ローレルよ」
その日、ローレルは謁見の間に呼び出された。
「はい」
額に汗を滲ませて、ローレルが顔を上げる。
病床の国王に代わって玉座の前に立っていたのは、王太子アリスター・ラドクリフだった。
名目上はローレルの婚約者でもある男。
だが、彼がローレルに向ける視線は、まるで汚らわしいものでも見るかのように冷え切っていた。
高貴な金髪に端整な面差し。
誰もが見惚れるほどの美貌を持ちながら、その瞳に宿るのは侮蔑だけ。
「なぜ、貴様の祈りは役に立たないのだ?」
ローレルの肩が、ピクリと震える。
「申し訳ございません……」
謝るしかなかった。
なぜと問われても、ローレルにも分からない。
神官長の教えに従い、毎日身を削って祈り続けている。
それでも、国は豊かにならない。
ローレル自身が、誰よりも苦しんでいることだった。
「申し訳ございません、だと?」
アリスターが鼻で笑う。
「不満の声は、日に日に大きくなっている。にも関わらず、お前はただ謝るだけか」
「わ、私は……」
「まったく役に立たんな」
吐き捨てるような言葉に、ローレルは俯いた。
視界が滲む。
だが泣いてはいけないと、必死に堪える。
「もうよい。お前に期待した俺が馬鹿だった」
「……は」
「聖女であること以外、何の価値もない女だというのに、その肝心の祈りすら届かぬとはな」
その一言は、刃のように胸に突き刺さった。
ローレルは深く頭を下げたまま、震える唇を噛む。
何か言わなければと思うのに、喉がひりついて言葉にならない。
「下がれ」
「……失礼、いたします」
やっとの思いで一礼し、謁見の間を辞そうとした、その時。
「チッ、この役立たずが」
王太子の舌打ちが、背中越しにはっきりと聞こえてきた。
ローレルの足が、一瞬止まる。
けれど振り返ることも出来ず、そのまま再び歩き出した。
どうして祈りが届かないのか、ローレルには分からない。
ただ一つ、思い知らされることは──、
(私は、女神様に見放されているんだ……)
広い王城の廊下。
俯きがちに歩くローレルの足下に、ぽたりと雫が落ちた。
神殿の神官長が王太子に謁見を求めてきたのは、丁度ローレルとの謁見が終わった時だった。
「通せ」
「はっ」
従者に導かれて現れたのは、神官長カール・フォレット。
白い法衣を纏った男は、恭しく頭を下げながらも、どこか余裕を滲ませていた。
「殿下にご報告があって、まかり越しました」
「なんだ」
アリスターの苛立ちを孕んだ声に対し、カールはわずかに口元を吊り上げた。
「あれなる聖女は、やはりまがい物かと」
「……何?」
アリスターの目が細く眇められる。
「聖女ローレルは、女神の寵児ではありません。真に選ばれし者は、別に居たのです」
「証拠はあるのか」
その問いを待っていたかのように、カールは静かに告げた。
「我が姪エリザベスが、聖女の力に目覚めました」
次の瞬間、アリスターの瞳が見開いた。
「――でかしたぞ!!」
勢いよく立ち上がった王太子の顔には、隠しきれない喜色が浮かんでいた。
フォレット公爵家の令嬢、エリザベス。
社交界でも名高い美姫であり、血筋も教養も申し分ない。
アリスターの脳裏に、柔らかな金髪を揺らす優美な令嬢の姿が浮かぶ。
平民の孤児ではなく、ああいう女こそ、自分の隣に立つにふさわしい。
未来の王妃となるべき聖女がみすぼらしい平民などと、あってはならないのだ。
「やはり、神託は間違いであったか」
「ええ、これで全て正されるでしょう」
翌日、ローレルは神聖国の騎士たちによって、無理やりアリスターの前に連れ出された。
何の説明もないまま両脇を固められ、鋭い槍先を向けられる。
まるで重罪人でも扱うかのような物々しさに、ローレルの顔から血の気が引いた。
「殿下……これは、一体……」
震える声で問いかけても、答える者は誰も居ない。
王太子アリスターの隣には、見覚えのない一人の令嬢が寄り添っていた。
陽光を思わせる金髪に、眩い宝石を散りばめた豪奢なドレス。
その女は、ローレルがこれまで見たこともないほど華やかに着飾り、勝ち誇った笑みを浮かべている。
「よくも我らを謀ってくれたな」
アリスターの怒声が、場の空気を震わせた。
「え……?」
「平民如きが聖女など、おかしいと思っていたのだ! 一時でも貴様を信じた俺が馬鹿だったわ!」
「ち、違……」
違いますと言いかけて、ローレルは言葉を失った。
何が違うのか、どう説明すればよいのか、自分でも分からなかった。
ローレルは、ただ言われるがままに祈りを捧げただけだ。
誰かを騙した覚えなど、微塵も無い。
だが、アリスターはそんなローレルを見ようともせず、女性の肩を抱き寄せる。
「彼女こそ真の聖女、エリザベス・フォレットだ」
「初めまして、聖女ローレル様……いいえ、元聖女様とお呼びした方がよろしいかしら」
うっとりと微笑むその顔は、息を呑むほどに美しい。
それだけに、目の奥に浮かぶ嘲りが、ひどく残酷に思えた。
「本来であれば首を刎ねても飽き足らんところだが、一応はお前にも神聖力があるからな」
「まぁ、なんとお優しい」
アリスターの言葉に、エリザベスがうっとりと表情を蕩けさせる。
「殿下は慈悲深くも、国外追放で済ませてくださるそうよ」
「国外……追放……?」
ローレルの声は、掠れていた。
「今後、我がラドクリフ神聖国は、新たな聖女エリザベスのもとで豊かさを取り戻すであろう!」
アリスターの宣言に、居並ぶ騎士たちが一斉に声を上げた。
「新たな聖女に栄光あれ!」
「未来の王妃殿下に忠誠を!」
神殿を揺るがすような歓声の中で、ローレルだけが立ち尽くしている。
国外追放。
元聖女。
未来の王妃。
聞き慣れぬ言葉が、耳の奥でこだまする。
聖女の座を失った。
同時に、王太子の婚約者という立場も奪われたのだと、ようやく理解出来た。
(……ああ)
視界が、ゆっくりとぼやけていく。
(ここには、最初から……私の居場所なんて、なかったんだ)
ローレルは覚束ない足取りで、その場を後にした。
どうせ部屋に戻ったところで、持ち出すようなものは何一つない。
支給された粗末な神官服が数着あるだけだ。
ほどなくして騎士たちがやって来て、ローレルを乱暴に馬車へ押し込めた。
向かう先は国境。
ラドクリフ神聖国と隣国ベレスフォード王国の境にある小さな村を過ぎたところで、ローレルはたった一人、街道に放り出された。
それから、どれほど歩いただろう。
照りつける陽射しの下、ローレルは裸足のまま、ふらふらと街道を進み続けていた。
与えられた水も食糧も、ほんのわずか。とっくに底をついている。
足の裏は熱を持ち、細かな石で傷つき、喉は焼けるように痛んだ。
それでも立ち止まれば、そのまま二度と起き上がれない気がして、前へ進むしかなかった。
今自分が歩いているのが、まだラドクリフ神聖国の土地なのか。
それとも、すでにベレスフォード王国へ入っているのか。
そんなことすら、もうローレルには分からない。
視界が霞み、膝が折れそうになった、その時だった。
がさりと、街道脇の茂みが揺れる。
「あぁん? なんだぁ、この女は」
ぞっとするような低い声が響き、ローレルは思わず顔を上げた。
「随分と汚ぇな」
「まあ、でも女には違ぇねぇ」
「へへっ、いい拾い物じゃねぇか」
革鎧を纏った男たちが、にやにやと下卑た笑みを浮かべながら姿を現す。
腰には剣、頬には古傷、どう見ても堅気ではない。
──盗賊だ。
「ひっ」
声にならない悲鳴が漏れる。
逃げなければ。
そう思うのに、疲れ切った足は、鉛のように重い。
男達が、獲物を囲い込むように、ゆっくりと近づいてくる。
ローレルは青ざめた顔で、一歩、二歩と後退った。









