最後を思い出す二人
ふうふうと天を仰ぎ、トラックの芝の上に身を預ける二人。
汗に濡れた体操着が芝生に張り付き、息継ぎの音だけが夏の空に吸い込まれていく。
「トラックを十二周半、合計五千メートルか。だいたいこれで二〇分きるくらい。短距離一〇〇メートルは一三秒弱。女子陸上選手の県大会記録だったらまあまあだが、『異世界』のときに比べれば雲泥の差だな。やはりこの――」
そう言いながら憂衣那は自分のお腹をぽんと叩く。
「フィジカルが限界だな。いくら鍛えて、頭で動かせても女性の筋肉には限界があるっつ―ことだ」
息もたえだえなイ兎がむせながら同意する。
「......早く動かそうとしても、筋肉に負荷がかかりすぎて......ちょっと足がつったかも......」
憂衣那はそっとイ兎の足を取り、マッサージする。
「それにしてもなんでだ?普段はこんな激しい運動しないくせに。それも、全力で」
ぐん、とイ兎の足の甲を憂衣那は伸ばす。イ兎は思わずうめき声を上げた。
「......いたぁ......この間、フュルステンベルク中将――いや、ゆさか副会長にされたこと覚えてる?」
体育祭のあと、階段でおきた事件。
二人を『異世界』から来たことを喝破し、そして銃弾を二人に放った。
「あのとき――私は瞬時に弾丸を避け、憂衣那はそれを受け止めた」
ぎゅっと力を入れる憂衣那。ぐぅ、とイ兎が反応する。
「脳が反応しても、フィジカル的には不可能だと思う。実際に全力で体力を使ってみたけど、女子陸上選手の上澄み程度しか動きは良くない。憂衣那もだよね。この体で私の足をねじれるほどの握力はないよね?」
「ないわけではないが――まあしないな。海軍軍人だった頃なら、頭だってねじ切れたと思うよ」
「なら――もしかして、『マシーネンフュルスト』の能力がこの世界でも発動できたのかと思った」
無言になる憂衣那。なるほど、と一言いった限り再び右手に力をいれイ兎の腿をマッサージする。
「『マシーネンフュルスト』の能力――たしかにな、それなら合点は行く――」
憂衣那の回想。
オストリーバは基本内陸国である。海軍は北の島国アングルハイム連合王国に著しく劣っていた。
結果、潜水艦による通商破壊が海軍の戦略の基本となる。
「それも今日までの話である!」
オストリーバ皇帝の演説。
大海軍建艦計画を掲げ、戦艦や巡洋艦の建設に着手する。
その目玉が戦艦『ラングトール』であった。
竣工当時としては世界最大の主砲を持ち、巡航速度も巡洋艦並みのスピードを出すことができた。
まさにオストリーバ海軍のフラッグシップである。
その戦艦に副長として乗り込んでいたのがローベルト=フォルクヴァルツ少佐――『異世界』の憂衣那であった。
霧の中、オストリーバ海軍の本拠地ガルンハーフェンを出港する戦艦『ラングトール』。その周りには二隻の軽巡洋艦と三隻の駆逐艦がいるばかりである。
これが『大陸大戦』末期のオストリーバ海軍の総力であった。
本来は潜水艦乗りのローベルト少佐。しかし、もはや通商破壊の段階ではない。
まるで劇場の舞台のような戦艦『ラングトール』にたち、霧の中紫煙をくもらす。彼の瞳にはすでに終幕をさとる影が宿る。ゆらめく煙の向こうに覗く海は、どこか冷たく感じられた。
『艦隊はガルンハーフェンの封鎖を突破し、敵上陸部隊の根拠地となっているヴァルガルド半島を砲撃すべし。皇帝命令一二四四六号』
ふん、と唇の端をわずかに持ち上げ、鼻先で冷ややかに息を鳴らした。
もはや勝敗は決している。いまさら敵の根拠地を叩いたとてなんの意味があろうか。
しかし、ローベルト少佐は理解していた。海軍はこの船――戦艦『ラングトール』がある限り、戦い続けなければならない。この船がある限り、負けることは許されないのだ。ならば答えは簡単である。
この船の特攻を持って、オストリーバ海軍の幕引きを図ろうというのである。
未練はない。これが軍人としての本望なのだろうから。
「しかし、もう一度会いたかったな――奴に。エリーアス=フォン=ヒルベルト、もう一度あって酒でも酌み交わしたかった。この戦いの前に」
そう言うと、艦橋の中に静かに消えるローベルト少佐。
その時が来るのは――その一三時間後のことであった。
『四時方向より敵艦爆連合発見!後ろを取られました!同航戦!対空戦闘用意!』
そう、監視からの連絡を受ける司令部。
司令官も艦長もゆるぎだにしない。
艦隊を守る航空機が一機もない状態。遅かれ早かれ敵艦載機の襲撃を受けるのは規定事実であった。
アングルハイム連合王国の艦上爆撃機が急降下爆撃を行う。また別な方向から飛来した攻撃機が魚雷を投下する。
必死に対空射撃を行う戦艦『ラングトール』だったが、ついに最後の時を迎えようとしていた。
爆弾の一発がついに弾薬庫に達し、誘爆して船体を吹き飛ばしたのだ。
艦橋も横倒しとなり、海水が溢れこむ。
その中で、悠然と立つローベルト少佐。司令部がほとんど壊滅したのにもかかわらず、彼だけは不沈艦のように――