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前編

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〇星守教の山神太一


 1


ここ北海道南幌町立美園高等学校は、明日の卒業式を最後に閉校することが決まっている。そして今日は卒業式の前日、予行演習日。教員たちも有終の美を飾るため、全員が予行演習に参加する予定だ。

「そうだ、せっかくだから先生方だけで記念撮影しませんか?」

 山神は職員室の真ん中で、全員に聞こえるように言った。教員は今日、八人全員が出勤してきていた。

「いいですね」

 山神の前に座っていた古文の女教師が賛同したことで、全員が一度手を止め、職員室の真ん中の通路に集まった。

 山神は、まず自分が撮りますと手を挙げ、通路付近に集まった教員たちから離れた。五歩ほど下がったところでスマホを構えた。

「あ、立花先生、もうちょっと右に。佐川先生もっと寄って……!」

「え~? こうですか~?」

「そうです、あ、でも、もっと全体的にコンパクトにお願いします!」

 山神の指示に従い教員たちは体を寄せ、ほどよく雁首をそろえた。

「すみません、僕の言い方が悪いですね。ちょっと……」

 場所の微調整をするように見せかけ、山神はスマホをいったん机の上に置いて教員たちのほうへ歩いていく。

 両端にいる教師を内側に動かした後、満面の笑みを作った。

「いいね」

そして凶器を懐から素早く取り出し、山神を除く七人の教師たちの首を一瞬のうちにかっさばいた。

 ——ズシャッ!

 山神の頭に、血のシャワーが降りかかる。首を押さえもがき倒れる教頭、目を見開いたまま額から床に落ちる女教師、手を伸ばしながら、口をパクパクと動かす男の教員……。

 ——ああ、やっぱり首を切るのは一番気持ちがいい。

 久しぶりに殺しの味を堪能し、山神は喜びを感じた。両手を広げ、深く息を吸う。

鼻腔を通って肺に入ってくる血の味が、本来の自分を呼び起こしたような気がした。

山神は昨日かかってきた電話を思い出す。

『久しぶりだな、太一』

『お久しぶりです。どうしたんですか』

『朗報だ。日本での準備が整った。明日から仕事に取りかかれ』

『……え? 本当ですか?』

『ああ、三年間も待たせて済まなかったな。だが、もうすべての機関は星守教に堕ちた。あとは実行するのみだ。……もしや任務の内容、忘れてないだろうな?』

『いえ、ご安心を。いつでも始められるよう、片時も準備を怠ったことはありません』

『ならいい。詳細は追って連絡する。期待しているぞ』


 赤く濡れた手でスマホを手にした山神は、外で待機している仲間に連絡する。

「邪魔者は排除した。入ってこい」

 通話を終え、腕時計を見ると、八時十五分だった。もう教え子たちは教室に集まってきているころだろう。

 ——ああ、楽しみだ! あいつらのことも、これからの人生も! 

 肉の塊となった元教員仲間たちを跨ぎ、山神はシャワー室へ向かった。


〇いじめられっ子の佐々木高志


 1


 佐々木の鼻面に、雪のついた靴裏が叩きこまれた。一瞬の浮遊感の後、後頭部と背中が冷たいものにぶつかった。

目の前には二人の男子生徒がおり、その後ろには高さ二メートルほどの薄緑色のフェンスが見える。朝だというのに日が差していないのは、この場所が校舎裏に位置するからだ。

佐々木の背後にあるクリーム色の校舎の壁は、大量の雪で白く染まってしまっている。地面も同様、白で覆われている。

蹴られた佐々木は、鼻から温かいものが垂れてくる感じがして手をかざした。だが間に合わなかった。白銀の地面に赤い点が二つできた。

——最悪だ、鼻血出てきた……。

佐々木は鼻を押さえ、片目をつむりながら上体を起こした。目の前に立つ二つの影を見上げた。

舌打ちをし、薄茶色のブーツを地面にこすりつけているのは吉田和真という男だ。バスケットボールで鍛えられた肉体は縦にも横にも大きく、一般人よりも太い首の上に、小ぶりな頭が乗っている。側頭部は青く刈り上げられており、短い前髪は整髪料で立ててある。

 吉田の隣には、吉田と親しげに話す糸目の男がいた。河崎拓也である。平均的な身長だが、その割には痩せている。吉田と対照的に髪には何もつけていないようで、凍える風がときおり、そろった前髪を揺らしていた。

「ねえ、もっとやろうよ。仕置きが足りないって」

「こんなカス、殴る価値もねえよ。つか我慢できなくて蹴っちまったけどな」

 いまだに蹴ったほうの足を雪にこすりつけている吉田は、眉間にしわを寄せている。その様子を見ていた河崎は、吉田のコートの袖をちょいと握り、残虐な目を向けた。

「いいから、やろう?」

 喧嘩でもスポーツでも吉田に勝てるものなどいない、というのが美園高校での通説なのだが、こと残虐性に限っては違った。つまり、頭のネジがぶっ飛んでいるのが河崎なのだ。

日々いじめられている佐々木にとっては、フィジカルの強い吉田よりも、いかれている河崎のほうが天敵だった。

 吉田はため息をついた。

「ったく、わかったよ。……まあ俺の女に怪我させたんだ、これくらいじゃ済まないのは当然だ」

「そうこなくっちゃ! じゃ、次俺の番ね~」

 指を鳴らしながら、河崎が雪を踏みしめて近づいてくる。ふだんの河崎の糸目とは違い、奥のほうに強い嗜虐の感情が佐々木には見えた。逃げ場をなくした弱者を狩る、獣のような笑みを浮かべている。

尻もちをついている佐々木の前に立った河崎が、黒いブーツの先端を佐々木の顎に当てた。

「立てよ」

 佐々木は言うとおりに立ち上がる。ここで抵抗したら、もっとひどい仕打ちが襲いかかってくる、と心が知っているからだ。

 泣きそうになる気持ちを押さえ、佐々木は突っ立って、自分よりも一回り高い視線と目を合わせる。

口角を上げた河崎が利き手とは反対の腕を伸ばし、佐々木の襟を掴んだ。

軽く持ち上げられる感覚。最低限の防御として、歯を食いしばる。

引き絞った拳が、佐々木の頬を打ち抜いた。幸いにも非力な河崎の拳は、口内を切るだけで済んだ。吉田の拳ではこの程度で済まなかっただろう。だが連続して撃たれていくうちに、血の味がどんどん濃くなっていった。

 何度目かの拳の往復が、後ろで待機していた吉田の声で止まった。

「拓也、そろそろ交代だ」

「え~、もう~?」

 最後にもう一度、今度は腹に衝撃がきた。河崎は襟から手を離し、いつもの笑顔を佐々木に向けた。

「おまえってさ、ムカつくとか、そういう感情なくしちゃったの? もっと前みたいにさ、こっちを楽しませるような顔しろよ、つまんない」

 憎たらしいその表情とセリフに、佐々木は歯をあらん限りの力で食いしばったが、それでも睨みつけたり拳を握ったりすることはなかった。

——明日で終わりだ、だから我慢だ我慢。

 涙や苦しい表情を見せると河崎はテンションが上がるので、佐々木は心の奥底に感情を封じ込めた。

 片手をポケットに突っ込んだ河崎が、首を鳴らして歩いてくる巨漢とハイタッチをして交代した。河崎より遥かに高い位置から見下ろす吉田のこめかみとおでこには、はちきれんばかりの太い血管が浮き出ていた。佐々木の眼前に立つと、吉田は佐々木の髪を掴んで持ち上げた。

「さっき冷静になってみたら気づいたんだけどよ、お前、謝罪の一つもしてないよな。普通人の彼女に怪我させたら、彼氏に謝るよな。ああ⁉」

 髪が引っ張られて頭皮が焼けそうなくらい痛い。佐々木は即答した。

「ごめん」

「それが人に謝る態度か?」

 自分で持ち上げたにもかかわらず、吉田はその太い腕で力任せに佐々木の頭を沈めた。

「いいか? ごめんだけじゃ何に謝ってるのかがいまいち伝わってこねえんだよ。ちゃんと俺の彼女に何をしたのかを言ってから、それについて謝れ。——土下座でな」

 首がもげそうな威力だった。後頭部が上から強く押され、額が硬い雪の地面に激突した。鼻血が勢いよく吹き出す。

貧血のようにくらくらするなか、前方の薄茶色のブーツに焦点を合わせる。吐きそうになりながらも息を整え、謝罪の言葉を口にした。

「昨日、ぼくは橋本さんを怪我させてしまいました。すみませんでした」

 結果的に怪我をさせてしまったのは事実だが、実際佐々木は橋本を助けようとしたのだ。

——昨晩、佐々木家の鮮魚店に買い物に来たクラスメイトの橋本杏奈は、レジ打ちをしていた佐々木からレシートをもらい忘れた。佐々木は呼び止めたが、彼女はイヤホンをしていたので気づかず、そのまま店を出て行ってしまった。佐々木はレシートを渡すために追いかけた。

 狭い通路を通って帰ろうとしていた橋本の背中に追いついて肩を叩いたとき、突然、屋根の上にあった巨大な雪庇が橋本の頭上に落ちてきた。そのことに気づいた佐々木は咄嗟に彼女を突き飛ばし、雪の塊から守った。しかし結果的に、橋本は氷の地面に腕を擦り、怪我をしてしまったのだ。

——というのが真実で、佐々木が何もしていなかったらもっと酷いことになっていたかもしれないんだよ。……とは言えなかった。言い訳や口ごたえと取られて、火に油を注ぐことになってしまうからだ。

額を地面にこすりつけようとするが、その前に硬い感触に阻まれる。

「ちゃんと言えよ。どこをどんなふうに怪我させたかを」

 吉田の靴の先端が、怒りに満ちた力で跳ね上がる。佐々木の額は蹴り上げられた。眉間にしわを寄せた吉田の顔と、少し離れて笑っている河崎の顔が視界に入り、脳が揺れた。

「……手のひらと手首に擦り傷、あとは腕も打撲しているかもしれないです。すみませんでした」

 土下座すると、今度はどこにも痛みはこなかった。どうやら回答に成功したようだ。誠意が伝わったのかもしれない。——そんなものを佐々木は一度も二人に向けたことがなかったのだが。

 いいと言われるまで地面につけていようと思っていた頭が、しゃがみ込んだ吉田によって、強引に引きはがされた。近くに寄せられた獰猛な肉食獣のような眼が、佐々木を射抜いた。

「次やったらマジで殺すからな」

 ゴミを捨てるように投げられた佐々木は、よし、これで終わりだ、と安堵した。もちろん内心の怒りは計り知れない。

だが今日と明日で高校生活が終わるという素晴らしい理由があるので、佐々木は耐えることができた。それどころか、もうこいつらと会わなくて済むようになる、と逆に嬉しい気持ちになりさえした。

吉田と河崎が去っていくのを確認すると、佐々木は鼻をつまみ、口に溜まった血の味を雪で薄め始めた。鼻血は寒いからか、すぐに固まった。

雪の冷たさと痛みの熱が交互に襲ってくるなか、佐々木はなんとか体を起こした。膝に手をついて立ち上がり、深いため息を吐く。自分の口から出た白い息を眺めていると、その先にどんよりとした雲が見えた。まるで佐々木の人生を物語っているようにも思えた。

——はあ、ぼくの人生って、ほんとあんな感じだよな。

 佐々木は体についた雪をはらい、冷たいポケットからスマホを取り出した。画面を鏡代わりにして傷跡に雪を当て、血が目立たないように薄くしながら歩いた。

校舎裏から表に出る角に差しかかろうとしたとき、こちらに向かって走ってくるような足音がした。佐々木は動きを止め、スマホをズボンのポケットにねじ込んだ。

——まさか、また戻ってきたのか。

 その予想は見事に的中した。まるで子供のような無邪気な笑顔で、河崎が戻ってきた。

「いやさ、なんで帰ってきたって、そう思ったでしょ? さっき教室に行く間に考えてたんだよ、卒業の思い出になるもの、何かないかな~ってさ。そしたら、いいアイディアが浮かんできてね?」

 気色悪い笑顔で、吐き気のするセリフを口にする河崎。そろった前髪を全部引きちぎりたくなったが、それはしない。黙って異常者の言葉が終わるのを待つ。

「気持ちよくて、忘れられないものがいいなって思ってね~。……で、思いついた。お前の鼻を折る!」

 気持ちよくて、と聞いたとき、一瞬この場で犯されることを危惧したが、違う内容だったため少し安心した。冗談でもなんでもなく、そういうことをやる奴なのだ。

河崎は高一のとき、中学生をレイプしたことがある。狭い地域なので、蓋をしたつもりでもすぐに情報は漏れて出回ってしまうのだ。

河崎の腕が伸び、佐々木の左肩をがっしりと掴んだ。

「いっくよ~!」

 幼稚なかけ声を出しながら、河崎の硬く握られた拳が引き絞られる。嗜虐的な目と口が佐々木の目に映る。嫌だ、殴られたくない。

だがそう思う心とは別に、佐々木は自身の防衛反応を拒絶した。逃げようとする足、ガードしようとする両腕、そむけようとする顔面を意志の強さで固定し、拳が振り下ろされるのを待った。守ったり逃げたりすると、一発で終わるものも終わらなくなる、と体に染みついているからだ。

掴まれていた肩にかかる指の強さが増し、少し引き寄せられた。拳が一瞬のうちに大きくなって——

「何やってるんだ!」

 突如現れた声と同時に、河崎の細腕が上から掴まれた。

止めた腕の持ち主は森口翔太だった。空色のマウンテンパーカーを着ている。短髪を自然にセットしており、整った顔立ちをしている好青年だ。

腕を掴んだまま、森口が佐々木のいるほうに近づいてから言った。

「河崎君、やめてもらえないかな?」

「ちっ——」

 ふいに暴力を防がれ不満が溜まったであろう河崎は、森口を睨みつけ、なおも腕を下ろそうとせずに佐々木に殴りかかろうとした。しかし、河崎の細腕は森口の握力によって締めつけられる。

森口は中学までサッカーをやっていたこともあり、ひょろガリの河崎は痛みに耐えられない。

「わかったよ、痛いから離せ」

 最後に佐々木に糸目を向けた河崎は、ポケットに手を突っ込んでさっさと帰っていった。そのまま家にでも帰れ。そう思わざるを得なかった。

佐々木の肩に手を置いた森口は、心配そうな目をして佐々木の顔を覗き込んだ。

「大丈夫? ……って、うわっ、ひどいね……」

 ひどく驚き目を見開く森口は、佐々木のことを本当に心配しているようだ。佐々木は首を横に二、三振り、礼を言った。

「ごめん、ありがとう」

森口はいつもいじめられている人間を助けてくれる。父親が警察官だからなのか、正義感がすごく強いのだ。諭すように森口は続けた。

「高志君も、少しは抵抗しないと危ないよ。……あいつ、本当に手加減できないからさ」

「うん……ごめん」

 いつものように佐々木は俯いて答える。その上から、ため息を吐く音が聞こえた。

——強者はわからないんだ。抵抗したらもっと暴力は強さを増す、ということを。

森口にそれを説明しようとは思わないが、いつも助けてくれるのは本当に感謝している。森口の心配そうな目を見て、佐々木は重ねて礼を言った。

「いいよ、困っている人がいたら助けるのは当然だよ。それより、もうそろそろ教室に向かったほうがいいね。行こうか」

 佐々木の肩を軽く叩いた森口は、爽やかな笑顔を浮かべて歩き出した。その笑顔を見て、やっぱり自分とは違う世界の人間だな、とあらためて感じた佐々木は、とぼとぼと後ろをついていった。


 2


 階段を昇り、二階の三年一組の教室の前についた。相変わらず節電のためか廊下には電気がついておらず、薄暗かった。教室のドアから漏れ出ている光と騒々しい声が、久しぶりに学校に来たことを実感させた。

 一月ごろから自由登校になったことで、佐々木はここ二か月ほど、家に引きこもっていた。

だが、今日は卒業式前日、予行演習の日。二月二十八日だ。明日の本番で恥をかかないためにも、佐々木は渋々登校した。

森口から少し遅れて教室に入ると、寒い外とはうって変わり、暖かい空気が佐々木の顔に触れた。どうやら暖房を入れてくれているらしい。

入った瞬間、佐々木は違和感を覚えた。教室ってこんなに広かったっけ。立ち話をしている生徒が大半だが、床に座っている生徒もいる。——そう、椅子や机が一つもなかったのだ。

唯一あるのは教師が使う教卓と教壇のみだった。

だが、疑問はすぐに解けた。明日で閉校になるから、机や椅子はもうどこかに寄付してしまった、あるいは処分した、ということだろう。佐々木は一人納得した。

クラスの中心である森口が友人たちから挨拶をもらうなか、佐々木は一人で窓際に向かった。

窓際の一番後ろが佐々木の席のあった場所だ。教室の後ろにあるコート掛けに脱いだ上着をかけてから、もう椅子はないが、その辺りに行った。

顔を俯かせながらも久々に来た教室の様子を眺めてみた。

黒板には可愛らしいカラフルな字で『明日は卒業式!』と書かれており、周りには小さい字やら細かい絵やらが描かれていた。

黒の学ランと白のセーラー服をなんとなく懐かしい気分で眺めていると、聞き慣れた優しい声が近づいてきた。

「もう、またやられたの?」

 幼稚園のころからの幼馴染である、三上恵美えみだった。ショートの黒髪はいつもさらさらで、笑うとえくぼができるのが特徴の女の子だ。

 またやられたの、というセリフからもわかるように、三上は佐々木がいじめられた後は、必ずと言っていいほど声をかけてくる。傷ついた顔をじろじろ見られる。

佐々木は視線を逸らし、意味もなく窓の外を見た。久しぶりに会ってなんだか恥ずかしいのと、また情けないところを見られた、という二つの理由で、彼女の顔を直視できなかった。

「もう、何黙ってんのさ。……はい、これ」

 つやつやと光る爪の先には、茶色い楕円形のものがつままれていた。佐々木は顔を上げ、三上の可愛いらしい顔を一瞬だけ見て首を横に振った。

「いや、いいよ」

 佐々木が怪我したとき用に、三上はいつも絆創膏を携帯していた。佐々木は、申し訳なさ半分、恥ずかしさ半分に遠慮した。だが、

「もう、よくないってば!」

 そう言っていつの間にか剥がした絆創膏を、三上は佐々木の額に張ろうとしてきた。周囲の目もあってさすがに恥ずかしいので、細い手首を掴み、それを阻止した。

「じ、自分でやるから……」

三上の指から絆創膏を奪い、スマホを取り出した。画面に反射した額を見ると血は止まっているが、痛々しい。赤い部分を隠すように絆創膏を張った。

「……ごめん、いつもありがとう」

 佐々木は照れながらもぼそっと礼を言った。

 いつもいじめられているのが恥ずかしくて情けないけれど、そのたびに三上は優しくしてくれる。こういう優しさが三上のいいところだ。

優しくされて思わず潤みそうになる目を隠すように俯くと、三上は温かい言葉をくれた。

「いいよわざわざお礼なんて、幼馴染なんだからさ、このくらい当然だよ。……もう、あいつらもホント懲りないよね」

 三上は教室の真ん中で騒ぐ河崎、吉田たちのほうを見た。

数人の男子たちと、吉田の彼女である橋本杏奈率いる女子集団たちが笑い合っている。クラスの中心である彼らは、騒ぐのが好きで好きでたまらないのだ。特に今日は自由登校明けで久しぶりに会う顔が多いからか、猿のようにはしゃいでいた。

 反対に森口が中心のグループは、落ち着きながらも親しげに会話している様子がうかがわれた。佐々木から見ても森口のグループのメンバーはいい人ばかりだった。

このクラスは大きく分けると、吉田たちのグループと森口のグループ、それ以外の少数グループ、一人でいるものに分けられる。佐々木はもちろん一人でいることが多い。

「ま、長かったけど、今日と明日で終わりだからさ、負けちゃだめだよ」

 優しい母のようなほほ笑みを浮かべた三上が、じゃあ行くね、と胸の前で手を振って、友人の安藤のところに行ってしまった。

 こういう優しさに対しての防御はもろかった。佐々木は窓の外を見るふりをして顔を誰にも見られないようにし、こっそり瞳を潤ませた。

 

 袖で目もとを擦った後、佐々木は楽しそうに会話する三上のほうを見た。やっぱり可愛いし、見ているだけでも胸がドキドキする。笑顔を見ると、特にそうだ。

ふと、今日と明日で制服姿の三上を見られなくなることに気づき、見納めのつもりでじっくりと眺めてみた。すると、さすがに気づかれたようで目が合った。手を振ってくる。

慌てて佐々木は視線を横にずらし、見ていないふりをした。ずらした視線の先に、友情を育むことに忙しい生徒たちが大勢いた。

——このクラスメイトとも、明日でお別れだ。

学ランと白いセーラー服をぼんやりと眺めながら、佐々木はなんだか感慨深い気持ちになった。

 ここ美園高校は、明日の卒業式を最後に閉校することになっている。急に決まった話でもなんでもなく、佐々木たちの代が入ってすぐに通達されていたことだ。

北海道の南幌町というこの地域は、二〇三〇年現在では人口減少に拍車がかかり、若い世代がほとんど住んでいない。

小学校のときは佐々木の学年も二クラスあったのだが、隣町の中学に進むものや、札幌に移住するものが後を絶たず、中学に上がると一クラスになってしまった。

中学を卒業するとさらに進路は分かれ、現在の二十五人だけが美園高校に入学することになった。転入してきたものは一人もおらず、全員が小学校からの知り合いでありご近所仲間であるため、仲が良いものが大半だ。

だが人間関係が変わらないということは良いことだけではない。佐々木は小学校からずっといじめを受け続けてきた。吉田、河崎、時には橋本率いる女子グループからもいじめられることがあった。

だから佐々木にとって高校の卒業式とは、華々しい青春の集大成でも、友との思い出を語り合う記念の日でもなく、いじめからの解放という、この上ない幸せの日なのだ。

明日が終わればもう学校から解放され、悪党と毎日顔を合わせることもなくなる。

佐々木は南幌町に残って実家の鮮魚店を手伝うつもりだが、吉田や河崎なども含めて、ほかの人はほとんど町から出て行く。大学に通うものが大半だ。ここから通うにしても、今までのように毎日顔を合わせることはなくなるだろう。

今日と明日を乗り越えれば地獄から抜け出せる。そう思うからこそ、今朝はどんなに殴られても泣かなかった。


 今日の卒業式の予行演習は、一旦教室に集合してから体育館に移動すると通達されていた。

早く終わらせて帰りたい、そんな思いでいっぱいだった佐々木は時計を凝視していた。やがて時計の針は八時三十分を指し、同時にチャイムも鳴った。チャイムが鳴り終わるころ、教室前方のドアの向こうから、白衣を着た人物が現れた。

「うい~」

 黒い名簿で肩をトントンと叩きながら、三年間担任として世話になった山神太一先生が教室に入ってきた。

今日もふだんと同じ、しわ一つない純白の白衣と、折り目のついた黒いスラックスに身を包まれている。

 眉にかかるほどの長さの前髪が似合っており、顔立ちも整っている。一回り年が違うはずなのに、大学生のように若々しく見える。

「山ちゃん久しぶり!」

「お、神センじゃん! おはよ~」

 橋本や河崎が友人感覚で話しかける。周りの生徒たちも山神先生のもとへ自然と集まっていく。

笑顔で生徒たちと挨拶を交わした山神先生は、一度腕時計を見た後、全員を床に座らせた。名簿を見ながら人数を確認していく。

「来てないのは……木野だけか」

「山ちゃん、愛里は多分ただの遅刻だと思うよー」

「遅刻かすら怪しいよね~」

「あー、あるあるー。だるいから休むわ的な?」

 橋本率いる女子グループが、友人の不良な態度を想像して笑い合っている。木野はふだんから遅刻や欠席を訳もなくする生徒で、特段珍しいわけでもないからだ。

教壇に立つ山神先生を見ると、うんうんと首を縦に振っている。それからいつものように柔和な笑みを浮かべて、先生は口を開いた。

「木野のことは放っておくとして、進めていくか」

「賛成だ。予行演習なんかだるいことさっさと終わらせて、早くバスケの練習してえからな」

「俺も帰って早く遊びた~い!」

 吉田が足を投げ出した座り方で、河崎は真っすぐ上に手を突き出して賛同した。佐々木も同意見で、一刻も早く家に帰りたいと思っていた。

ほかの生徒たちからも特に反対意見が出ることもなく、木野抜きで卒業式の予行演習を始めることを全員が同意したようだった。

「じゃあ、始めるとするか」

 何か前までの山神先生とは違う、異様な雰囲気を出したと思ったのは、佐々木だけだっただろうか。優しい目の奥で不気味に存在を主張する黒いものが見えた気がした。

 せっかちな何人かが、先生の言葉を体育館に移動するという意味で捉えて起立する。周りも同調し、廊下に出ようとした。

「今日の卒業式予行は中止になったので、代わりにいい授業をしようと思う」

 その言葉に、立ち上がった全員の足が止まる。すべての顔が山神先生に向けられる。

「今日の授業は人間不要論だ」

 先ほどまでの表情とはやはり違い、まるで悪魔が憑いたような凶悪な笑みが張りついていた。先生の別人のように豹変した雰囲気を感じ取ったのか、全員が凍ったように動かなくなる。

「先生? どうしたんですか?」

 そんななかでも口を開いたのは、クラスの中心女子、水谷夏海だった。快活な瞳を山神に向けている。教室の後ろにいたからか、山神先生の豹変ぶりに気がついていないのかもしれなかった。鋭い目つきが、教壇の上から水谷のほうを射抜く。

「どうした、か。……まあとりあえず戻れよ」

 何か喋りかけてはいけない雰囲気を感じ取ったのか、生徒たちはひそひそ声で喋りながらもといた場所に戻る。教壇に両手をかけ、少し前のめりになった山神先生は話し始めた。

「ひとつ確かなことは、今日の卒業式予行が中止になったことだ。質問はあるか?」

 先生はあたりを見渡す。佐々木が観察する限りでは、目を合わせる人間は誰もいなかった。だが一人の生徒が挙手をした。森口だ。

「なぜ中止になったのでしょうか」

「いい質問、とは言えないな。少し考えればわかることだ。予行が中止になったということは、本番がなくなった、ということだ」

「……つまり、明日の卒業式も中止になったということですか。それは、なぜですか」

 森口も、今の山神先生から発せられる気迫に押されているようだった。声が少し震えている。

「答えは簡単。この学校から卒業する生徒は、ただ一人になるからだ。そして卒業式は今日の授業を受けて生き残った一人だけに実施することになる。——ああ、わからないのも当然だ。そんなに困惑した顔をしなくても、噛み砕いて教えてやるから」

 そう言った山神先生は教壇から降り、開け放しになっている教室の前後の引き戸を閉めて回った。その間誰も口を開けなかった。

後ろのドアを閉めた後、先生は教壇に戻らずに歩き出しながら口を開いた。

「突然だが、世界の宗教の割合が今はどうなっているか、わかるか、吉田」

「え……? っと、たしかキリスト教が一番多かったと思うけど……」

「不正解。だがいい間違えだ。それは一昔前の話。現在二〇三〇年では、ある宗教がキリスト教を超え、世界の半分以上の人間を導いている。何だと思う、河崎」

 この異様な状況でも変わらない態度の河崎は、教室内を歩き回る山神を首で追いながら答えた。

「宗教のことはよく知らないけど、うちの親は星守教だよ~神セン。つかさ~、いいから早く予行演習やって帰らせてよね~。何の意味があるの、この質問?」

 空気が読めないのも大した才能だ。しかし先生はそんな態度の河崎に怒ることもなく、首を縦に振った。

「そう、現在世界の半数以上を占めている宗教は、星守教だ。河崎のように、自分の親が星守教の信者だというものもいるだろう。ちなみに俺も星守教だ。ところで、星守教がどういった信条で、どんなことをしているかわかるか、森口」

 教室前方にいる森口が、振り返って山神のほうを見た。

「はい。僕の両親も星守教なので、おおよそは理解しています。その名のとおり、星、つまり地球を守るという信条だと聞いています。ゴミ拾いや植樹、野生生物の保護などの活動を行っている、とも言っていました」

「いい答えだ。そのとおり、我々はこの星を守るために活動している。地球温暖化が及ぼす影響を少しでも減らすために、星守教は行動している。無論それは国内だけのことではない。海外でも同様のことが行われており、その思想は全世界にまで広がっている。……というのが表向きの星守教の実態だ。いや、実際全世界にまで星守教の教えが行き届いているのは本当のことだ。だが、それは真の教義ではない。では、星守教徒以外には知られていない真の星守教の教義が何か、……宮園、お前にわかるか?」

 クラス一優秀な宮園洋ひろしに、先生は質問を投げかけた。縁のない四角い眼鏡を中指で押し上げながら、宮園は答えた。

「……もしかして、それがさっき言っていた先生の、あの言葉と関係してくるとでもいうのですか?」

 あの言葉とはいったい何だったか。佐々木は何のことを言っているのかわからなかった。

「いい、いいね、理解力のある奴は。話が早い。……ということで、話は最初に戻る」

 教壇に再び立った山神先生は、目を見開き、口を裂かんばかりに広げて言った。

「今日の授業は人間不要論だ」


 3


「人間、不要論……?」

 誰の口から漏れ出たのか、その不気味な言葉が教室内の空気をさらに重くした。

「授業の目的と内容は簡単だ。目的は、人を殺せる人材を短時間で作り出すこと。そして内容は、クラス内での殺し合いだ」

 人を殺す。殺し合い。その単語が、教室の空気を一層重くした。

佐々木はそれを口にした張本人の表情を見た。冗談、もしくはドッキリの類ではないかと思ったからだ。

だが教卓に体重をかけるその人物の顔は、狂人としかいえない恐ろしいもので、とても冗談を口にしたようには思えなかった。乾いた口から「は」という息だけが漏れた。

佐々木が今朝いじめられる原因となった吉田の彼女である橋本が、声をあげた。

「は? いや、先生、どういうこと? 意味わからないんだけどマジ……」

 呼応するように周りの女子たちや吉田、河崎らが声をあげる。

「冗談でしょ?」

「殺しあいって、嘘、だよね?」

「神センさ。さすがにそれは笑えないんだけど、マジで」

「てゆーかさ、他の先生たちはどうしたの? 来てるよね⁉」

「なんか脱出ゲーみたいな展開なんだけど! いいじゃん、やろうよ!」

 河崎だけがまだ緊張感についていけていないコメントをした。明らかにふだんの山神先生とは違うことに、まだ気づいていないのか。そんな指摘をするものも教室内には誰一人いない。

 核爆弾並みの強大な発言を投下した狂人は、生徒たちの反応を無視し、黒板いっぱいに描かれた絵や文字を消していった。

五分ほど丹念に黒板消しをかけ、新品同様にきれいになってから、先生は白衣の内側からチョークの入ったケースを取り出した。

長く白い一本のチョークをつまみ出すと、佐々木たちに背中を向け、何やら手を動かし始めた。

 佐々木は状況を理解しようと、必死に黒板を凝視していた。やがて黒板の上を滑らせていた手が止まると、そこには『ルール』という白い文字がお手本のようにきれいに書かれていた。


 ルール一 教室から一歩でも外に出たものの家族は即座に殺される

 ルール二 教室から出て「逃げる」とこちら側が判断したものは、射殺される

 ルール三 生徒が死んだ場合、その家族も即座に殺される

 ルール四 休み時間や山神が見ていないときに殺しをした場合、そのものを即座に殺す

 ルール五 最後の一人になるまで殺し合いを続け、生き残った一人だけが卒業する


 その黒板に書かれたたった五行の文字の羅列を、佐々木は何度も繰り返し読んだ。

殺される。射殺される。生徒が死んだ場合……。

ルールが見えるように脇に避けて立っている山神先生は、こちらの驚く顔を見て喜んでいるようだった。

しばらく無言が続いた後、橋本が怒気を含んだ声音で言った。

「先生、これ何なんですか? マジで意味わからないんですけど!」

「意味がわからない、か。あまりいい反応ではないな。いいか、頭の固いお前らに教えてやろう」

 白衣の下の黒いスラックスのポケットから、山神先生はスマホを取り出し、何か操作をし始めた。送信、と口にした直後、佐々木のポケットから振動がした。教室のあちこちからも電子音やバイブの音が聞こえてきた。佐々木は久しく開いていなかったグループチャットを開き、一枚の画像と対面した。

「——え?」

 写真には、どこかの施設の床に座っている、見覚えのある人たちが写っていた。コンクリートでできた無機質な部屋の中に、大人たちが腕や足を縄で縛られて捉えられている。中心に集められた拉致者たちを囲うように、ライフルらしきものを持った迷彩服を着た男たちが三人立っていた。全員がサングラスをかけている。

脅えた顔で写真手前のほうを見る群衆のその視線の先には、うつぶせに倒れている血まみれの男がいた。その男に見覚えのあった佐々木は、まさかと思い、写真を拡大した。

それは井口萌というクラスメイトの父親だった。スライドさせると、佐々木の父親と母親の顔もしっかりと写っていた。

——なんで父さんと母さんが!

「ルール一がハッタリではない証拠だということだ。もうお前らの家族は人質にとってある。教室から出たものの家族は即座に殺される。……まあ、もう死んでいる奴もいるようだがな」

 鼻から息を出して微笑した山神先生——否、もう先生とは呼べない——山神はスマホをしまい、高らかに宣言した。

「一時間目の授業を始めようか」

 同時に九時のチャイムが鳴った。

父が死んだことを信じられない様子の井口が、小さい体を抱え、「違う違う」と小刻みに震えていた。


〇一時間目


 1


 佐々木は理解した。監禁されているのは紛れもなくクラスメイトの家族で、逆らったであろう井口の父親が容赦ない制裁を食らったということを。

 もちろん家族の全員が監禁されているわけではない。写真からもわかるが、二十五人の生徒の両親五十人が映っているわけではなかった。佐々木の弟と祖母も映っていない。

 おそらく、南幌町から離れた場所にいる人物は捕まえられなかったのだろう。

だが、それは些細なことだ。大切な家族を人質に取られているこの状況では、一人だろうが二人だろうが同じこと。ルールに従うしかない。

佐々木は黒板に書かれている文章をもう一度しっかりと見直した。とにかくあの狂人のいうことには絶対に逆らわないようにしよう。家族を殺されるのは避けなければならない。

ルールを読む限りでは、教室から脱出させないという強い意思が読み取れる。それに、生徒が死んだ場合、という文言がさも当然のように書かれているのが怖くて仕方なかった。

——これからここで殺し合いをやれっていうのか。でもそんなの犯罪だし、今すぐに警察を呼べば未然に防げるんじゃないか?

「一時間目の授業は、質問タイムと、座学だ。今から二十分間、好きなだけ質問していいぞ。俺のルールとこの世界の常識を完全に頭に叩き込んでもらわないと、殺し合いなんて成立しないからな」

 山神がさあどうぞという態度で、教卓に両手をついた。質問タイムといっても、なにから問えばいいのか。佐々木には難しいものだった。

最初に挙がったのは、学ランから伸びた手だった。

「先生、あの、警察を呼ぶことは可能でしょうか?」

 勇気を持ったその発言をしたのは、朝佐々木を助けてくれたヒーロー、森口だった。

下手をすると山神を怒らせるかもしれないという恐怖があっただろうに、最初にその役を買って出てくれた。井口の父親のように、気に食わない人間は即殺されるかもしれないというのに。

教室中に、ピンと張りつめた冷たい空気が流れた。しかし、山神は腕を組み、笑顔を絶やさず返事をした。

「警察? いいよ別に。……それより、もっとこう、星守教とかルールに関する質問とかないの?」

 驚いたことに、警察を呼んでもいいらしい。山神はそんなことはまるで気にしていないという言い方だった。警察を呼んでも対抗できる手段があるのか。

「わかりました。じゃあ警察を呼びます。みんなも、いいよね?」

 森口はスマホを握り、三桁の番号を押した。耳に当て、少し待つ。

「もしもし、あ、事件です——」

 事件の内容をあますことなく伝え、森口は通話を終えた。教室中が静寂に包まれていたため佐々木の耳にも届いたが、完璧に、齟齬無く伝わったはずだ。

山神に視線を移すも、特段焦った様子も見られない。不思議だ。

今度は女子の中心人物、水谷が挙手した。

「今のでわかりました! 先生、本当はこれ、ドッキリか何かなんですよね? だって、もし本当にわたしたちの家族が監禁されて、井口ちゃんのお父さんが殺されているんだとしたら、警察が来たら先生は百パーセント逮捕されるじゃないですか! なのに先生は逃げようともしない。ってことは、卒業前の盛大なドッキリなんですよ! きっと他の先生たちもどこかに隠れてるんだ!」

「俺は命のかかった状況で理解が及んでいないバカが一番ムカつくんだよ」

 手のひらが勢いよく黒板に叩きつけられ、ものすごい音がした。佐々木の心拍数は急上昇した。

山神は大きなため息を吐いた。

「この期に及んでドッキリ? バカか水谷お前は。……ちなみにさっきから言ってる他の教師のことだが、あいつらは今朝皆殺しにしたよ」

「——っ⁉」

 皆殺し、という単語に水谷は固まった。

「俺は説明したはずだ。星守教には真の目的があり、それは人間不要論だと。……つまり、地球上のすべての人間を殺し尽くし、地球を人間という悪の根源から守るのが我々の絶対にして唯一の教義だ。殺人を犯すと警察に逮捕される。そんなことを我々が考えないはずがないだろう。当然警察も掌握済みだ」

「警察を掌握済み……? そんなことできるわけない」

 ありえない、といったふうに、森口は首を小刻みに左右に揺らす。森口の父親は警察官で、ここ南幌の警察署に勤務しているのは誰もが知っている。山神は気にせず続ける。

「星守教徒が全世界の半数以上を占めていることは先ほど言ったな。我々の教祖は星守教に入信しているさまざまな業界の権力者たちに、真の目的を徐々に脳に刷り込んでいった。いわゆる洗脳だ。敬虔な信者は我々の素晴らしい教祖のもとで徹底的に教育され、人間不要論が地球を守るために最善の策だと教え込まれた。もちろんこれは嘘偽りなく実際に最善の策だと俺も思うがね。警察はもちろん、官界、政界、財界、立法、行政、司法、報道、消防、自衛隊……挙げればきりがない。すべての権力を星守教が秘密裏に掌握した。だから水谷、警察が来ても逃げないのは、ドッキリでもなんでもなく、警察も星守教が支配しているからなんだよ」

 山神の演説は、嘘を言っているようには聞こえなかった。さも当たり前のことを言っているような口ぶりだった。だが実際、そんなことが可能なのだろうか。

「ありえないでしょ! ねえ! みんなもそう思うよね!」

 快活な瞳を左右に動かし、水谷がクラスに賛同を求めた。

「そ、そうだよ、ただの作り話だよ……! みんな、落ち着いて! しばらくしたら警察がここにやって来るから、そしたら、そのとき父さんもきっと来る! だから大丈夫だよ!」

 大丈夫だよ、と言う森口は、言葉と裏腹に動揺していた。その姿を見ていると、佐々木も平静を保っていられなくなってきた。警察が来ても、山神が逮捕されなかったらどうなってしまうのだろうか。

「お前の父親がここに来るかは知らないが、安心しろ森口。お前の——」

 山神が何かを言いかけたとき、ふいにガラガラと教室前方のドアが開いた。警察にしては駆けつけるのが早すぎる。誰だろうか。佐々木は目を向ける。

フードにふわふわのファーがついた、真っ白なダウンを着た人物だった。スカートを履いている。遅れてきた女子生徒、木野愛里だ。

だが普通に入ってきたわけではなかった。彼女の後ろにはアサルトライフルを手に持った大柄の白人がいた。迷彩柄の服を着て、サングラスをかけている。

——銃を持ってる! それにあの格好、父さんたちが監禁されている場所にも同じ奴らがいた!

山神の仲間、あるいは手下だろうか。本物の銃を目にしたことで、佐々木は黒板に書いてある『射殺』という文字が、急に現実味を帯びてきたように感じた。

木野愛里が後ろの兵士によって背中を押されて前によろけた。

「ちょっ! 押すなし! てかなんなわけこの人!」

 振り向いて兵士を睨みつける木野。だがその兵士は眉一つ動かさないでそこに立ち尽くしたままだった。視線は木野ではなく山神に向けられているようだった。

「ご苦労。マルタ、戻る前に少しだけ教室の後ろのドアの前に立っていてくれないか。ルールを理解していないバカが出るかもしれないからな」

「OK」

 山神とマルタという兵士の間柄は、佐々木には上司と部下のような関係に見えた。日本語も理解しているようで、マルタは廊下を通り教室後方のドアに向かった。ドアの向こうに巨大な影ができた。

「ちょっと山ちゃん、え? 何がどうなってんの? てか今日、卒業式の予行でしょ? もうみんな体育館行ってると思ってたんだけどあたし」

「木野、おはよう。とりあえず遅刻の理由を聞こうか」

 状況を把握できていない様子の木野に、山神がスマイルを浮かべて聞いた。

「は? 遅刻の理由? まあ普通に寝坊したんだけど……てかそんなこと今はどうでもよくない⁉ うちあの兵隊とかさ、みんなが教室にいるのとかでわけわかんないんだけど!」

「愛里、今とんでもないことが起こっ——」

「橋本、黙ってろ」

 白衣の袖がはためき、喋る橋本のほうに向かって手のひらが向けられる。

ふだんは耳にしないきつい言葉と冷たい声音に、教卓のそばにいる木野は目を瞬かせていた。

「ちょうどいいところに木野が来たんだ。どうやら水谷や森口のようにこの状況がまだのみ込めていない愚か者どもが大勢いるようだからな。ここらで信じさせてやろう」

「ちょ! え⁉ なになに⁉」

 山神の黒い革靴のかかとが教壇を鳴らした。一歩踏み出し、木野を生徒たちのほうへ向かせ、山神は背後から腕を回した。木野は動けなくなる。

 一体何をするのだろうか。信じさせてやろう、ということは、つまり、今までの話がすべて本当だと証明するということか。だが、どうやって……?

 佐々木の疑問など関係なく、状況は進んでいく。

木野は抜け出そうとするが、がっちりと掴んだ山神の腕は微動だにせず、脱することができない。山神が、口の端を吊り上げた。次の瞬間、白衣の内側から光るものを取り出し、それを木野の剝き出しの首に当てて、引いた。一瞬だった。

「キャアァァ!」

 誰かの悲鳴が教室に響き渡り、木野の正面にいた生徒たちが赤く染まった。まるで噴水のように勢いよく飛び出した血液が教室中央にいる生徒たちにまで降りかかった。

 ——こ、殺した! ひ、人が殺された!

あまりの出来事に、佐々木は寸前まで生きていた木野の体から目が離せなくなった。山神の腕から解放され意思を失い横に倒れたそれの首は、リズミカルに命の源を吐き出していた。白いダウンの胸もとがじわじわと赤く染まり、タイル張りの床も赤に侵食されていく。

 一時硬直していた生徒たちが悲鳴をあげて走り出すなか、佐々木だけは金縛りにあったようにまだ動き出せなかった。ドアを勢いよく開ける音がして、やっと佐々木の目玉は木野だった体から離れることができた。

目を向けると、学ランとセーラー服の奥に、マルタと呼ばれた屈強な兵士の上半身が見えた。どうやら逃げようとした生徒を体で跳ね返したらしい。

兵士は銃を構え、引き金に指をかけて生徒たちに銃口を向けていた。

「落ち着けよお前たち。マルタも撃つなよ」

 ナイフを教卓の上に突き刺し手放した山神は、しゃがみこみ、木野のスカートで丁寧に手を拭いた。

 恐怖が、佐々木を支配した。今までの人生で生身の人間が殺されるシーンなんて、見たことがなかった。心臓がこれ以上ないほど強く脈動する。

山神は立ち上がって黒板をコツコツと叩いた。

「ルールをいきなり破る気か? そんなことしたら家族が死ぬぞ?」

 黒板には、教室から一歩でも外に出たものの家族は即座に殺される、と、そんな気違いじみたルールが書かれていた。

「そうだ。落ち着いて状況を把握しなおせ。お前らはこの教室からは一歩も出られない。逃げたら家族を殺す。……今俺がお前らを教室から出さなかったのは慈悲だぞ? ルールを理解してからが本当のスタートだからな」

 この狭い部屋の絶対なる支配者からの、寛大な措置。などと考えられるわけはなく、ただただ恐怖が増すばかりだった。教室から出られない。それはつまり、人を簡単に殺す狂人と、ずっと同じ空間にいなくてはならないということを意味していた。

 山神はスマホを取り出し、耳に当てた。

「木野愛里の家族を殺せ」

 死んだものの家族は即座に殺されるというルール三に則り、人質に取られていた木野の家族が殺されてしまう。

 スマホに通知が来て、それが一枚の画像であることを確認し、佐々木は息をのんだ。木野の家族が銃殺され、血を流している写真だった。

少しの間しんと静まり返ったが、やがて一部の女子のすすり泣く声が聞こえてきた。おそらくクラスメイト全員の危機意識が急上昇しただろう。

佐々木も、心臓が喉の奥に押し上がってくるくらいひどく恐怖していた。

——やばい、次は誰が殺されるんだ? 泣いた女子? それとも目が合った生徒……?

 佐々木は目を合わせないように自身の足の先を見つめていた。時が止まったかのように誰も動かない。視界の端に映る山神もまた動く気配がない。

そんな時間が一分ほど続いただろうか。山神が口を開いた。

「あのさあ、別に俺と目が合ったからって殺しやしないよ。ただお前らが俺の言ったことをまったく信用してないみたいだったから、仕方なくやったんだよ。それに、文句があるなら言ってきてもいいんだよ? 質問時間はまだ残ってるし」

 山神はそう言うが、質問といっても、もうそんな状況ではない。佐々木を含め、ほとんどの生徒が恐ろしさに震えていた。

かろうじて動けたのは、親友の木野を殺されて怒っているに違いない橋本だけだった。彼女は一歩前に出た。

「愛里は大事な友達だった。殺すなんて信じられない。あんた頭おかしいよ……」

 怒っているだけではなく、悲しんでいるようでもあった。言葉は震え、語尾は弱弱しくなっていた。橋本は膝をつき、床に拳を打ちつけて顔を伏せた。

 杏奈、杏ちゃん……と橋本を心配する声が近寄り、橋本の肩を抱く。同じく友人の死に耐えきれなかった戸田依梨夢いりむ小林継美つぐみが涙を流しながら、山神を睨みつけている。

涙は伝播し、恐怖と悲しみ、悔しさとで教室がいっぱいになった。

 誰もが動けないでいるなか、森口がゴクリと喉を鳴らしてから手を挙げた。

「先生、質問があるのですが」

「おう、いいぞ」

 全員が森口に注目した。

「先生はなぜ殺し合いをさせるのですか? わざわざそんなことしなくても、先生ならここにいる生徒をたやすく全滅させることもできるのではないでしょうか」

「何言ってんだよ森口!」

 吉田が全員の気持ちを代弁した。そんな挑発のような発言をしたら、本当に殺されるかもしれない。佐々木は、今にも山神が飛びかかってくることを想像し、一歩後ずさった。だが、当の山神は襲ってくる素振りどころか、柔和な笑みさえ浮かべていた。

「いい質問だ森口。もちろん俺がその気になれば、ここにいる全員を一分以内には皆殺しにできるだろう。だが俺はそんなもったいないことはしない。俺の仕事は、短時間で星守教の教義である人間不要論を叩きこみ、かつ殺しを実行できる人間を選抜することにある。だから俺が殺しても意味がないんだ。お前らが殺し合うことに意味がある。わかったか?」

「……。わかりました」

 何もわからない。言っている意味はわかるが、理解が及ばない。なぜそんなことをする必要があるのか、そもそも人間が不要だという考えが理解できないので、佐々木にはまったく理解できなかった。森口やその周囲の生徒たちも同じようで、嫌悪の表情を浮かべていた。

 とりあえず今は、これ以上山神の手によって殺人が起きるわけではないと信じていいのだろうか。質問がその後続くことはなく、時間だけが過ぎていった。

 時計の長針が四にさしかかろうとしたとき、窓の外に白黒の車が見えた。パトカーだ。

窓際にいた佐々木からは、教室の真下にある駐車場に止まったパトカーの中から、警察官が二人出てきたのが見えた。

「け、警察が来たよ」

 クラスメイトを勇気づけるためか、気づいた自分が言わないのが責められると思ったのかはわからないが、佐々木は全員に伝えた。

「父さんだった⁉」

「う、うん……」

「よかった。父さんなら絶対大丈夫だ。みんな、もう大丈夫! 安心して!」

 森口は力強く言いきった。それを聞き、クラスメイトたちの緊張は少し解けたようだった。

「でもさ~、神セン逃げないぜ? 本当に警察も星守教に毒されてんじゃね?」

 信じる生徒とは裏腹に、河崎のように警察が来ても状況は変わらないと思っている生徒もいるようだ。山神の様子を見ても、いっさい慌てた様子はない。

 廊下に足音が聞こえてきた。警察の制服を着用した森口の父親が教室内に入ってきた。

「父さん!」

 森口が救世主を見るような期待の目で父に向かって叫んだ。森口父はこちらを見て一言、「おお翔太」と言った後、すぐさま山神のほうに首を向けた。

「山神先生、いつもお世話になっております」

「やあ森口さん。あなたがいらっしゃるとは」

 手に血のついている山神に対し、森口の父は普通に挨拶をした。続いて知らない警察官がもう一人後から教室に入ってきて、状況を確認するように首を巡らせた。

森口の父は転がる死体に一瞬目をやり、再び山神に顔を向けた。

「先生——いえ、山神様、この死体をかたづければよいのですね?」

「ああ、頼む。今後も出るから、その都度頼むわ」

「承知しました」

「おい、手伝え」

「はい」

 流れる作業のように、木野の残骸が教室の外に引きずり出されていった。

警察が山神のことを敬称で呼び、さらには死体を当たり前のように迅速に処理した。その事実を目にした佐々木の口は開いたまま塞がらなかった。

——本当に世界は変わってしまったのか?

 口をわなわなと震わせている森口は、廊下に消えていった父を追うこともせず、ただ頭を抱えていることで精いっぱいのようだった。クラスメイトも同様、信じられないといった驚愕の形相を浮かべていた。

「いい顔だなお前たち。そうだ、これが現実! これが当たり前の世界になったのだ!」

 宙を見て笑い、腕を広げ興奮する山神。響き渡る笑い声が嫌でも耳に入ってくる。絶望が現実になり、人間不要論が山神だけの妄言ではないことが証明されてしまった。

「でも先生、待ってください。こんなことをもし全世界で同時に行ったとしたら、国や報道を完全に支配していても、星守教徒ではない一般人が目撃して騒ぎになるはずですよ!」

 眼鏡を押し上げた宮園が反論する。たしかにそうだ。こんなことはおかしいに決まっている。ただ森口の父と助手の警察官だけが山神の仲間なだけで、世界中でこんな惨事が起こっているわけがない。

「たしかに全世界同時に殺人祭りをしたら、騒ぎになって星守教の侵略は失敗に終わる。だから我々は、まず人口の少ない土地を選び、実行している。南幌町を封鎖し、隣接する町や市にはいっさい気づかせずにな」

「そ、そんな……」

「できないとでも思うか? 全人類の半数以上が星守教徒、そのすべてが洗脳済みだ。小さな街一つを隔離するくらい、簡単なことだ。今ごろ住民は逃げる間もなく殺されていってるだろうよ。……まあ教室から出られないお前らには関係ないことだ」

 宮園がありえないと口にして尻もちをつく。

 佐々木も同様、ありえない、と思っていた。だが同時に、山神の最後のセリフだけは、紛れもない事実だと思った。この教室からは出られない。それは、覆せないことなのだろうと。

 山神が白衣の袖をめくり、自身の腕時計を見た。

「いい時間だ。これからは人間不要論を教え込む、座学の時間だ」

 言葉を発するものも、教室後方の立ち位置から移動しようとするものもいない。山神の放った言葉は耳を通り抜けていく。

反応がないことに腹を立てたのか、山神は頭をかいた。

「座れ。座学だからな。座れないなら、森口、お前の母親を殺す」

 そういって山神はスラックスのポケットに手を突っ込んだ。スマホをちらっと見せてくる。こっちはいつでも殺せるんだぞ、という脅しだろう。森口は歯を食いしばってからその場に座った。

佐々木も床に座った。自分の親が殺されるわけではないが、全員従った。

「いい判断だ。だがお前らの表情はいいとは言えないな。——まあいい、悠長にやっている時間はないんだ。これから人間不要論についてお前らに教える。俺の話を聞いていないと判断したものについては、人質に取っている家族を殺していくから、聞き逃さないように」

 そう言った山神は一度ニヤッと笑い、話し始めた。


 2


「人間不要論、それは、星守教ができたきっかけ、『地球温暖化』を止めるためにある。一九七〇年代後半から、人類は地球温暖化について考え始めた。気候変動、生態系の変化、オゾン層が破壊されることによる紫外線量の増加、それに伴う生物への被害、南極の氷が溶けることによる海水面の上昇・水没など、挙げればきりがない。そしてその主な原因は、人間による都市開発、森林伐採などによる二酸化炭素の増加だ。だが人間はそれを解決しようとはしなかった。地球にやさしい商品の開発、脱炭素、クリーンエネルギー、プラスチックの削減、SDGs。そんな上辺だけの政策や考え方では地球を守ることはできないと気づきもしなかった。現に二〇三〇年になった今でも人間は、地球温暖化を何とかしなくてはまずい、などとほざいている。だから星守教が活動しなければならない。星守教は、地球温暖化は人間が絶滅しないと解決できない問題だと結論づけている。よって、長い年月をかけて信者を増やし、人間不要論を水面下で唱えてきたわけだ」

 倫理的な問題を全排除すれば、言っていることは正しいのかもしれない。佐々木は不覚にもそう思ってしまっていた。

だが、やはり人が人を殺すのはやってはいけないことだ。そこだけは人間である限り守らなければいけない尊厳なのだ。

「この話を聞いて、倫理的な問題がぶっ飛んでいると感じたものも少なくないだろう。だが、その倫理とは何だ。倫理とは何のためにある? ……答えは簡単、倫理とは人が守るべきルールのことだ。では、その『人』は何のために存在している? ……吉田、どう思う? 別にどんなことを言っても何もしないから答えてみろ」

 吉田が答える。

「人が何のために……? それは、何かを成し遂げるため、とか?」

「河崎、お前はどう思う?」

「う~ん、楽しく生きるため、かな~」

「橋本は?」

 ついさっき人を殺した狂人の言うことなど普通は聞く耳を持たないはずだが、人は何のために存在している、というまともな話になったのが意外で、生徒たちは恐怖もあったが、自分なりに山神に返答していった。

「佐々木はどう思う?」

「……あ、何かを守るため、でしょうか」

 佐々木もなんとなく思ったことを発言した。この頭のいかれた教師が支配する教室で、人の存在意義について考えることになるとは思っていなかった。

全員の答えを聞き終わった山神はこの場に似つかわしくない、教師としての笑みを浮かべた。

「人が何のために存在するか。その答えは、お前らのどれもが合っていて、どれもが間違っている。つまり人の存在意義など、誰にもわからないということだ。これは誰がどれだけ考えてもわからないことだ。宇宙の存在意義を考えているのと同じだ。答えなどない。存在するから存在するのだ。なら考えるべきは、人が何のために存在するかではなく、何によって生まれ、何によって生かされているかだ」

 いつの間にか殺伐とした空気感は薄れ、いつもの授業中の雰囲気に近づいてきていた。まるで生物の授業を受けている気にさえなった。

「何によって生かされているか、その答えは、環境だ。環境、つまり、地球だ。地球がないと我々人類は生きられない。宇宙に行けば生きられないし、火星などほかの惑星に移住することもできない。人は地球にしか生きられないのだ」

 それはそうだ。水や空気がないと生きられないし、温度が適切じゃないと人は死んでしまう。

 山神は真剣な表情を崩さぬまま、生徒の顔を見ながら続ける。

「ところで宗教的な話になるが、ほとんどの宗教は、神を信じている。得体のしれない神を崇拝し、見たこともない神の姿をイメージし、勝手に救われようとしている。それはおかしなことじゃないか? 神が何をしたと知っている? 神が宇宙を創造し、地球や人間、動物、植物を創った? それを人間は本当に知っているのか? 勝手に想像し、自分の思うとおりの神を創り、心の支えにしているだけじゃないか? ——別に神を信じていること自体を否定しているわけではない。もっと身近に感謝できるものがあるんじゃないか、と問いたいだけだ。そう、地球だ。地球があるということを人間は絶対に知っている。知っているものと信じているもの、どちらに感謝すべきだと思う? 星守教では、知っているもの、つまり地球に感謝する。何しろ地球がないと人間は生きていけないのだから」

 佐々木は眉間にしわを寄せながらこの話を聞いていた。

頭はぎりぎりこの話についていけてはいた。かなりわかりづらかったが、要するに、神という不確かなものに感謝するより、地球という確かなものに感謝しろということだろう。

「星守教は地球こそが我々の祖と考えている。我々を創り出し、今も支えてくれているのは紛れもなく地球だ。この星だ。なら、どうしてその地球を破壊するという行動を許せる? ……佐々木、お前はさっき、人は何かを守るために存在していると言ったな。それは、人だけを守るということなのか?」

「……い、いえ、違います。人だけではなく、動物や植物、虫など、生きているものすべてを守るのが人の役割だと思います」

 間違ってはいない、当たり前のことを言っただけだ。人間は、何かを守るために存在している。

「素晴らしい。そのとおりだ佐々木。先ほど人の存在意義について各々に聞いた後、答えは人それぞれと言ったが、星守教では一つの答えにたどり着いている。人の存在意義を我々はこう定義する。地球と地球に住むあらゆる生物を守るため、と。だがそれには人も含まれる。本来ならな。だが祖である地球をボロボロにし、そこに住む生物を殺している人間など、はたして守る価値があるのだろうか。倫理とは、人が守るべきルールのことだ。なら、人が人として生きていくためなら、周りの環境や生物、地球を破壊してもいいということだろうか。それは絶対に違う」

 熱のこもった山神の話を聞く生徒たちの姿勢は、だんだんと真剣になってきていた。なかには首を縦に振るものもいた。

間を空けるタイミングや声量の強弱のつけかたなどが、自然と耳を傾けたくなるのだ。

「地球に害をもたらす人間を我々は決して許さない。このまま何もせずのうのうと生き続ける未来には、破滅しかない。動物や植物が殺され、空気が汚れ、ゴミが地中に蓄積しきれずに地上に噴出されている地球を我々は見たくない。生みの親を汚し、破滅させるわけにはいかない。……だからこそ、地球や生物を守るために我々人間は絶滅しなければならないのだ。これが星守教の人間不要論だ。以上で座学を終了する」

 一時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り、山神が廊下に出ていった。佐々木は、熱に浮かされたように、頭がぼんやりした。

——そうか、ぼくたちは地球を、親を殺そうとしているのか……。

 ぼーっと黒板のあたりを見ていると、何やら騒いでいる声が耳を通り過ぎていった。

「だから、今なら脱出できるんじゃないかって言ってるだけだし!」

「いや、でも教室から出たら家族が殺されるかもしれないんだよ。慎重に考えなきゃ、ね?」

「森口の言ってることも確かだ。杏奈、早まった行動はするなよ」

「う……。わかった」

「でも実際どうするの、ねえ? 窓の外にも銃持った兵士がいるし、廊下の両端にも銃口向けた兵士がスタンバイしてるし……」

「危ないよ何やってるんだ水谷さん!」

「だいじょぶだって! 顔出しただけで、足は出てないから! ね?」

「まったく……」

「とりあえず何とか脱出の方法を考えないと! みんなも何か意見を出して——」

 黒板の何もないところを眺めていると、佐々木の肩にぽんと手が置かれた。振り向くと、心配そうな顔をした三上が覗き込んできていた。

「もう! 大丈夫? そんなボケーっとしてて」

 屈んだ三上のセーラー服の胸もとに視線がいった。血しぶきがついていたからだ。

——血がついてる。どうしたんだろう?

「もう高志ってば! 聞いてる?」

 ——血。血がついてる。……血?

「うわっ!」

「ど、どうしたん⁉」

 佐々木は後頭部を壁にぶつけた。

血を見て佐々木は急に思い出した。さっきこの教室で木野が殺されたことに。それまで一時でも忘れていた自分が信じられなくて、驚いた。

確かめるように教壇のほうに目を向けると、乾ききっていない赤い跡が床にまだ残っていた。

「ご、ごめん……。血が……」

 後頭部をさすりながら体を起こし、三上の差し出した手を握る。

「あ、そうだよね……。木野さんが殺されて、警察が普通にかたづけて、私たちは変な授業を受けて。これから死ぬかもしれなくて。おかしいよね、こんな状況」

 セーラー服についた血を見ながら、三上は唇を噛みしめた。

 そう、こんな状況はおかしい。佐々木も、できることなら脱出して父と母を助けに行きたい。あの写真には親の姿しかなかったが、弟と祖母のことも心配だった。

「たしか殺し合いで最後に生き残った一人だけがこの教室を出られるんだよね」

「うん。でもそれってさ、実際起こると思う? だって私たち同士で殺し合えってさ、正直無理じゃない? きっと誰も動けないと思うよ。そんなことするくらいならここから逃げ出すか、全員で先生とあの兵隊を倒すほうが絶対いいよ」

「……そ、そうだね」

 クラスの中心では森口を筆頭に意見を出し合っているようだったが、佐々木のような日陰の存在ではこんな場面でも話には入っていけなさそうだった。もっとも佐々木自身、話に加わりたいとは思っていなかったから、誘われても断っていただろうが。

 佐々木の様子をうかがいに来てくれた三上が、さらさらの黒髪を揺らしながら安藤のもとへ駆けていった。赤い眼鏡をかけた小さな女の子、安藤咲花と親し気に会話し始めた。

どうすることもできない状況でも、彼女は佐々木や安藤のような弱い立場の人間に声をかけてくれる。友達だからというのもあるだろうが、それでも佐々木にとっては特別に嬉しかった。

ふと時計を見ると、十時まであと三分ほどとなっていた。山神はまだ教室に入ってきていない。

一時間目は質問と座学で終わったが、二時間目からはどうなるのだろう。殺し合いなんてできるわけがない。もしやらざるを得ない状況になっても自分は動けないし、真っ先に吉田や河崎に狙われて死ぬだろう。そんなマイナス思考に耽っていると、佐々木の口から自然とため息が出た。

頭をうなだれて絶望を感じていたところに、今朝も耳にした嫌いな音が入ってきた。

「佐々木ぃ~」

 さっきまで話し合いの場にいたはずの河崎が、佐々木のすぐ隣まで来ていた。邪悪な笑みを浮かべて、ちょっとツラ貸せ、と指を動かしていた。拒んでも殴られるだろうと判断した佐々木は立ち上がり、河崎の背中についていった。

何の用かは知らないが、とりあえず教室後方のドアの付近まで行った。河崎は開いているドアの前に立ち止まった。

家族の命がかかった状態なので、もし廊下に出ろ、と言われたとしても、それだけは絶対に断るつもりだった。

だが、そう口を堅く引き締めたとき、ドアの前でこちらに振り向いた河崎の白い歯が見え、同時に学ランの袖が伸びてきた。咄嗟に腕を引いたが、間に合わず掴まれてしまった。そのまま位置を交代するように引っ張られ、佐々木は教室から出されそうになった。

「何を——」

 かろうじてドアと壁につっかえるように両腕を伸ばし、佐々木は教室から出ることを拒んだ。だが態勢を整えようとしたとき、位置が逆転した河崎が背後から佐々木の背を蹴り飛ばした。

「実験開始~!」

「あっ」

 体重を支えていた両手が耐え切れず宙に投げ出され、佐々木の眼前に死の廊下が現れた。

冷たい床の感触を手のひらで味わったとき、佐々木は「終わった」と思った。後ろで笑っている河崎の声を聞き、さらに絶望した。

ルール一の、教室から一歩でも外に出たものの家族は即座に殺されるという条件を満たしてしまった。監禁されていた父と母が今、殺されてしまう。

「いや……まだ見られていない——!」

 山神に目撃されなければルールに抵触したことにはならない。そう考えて急いで走り出そうと立ち上がったとき、ぶれた視界の端に人の輪郭が映り込んだ。瞬間体が凍ったように固まり、佐々木はその場から身動きできなくなった。教室のドアは二歩先にあるというのに、恐ろしく遠い場所に感じた。

目の端に白く映るものは一歩一歩近づいてきており、とうとう佐々木のすぐ横にたどり着いた。

「佐々木高志、アウト」

 耳もとに寄せられる生温かい吐息と残酷な宣告が、耳を通り越して脳を貫いた。

「あ……いや、先生、違います、これは河崎に押されて——」

「何言ってんの? ルールはルールだろ」

 声音が笑っているように感じた佐々木は、反射で山神の表情を確認するために首を巡らせた。そこには狂った光を灯す見開かれた目があった。獲物をいたぶって楽しむような残虐な瞳が、恐怖と喪失感を佐々木の中に一瞬にして植えつけた。

 山神は姿勢を戻し、スマホを取り出して耳に当てた。

どこに連絡するのか佐々木にはすぐに見当がついたが、止めようにも呼吸が邪魔で声が出せない。

——嫌だ、やだ、ダメ、ダメだって——!

家族を失う怖さが呼吸を乱し、足をすくませ、視界を明滅させる。耳だけは正常に働いている証拠に、山神の紡いだ軽々しい一言が聞こえてくる。

「佐々木高志の家族を殺せ」

 了解、という短い返事が聞こえた。山神はスマホをポケットにしまい、笑みを浮かべた。

「あっ……ぁ……」

 ほんの少し廊下に出ただけなのに、こんなことで家族が殺されなきゃいけないのか。おかしい、おかしすぎる……。

そんな佐々木の絶望などおかまいなしに、二時間目の始まりを意味するチャイムが鳴り響く。チャイムが鳴り終わるころには、教室の生徒たちはざわめき始めていた。顔を上げると、スマホを手にして画面を見つめ、唇を噛みしめている生徒たちの姿が目に入った。

「へへっ、実験成功~! 佐々木ぃ! スマホ見てみろよ!」

 ほかの生徒とは違い、河崎だけは可笑しいようだった。自身のスマホを指でつまんで揺らしている。

 佐々木は誘われるようにポケットに手を入れ、スマホを取り出した。画面には通知がきており、開くとグループチャットに二枚の画像が送られてきていた。

何が起こったかわかっていて、見たくないと思っているのに、佐々木の目は自動的に画像の内容を読み取り、脳に送ってしまう。

「ああああああ——!」

 父と母は監禁された家族たちの前で、頭を正面から撃ち抜かれていた。冷たいコンクリートの上に二人の生きていた証が飛び散っている。

 弟と祖母も死んでいた。脳天が斧か何かでかち割られたようで、外のアスファルトの上に仰向けに転がっていた。

「なんで」

 佐々木は頭を抱え、膝をつき、声の限り叫んだ。何度も、何度も。

「なんで⁉ なんでだよ! なんで何も悪いことをしてない家族が殺されなきゃならないんだっ——!」


ふと膝の横に煌めく刃が置いてあるのに気づいた。そばにいたはずの山神はすでに教室に入っており、教室前方の入り口に寄りかかってこちらを見ていた。

佐々木は凶器の柄を握り、立ち上がった。

「佐々木、残念だったな、お前の家族は死んだ」

「……」

「だがそれはお前のせいじゃない。そうだろ? 悪いのはお前を廊下に突き飛ばした河崎だ。何の罪もないお前の家族が、河崎ただ一人の気まぐれによって殺されたんだ」

 ——そうだ、あいつのせいだ。河崎が殺したんだ……。

「そのナイフをやる。殺人者は教室の中で得意げに笑ってるぞ。『教室から出たら家族が死ぬって本当だったんだ~。実験してよかったよ~』ってな」

 瞬間、佐々木の頭に血が上り、嘲笑う河崎の表情が脳裏に浮かぶ。

「——絶対許さない!」

 後方のドアに向かってダッシュし、教室に入る。河崎を探すと、生徒たちに囲まれて壁際に追いやられているところだった。見つけたとたん、顔中の血管が破裂するかというほど熱くなり、耳は高音が鳴り響いて聞こえなくなった。河崎から目が離れない。

ナイフを力いっぱい握りしめ、人垣をかき分けて中心に突っ込んでいく。河崎の憎たらしい顔が見えた。

——こいつが、こいつが父さんを、母さんを、ばあちゃんを、悟志を——!

家族の仇をとるために、佐々木はナイフの先端を相手の腹に突き刺し、内臓を傷つけ、ズタズタに切り裂いてから生ゴミとして廃棄してや——

「——ダメだ!」

 あと少しで刺さるはずだったナイフを、腕ごと壁に叩きつけられて止められた。すんでのところで邪魔が入ったと見上げると、森口が腕をがっしりと掴み、佐々木を猛烈に睨みつけていた。

「佐々木君、気持ちはわかるけど殺しちゃダメだ。君まで殺人者になってしまう!」

「知るかあ! ぼくはこいつを殺すんだぁっ!」

 佐々木は暴れ、もがき、目の前の悪を殺そうとする。憎たらしい顔が、家族の命を理不尽に奪った気持ちの悪い顔面が、すぐそこにある。このナイフを腹に突き刺せば、殺せる。殺す以外の選択肢なんて、絶対にない。

 だが、非力な佐々木は数人の男子に押さえつけられてしまう。手首を強く掴まれ、握りしめていた凶器が佐々木の手から滑り落ちる。佐々木にしか許されないこの殺意が、復讐という名の殺す権利が、関係のない人間に剥奪されてしまった。

「……っ! なんで……、なんでこいつは、ぼくの家族を……!」

 だが、それよりも何よりも、目の前の河崎が憎い。殺したい。荒い息を吐き、歯を噛み潰しながら、佐々木は憤る。怒りは収まらない。家族を理不尽に奪われて、怒りが収まるわけがない。しかし体を押さえつけられて動けずにいると、少しずつ怒りを超える新たな感情が湧き上がってくるのを感じた。それは、悲しみだった。悔しくてむかついて殺してやりたい気持ちの奥から、泣きたくなるような深い悲しみがだんだんと近づいてくる。

「……佐々木君」森口が床に正座し、真剣な表情を佐々木に向ける。「気持ちはわかるよ。僕もあいつを絶対に許せないし、今すぐにでも殺してやりたいよ。……でも、佐々木君が仕返しをしても、家族は帰ってこない。それどころか、この最低な人殺しと同じになっちゃうんだ。僕は君を河崎と同じにはさせられない。君には優しい人間でいてほしいんだ」

 森口の優しい言葉が、佐々木の心に沁み入ってくる。泣きたくなるような悲哀の心に、一滴の雫が天から落ちてくるように。

「う……、くそっ……!」

 強く握った手を、悔しさと憎しみを込めて床に叩きつけた。愛する人たちの大好きな顔が次々と現れ、「高志」と呼んでくれる愛しい声が頭の中で反響し続ける。

 大粒の涙が瞳から溢れていった。

今までの人生で味わったことのないとてつもなく大きな喪失感が、佐々木の心を徐々に侵食していく。父、母、弟、祖母、かけがえのない存在が、一瞬にして奪われた。

佐々木の心はもう戻らないかもしれない。


〇二時間目


 1


 押さえつけていた男子たちから解放された佐々木は、湧き出てくる涙をこぼし続けながら、河崎とは反対方向の窓際の壁に移動した。

河崎はクラスメイト全員から非難され、一番の友達だった吉田からも距離を置かれていた。

 体育座りをして俯いて泣いていると、隣に誰かが座る気配がした。すすり泣く声が、それが幼馴染の三上だということを教えてくれる。

「ごめんね……。勝手に泣いちゃって。でも、高志のお父さんとお母さん……、おばあちゃんと悟志くん……ひぐっ、もう会えないって思うと……」

 三上はまるで自分の家族が殺されたかのように、次から次へと熱い雫をこぼす。佐々木もつられて涙をさらに流した。

「うん……」

 もう会えない——その言葉を聞くと、悲しい気持ちがさらに膨れ上がり、喉の奥から湧き上がって止まらなくなる。佐々木と三上はむせび泣いた。

 教室の反対側、河崎に非難を浴びせる生徒たちのもとに、この教室の支配者の声が届いた。

「お前らさあ、言い合うだけで誰も殺そうとはしないんだな。せっかくナイフが転がってるっていうのに、誰も使おうとしない。佐々木だけだよ、殺意を持ったのは」

 じっと成り行きを見ていた山神は、教壇で腕組みをしたまま冷徹に言い放った。

「もう二時間目は始まってるんだ。早く殺し合えよ」

 河崎を責める輪の中心にいた森口が、殺されるかもしれない可能性を忘れたかのように、山神を睨みつけた。

「先生、いやあんたはおかしいよ! 殺し合うなんて絶対間違ってるし、人間不要論も僕たちには必要ない! 僕たちは是が非でもここから脱出しますよ!」

 生徒たちもうなずいて、森口の味方につく。だが山神という狂人は意に介さない。それどころか、あきれたように吹き出し、やれやれと肩をすくめた。

「森口、お前はまだ理解していないんだ。人間不要論が理解できれば、人を殺すことが悪いことだとは思わなくなる。それどころか、人を殺すことが地球やほかの生き物を救うことになる、と気づくはずだ。佐々木はまあ、一時の逆上にすぎないがいい反応だったぞ? あのままお前が止めなければ確実に殺していただろうよ」

 山神は森口に蔑むような視線を向け、一度教卓を強く叩いた。

「いいか、この教室においては殺すのが正義で、殺さないことは悪だ。森口、お前が佐々木を止め河崎を守ったことによるペナルティを与える」

 誰も彼もが反抗的な顔つきで山神を見ている。吉田や橋本といった、気が強い人間は今にも飛びかかりそうだ。山神が顎に手をかざし考えるそぶりを見せる。

「そうだな……。五分以内にこのクラスの誰かを殺さないと、橋本の家族を皆殺しにする、ということにしよう」

「はぁ⁉ ふざけんな!」

「そんなの認められっかよ!」

 橋本と吉田がキレる。輪の中から飛び出し、山神のほうへ寄っていく。

「なんだ? 俺を殺して止めるか? それも一つの手だな」

 ニッと笑った狂人が腕組みをほどき、懐に手を突っ込んだ。

「上等だ、お前を消せば俺たちは解放される!」

「消す? フッ……」

 失笑した山神は、楽しそうな表情をして吉田を見る。吉田は激怒しているようで、指をポキポキと鳴らし、山神のもとへ近づいていった。

 青筋を立てた巨漢が拳に力を入れ、山神に襲いかかろうとした。そのとき山神の懐からきらりと光るものが見え、殴りかかろうとする吉田の首の一寸先をヒュン、とかすめた。

そのまま前に体重をかけていたら確実に死んでいたであろう高速の技。だがすんでのところで後ろから腰に抱きついた森口が、吉田の体を後ろに引いていた。吉田はおかげで首を切られずに済んだ。

 吉田は目を見開き、反応できなかったことに戦慄しているようだった。喉仏が一度下がり、口は魚のように開きっぱなしになった。

「いい反応だ森口。……俺が殺すのは簡単だが、それじゃあこの場を用意した意味がなくなるからな。殺し合いは推奨するが、これからも俺に向かってくる奴はできるだけ止めてくれ。命がもったいない」

 ナイフを懐にしまった山神は手を叩き、「あと四分だ」とだけ言った。あと四分で誰かを殺さないと、橋本の家族が皆殺しにされてしまうという宣告だ。

「ちょっといいか」

 教室の壁の近くにいる群衆の中から、一つの手が上がった。クラスで一番頭のいい宮園だった。

「あ? なんだよ、なんかいい案でも思いついたのか」

 こめかみに汗を浮かべている吉田が、震える声を隠しきれずに聞いた。

「いい案ではない、けど、選択肢ははっきりさせておいたほうがいいと思うんだ。現状を全員が正しく理解するためにね」

 森口や水谷といったクラスの中心人物を一度見て、宮園は切り出した。

「あくまで選択肢だけど。一、誰かが誰かを殺す。二、何もせず時間経過で橋本の家族が殺されるのを待つ。三、この教室から脱出する。四、山神を倒す。現実的に考えると、これくらいしか今俺たちが取れる行動はないんじゃないか?」

 反論も覚悟の上だろう。特に一と二の選択肢は誰も首を縦に振るとは思えない。どちらも人が死ぬ選択肢だからだ。三か四の選択肢が妥当だろう。

宮園は眼鏡を中指で触り、周りの様子をうかがった。一番に反応したのは橋本だった。

「あたしの家族がとか、選択肢にないから! ってか、脱出するしかないじゃんこんなん!」

「そうだな、脱出するのが一番だ。けどどうする、窓の外にも廊下にも銃構えた兵士がいるんだぞ。脱出したとしても何人も死ぬことになる。それに、家族も殺されることになる」

 吉田が橋本の意見に同意するが、ルールにより家族が殺されてしまうという最大の懸念点を挙げ、脱出が難しいことを示唆する。時計を見た森口が真剣な表情で会話に入る。

「クラスメイトや家族が死ぬなんて、絶対ダメだよ。それにたとえ全員でいっせいに教室を出たとしても、ここにいる二十五人のうち、半分、いやそれ以上は確実に死ぬことになる。なら選択肢は一つだけだよね」

 頷く生徒たち。いまだ反対側の壁にいた佐々木と三上を除き、ほぼ全員の意思が固まった。

人質の家族を殺す指令を出せるのはおそらく山神のみ。屈強な兵士も警察も山神に服従していたからだ。今までの敵側の態度から、この学校にいる敵の中で最も権力を持つのは山神だと推測できる。その山神を倒すことができれば、家族を殺されることなく脱出できる可能性も見えてくる。

「あと二分しかねえ。ナイフは俺が持つ。女子は下がってろ」

 先ほど佐々木が落としたナイフを拾って、吉田はクラスに呼びかける。男子の中でも強そうなものたちが選抜され、教卓の脇に寄りかかる山神の前に戦う男たちが並んだ。

森口、吉田のほかに、柔道部の藤川、吉田の舎弟の中村(黒人とのハーフ)、サッカー部の相馬が前に出た。この強いメンツ五人がかりでいっせいに飛びかかれば、山神を倒せるはずだ。

すると、何を思ったのか、山神が白衣の内側に隠し持っていたサバイバルナイフを四本、男たちの前にばらまいた。そのとき、床に落下したその金属音が、絶望の沼に沈んでいた佐々木を現実に引きずり出した。佐々木は涙を拭き、顔を上げた。

——一体どうしたんだろう。殺気立ってる……。

「話し合った結果がこれとはまったく見込みのない連中だが、……ほら、殺す気なら凶器を使わないとな」

 すでに持っていた吉田を除いた四人が、それぞれナイフを手にし、臨戦態勢をとった。

 ——そうか、山神を殺そうとしてるんだ。

 脱出が無理なら、山神を殺せばいい。話し合いをした結果、そう考えたのだろう。

山神を挟み込むように藤川と中村が教壇に乗り、吉田が教卓の正面、森口と相馬は吉田の両隣りに位置取った。じりじりと間合いを縮めていく。そして——、

「いくぞ!」

 吉田が力任せに突き出したナイフの先端が、山神が立っていたところを貫いた。だが、肉体を貫くはずの刃は空を切り裂いただけで、ひょいとかわした山神には当たらない。

かわした先で藤川が斜め上から振り下ろす。それをまるで予測していたかのように半身を捻じって避ける山神は、次いで飛んでくる中村の胴体への横薙ぎに軽く反応し、逆さに構えたナイフで受け流す。その隙を逃さなかった相馬がナイフを膝もとから切り上げようとするも、それにも超速で反応しナイフで止めた。

 ——すごい。まるで一人だけ次元が違う。

 家族が殺されて悲しみのどん底にいるはずなのに、佐々木はいつの間にか山神の動きに見惚れてしまっていた。運動能力が高い吉田たちがまるでスローに見えるほど、佐々木の目に映る山神は速かった。

相馬、中村、藤川を回転しながらほぼ同時に蹴り飛ばし、突進していった森口のナイフは上に弾かれ、天井に突き刺さった。

最後に吉田がもう一度突きをしに前に出たが、その首の高さに山神はナイフを横に構えていた。このとき吉田が死の気配に気づいたか否かは、定かではない。だが、体重の乗った吉田はもう止まれなかった。

「——」

ザシュ、という肉を削ぐ音が鳴り、鮮やかな赤の飛沫が黒板と教卓に飛び散った。吉田は撃沈した。

 遅刻してきた木野が殺されたときのように、誰かが悲鳴をあげた。教室がパニックになり、生徒たちは後ろの壁にめり込むように後退した。隣に体育座りしていた三上も、佐々木の横から離れて掃除用のロッカーのところまで必死に移動していた。

そんななか佐々木はただ一人、場違いな感想を抱いていた。あろうことか、山神の体さばきに感激していたのだ。

——なんて鮮やかなんだ! 包丁さばきは父さんより上だ!

山神は汚れたナイフを床に落とし、白衣の肩についた血を一瞥して舌打ちをした。

「ちょいと早いが二時間目は終わりだ。それと五分経ったから橋本の家族を殺す」

 吉田和真と橋本杏奈の家族を殺せ、という無機質な声を通話口に向けた山神は、すぐさま教室から出て行った。

 その後、警察である森口の父ともう一人の警官が、吉田の骸を引きずってどこかへ持っていった。遅れてスマホの通知音があちこちで鳴った。

彼氏と家族を同時に失った橋本の泣き声が、佐々木の耳の中をひっかくように傷つけた。


 2


 ついさっき佐々木は、人を殺した狂人の、素早い動きや包丁さばきに見惚れてしまっていた。冷静になって考えてみると、自分はどうかしている、と思わざるを得なかった。

——ぼくは人殺しを容認しているのか? それに、ついさっき父さんや母さんが殺されたばかりなのに、どうしてぼくはあんなことを思えたんだ?

 頭に穴の開いた両親の画像を見て、ショックを受けたはずだった。脳天を割られた弟と祖母を見て、絶望し、泣いたはずだった。

だがそのことよりも、山神の美しい包丁さばきや尋常でない俊敏さのほうが大切だと脳が判断した、とでもいうのだろうか。

自問しているうちに、佐々木の心は切り替わっていった。いつまでも家族の死を悼んでいられる状況ではない。この教室に、現実についていかなければならない。


 橋本に寄り添う戸田、小林、吉田の親友だった河崎や藤川らが怒りに震えていた。

森口はほかの男子たちに、水谷は女子たちに声をかけ、なんとかこの最悪な状況に耐えられるように奮闘していた。

三上は佐々木と安藤に声をかけた後、「空気が悪いから」と言って窓を開けていった。冬の冷たい風が教室内に入ってきた。

ぼーっとする頭で三上のなびく髪を眺めていると、ふと思ったことがあった。本当に最後の一人になるまでこの殺し合いが続くというのなら、三上もいつか死んでしまうのだろうか。

大事な幼馴染で、好きな女の子が、佐々木の目の前で無惨に殺される。木野や吉田のように、首を切られて血を噴き出して息絶える。

そんなものは、絶対に見たくない。

見たくないが、この理不尽な教室で佐々木が三上を救えるとは到底思えない。同年代の男子にさえ勝てない非力な佐々木では、山神を倒すことも、脱出することも不可能だろう。

佐々木は窓の縁に片手をかけ、頭を少し出して地面を見下ろした。

自殺、という言葉が佐々木の脳裏をよぎる。自殺すれば、三上の死を目にすることも、殺し合いをすることもなく逝ける。

——なんて、自分勝手にもほどがあるか。

乾いた笑みが佐々木の口から漏れ出た。

それに、この教室は二階に位置し、地面は雪に覆われている。もし落下しても足を折るだけだろう。自殺するには条件が整っていない。

地面に落ちて痛みにひるんでいる間に兵士に撃たれて死ぬのが想像できた。教室で死ぬのと何ら変わらない、と結論づけた。

 窓の縁にかけていた手をひっこめようとしたとき、佐々木の視界に艶のある黒髪が入り込んだ。

「何考えてたの?」

「……いや、なんでも」

 目を伏せて首を軽く振った。三上は窓の下の壁に体を預けて、外を見ながら耳に髪をかけていた。佐々木の家族が死んだときに泣いた跡が、目の周りにまだ残っている。

「もう、嫌になるよね。私、ここから落ちて死んじゃおっかな、なんて」

「……無理だよ。ここじゃ高さが足りないよ」

「あ、やっぱりそんなこと考えてたんじゃん。高志ってほんとバカ! 顔で大体わかるんだからね!」

「ご、ごめん……」

 自殺を一瞬でも考えたことを見透かされたみたいで、胸のあたりを小突かれた。

「家族はいなくなってもさ、高志のこと大事に想ってる人は、ほかにもいるんだよ。だから、死ぬことなんて考えないで高志。いっしょに頑張ってここから脱出しようよ」

「……うん、ありがとう」

 ——高志のこと大事に想ってる、かあ。嬉しいな。

 心が温かくなるのを感じた。佐々木の脳裏に、『好き』の二文字が浮かんだ。

 三上との会話が途切れたところで、今度は森口が近づいてきた。真剣な顔つきをして、佐々木たちとその近くにいた生徒たちに、一度みんなで話し合いたいから集まってくれと言ってきた。

生徒たちは教室後方に集まっていく。佐々木も移動した。ちらと黒板のほうを見て、森口が話し始めた。

「今はまだ十時半。三時間目が始まるまで、あと三十分ある。山神に勝てない以上、残された選択肢は脱出しかない。でも簡単には脱出できないし、もし教室を監視されているとしたら、教室から一歩でも外に出た瞬間に家族が殺されてしまう。だからみんなで考えたいんだ」

 切実な目で訴えかける森口。口を引き締め、全員に問いかける。否定する声は上がらず、教室から脱出することに全員賛成のようだった。

実際問題、殺し合いをするわけにもいかないし、山神を殺すこともできそうにない。なんとかして脱出する方法を考えるしかなかった。宮園が挙手をした。

「森口の意見におおむね賛成だけど、監視されているか否かについては、考える必要はないよ。監視があろうとなかろうと、教室を脱出するということは自分の家族が殺されることを前提に動かなければならない」

「それは、どういうことかな?」

「仮に、兵士にも山神にも監視カメラにも見つからずに教室から出て外に脱出できたとしても、家族の居場所は俺たちにはわからない。全員で家族のいる場所を探している間に山神が教室に戻ってきたら、どうなる?」

「あ……そっか。あいつなら誰がいなくなってるかすぐにわかるから、家族を殺されるのは間違いない、ってことだ」

 水谷が納得した様子で頷いた。

 宮園の言うとおり、たとえ誰にも気づかれずに脱出できたとしても、山神には後で絶対に気づかれてしまう。三年間担任として接してきた人間が、クラスの誰が脱出したのかを把握できないはずがない。宮園が再度伝える。

「だから、脱出するなら、家族の命を犠牲にしなければいけない」

「それはダメだね。家族を犠牲にして脱出、生き延びたところで意味はないと僕は思うよ」

「わたしもそう思う。何か別の方法を考えないと……」

 ほかの生徒たちも頷き、俯いて頭を巡らせている。佐々木も考えるが、脱出できる案は浮かばない。

 その後クラス全員で話し合ったが、五分十分と過ぎても、実行可能な案が出ることは無かった。

一番脱出できる可能性が高く、なおかつリスクが少なさそうな案は、兵士の銃を奪ってほかの兵士と山神を制圧するという宮園のものだったが、兵士のもとにたどり着く前に確実に死人が出るし、そもそも銃の撃ち方も知らないし、さらに言うと死ぬとわかっていて挑もうとするものがいない、というさまざまな問題を孕んでいたため、この案も通ることはなかった。

最低でも山神を倒さないといけない、という最大の条件を突破できる案が出ることはなく、十時五十分、二時間目の終わりのチャイムが鳴った。

カーテンが勢いよくなびいて冷たい風が入ってきた。全員必死になって思考していたため、教室が寒くなっていることに気づかなかった。佐々木と三上は窓を閉めて回った。

 やがて、卒業式予行の日には不必要なはずのチャイムが、無情にも三時間目の始まりを告げた。


〇三時間目


 1


 鐘が鳴り終わるとき、教室前方のドアから山神が入ってきた。

「おいおい、まだ泣いてんのかよ橋本」

 嘲笑しながら、山神は言った。その山神の白衣には先ほどついたはずの血がきれいさっぱりなくなっていて、靴も新品同様になっていた。おそらく着替えてシャワーでも浴びてきたのだろう。

 泣き止まない橋本は答えることができない。

「それは人間不要論が非常識な考えだったころなら正しい反応だった。人間としてこの世に生まれ、家族や愛が大事だと気づき、友人との絆を深め、やがて恋に落ちて子供を産み育てる。この繰り返しが善とされていたころならな。だが、今日からは違う。お前らが今までやってきたことすべてが悪となった。いいや、ただ気づかないふりをしていただけで、ずっと人間は悪だった。だから橋本、それにお前たち、人間が悪で不要な存在と正しく認知されたこの世界では、人間が一人死ぬごとに泣くなんてことはバカがやることだ。これからは一人死ぬごとに地球がきれいになる、地球が救われると考えろ。それが常識になる」

 まるで社会の授業を教えているような顔で山神は説く。嘲笑めいた顔ではなく、真面目な教師としての顔で佐々木たちに教え込んでくる。

「さあ、時間は有限だ。俺は明日からも授業があるからな。今日中に終わらせなければならない。……それじゃあ三時間目、始めようか」

 染み一つない白衣の内からチョーク入れを取り出した山神は、黒板に書かれた最初のルールの隣に、クラスメイトの名字を次々と書いていった。二十五人クラスから木野と吉田の二人が死んで、残りは二十三人。それが三つのグループに分かれて書かれていた。


『佐々木高志、相馬唯斗、宮園洋、森口翔太、安藤咲花、戸田依梨夢、三上恵美』

『太田正人、河崎拓也、清水達樹、中村・スジーキー・海人、野田晴太、藤川優佑、小林継美、橋本杏奈』

『久保寛太、西山涼、渡辺修一、井口萌、今野美紅、佐藤凛、中野瑠香、水谷夏実』


 グループを見ると、クラスの内情を事細かく知っているわけでもない佐々木でも、分け方が偏っていることに容易に気づけた。おそらく、山神から見て仲の良い生徒同士を組ませたのだ。

佐々木高志、三上恵美、安藤咲花は仲が良く、森口翔太と相馬唯斗も仲が良い。宮園洋は、佐々木と同じで一人でいることが多いから、人数合わせだろう。だが戸田依梨夢だけは意図的な配置だと感じた。

戸田依梨夢は、橋本杏奈と小林継美と木野愛里(木野は死んだが)との不良女子四人グループのはずだが、橋本、小林とは今回別のグループに配置されている。不自然だ。なぜだろうか。

 考えている間はほとんどなく、山神は話し始めた。

「三時間目の殺し合いは、三つのグループに分けた殺し合いだ。殺し合いといっても、ただ全員が殺し合うわけではない。それが一番手っ取り早いんだが、お前らはそうもいかないみたいだからな。これまでの二時間でお前らが他人を殺せない人間だということはよくわかった。だが、縛られたルールの中では人は変わらざるを得なくなる」

 山神は続けた。

「殺すという体験を実際に一度でもしたやつは、次から殺すことに躊躇がなくなる。殺すことで解決できるのなら、その方法を選ぶようになる。……ということで、次の殺し合いではぜひとも殺人者が出ることを期待する。さあ、ルールの説明だ」

 黒板の右側にまだスペースがあったので、山神はそこに新品同様の長いチョークを滑らせていく。

すぐに書き終わった。内容はシンプルなようだ。


ルール一 グループごとに集まり、十分以内に同じグループ内の誰か一人を殺す

ルール二 殺せなかった場合はペナルティを与える


「グループごとに分かれて適当に集まれ。ナイフは今から全員分配るから、それで殺せ。はい、スタート」

 おざなりな号令で生徒たちは動き出した。佐々木のグループ七人は、教室中央の左隅に集まった。山神はむき出しのナイフを一人一人に手渡ししていった。

ナイフを手にした佐々木に何の危機感も持たないで背を向ける山神を、一瞬だけ刺しにいこうか迷ったが、そんなことをすれば自分が殺されることを本能で感じ取ったのでやめておいた。ほかの生徒たちも同様、隙だらけに見える山神に誰一人として襲いかかるものはいなかった。

 十分の計測はすでに始まっており、全員にナイフを配り終えた時点で残り八分ほどとなっていた。

「先生、質問してもいいでしょうか」

 佐々木の隣に立つ森口が手を挙げた。

「いいぞ」

「ペナルティの内容はどんなものなのでしょうか」

「今答えるわけないだろう」

 腕組みをして教壇に立つ山神が、厳しめの口調で答えた。すみません、と森口は頭を下げた。

「話し合いはしてもいいでしょうか」

 教室後方の右隅にいるグループの中から、水谷の声が上がった。山神はニヤリとした後、鼻から空気を出して答えた。

「好きにしていい。殺しとは関係のない話でもいいぞ。例えば俺を殺す方法とか、脱出する方法とかな。別にそれに怒って俺が何かすることはない。ただ、不愉快にはなるな」

「あ、ありがとうございます」

 萎縮した様子の水谷が唇を噛みしめ、グループに目を向けた。その後質問が出ることはなく、それぞれグループ内で少しずつ会話が始まった。

 佐々木のグループでは一番山神が近いというのに、森口が遠慮なく話をし始めた。

「僕は人間不要論なんか馬鹿げてるとしか思わない」

「え……」

 開口一番に山神にも聞こえる声で、森口は反感を買うであろう発言をした。佐々木は驚いて思わず声を出してしまった。

星守教の教義を罵ったことが山神の逆鱗に触れるのではないかと、グループメンバー全員が慌てて山神のほうを見る。

「大丈夫。……ね?」

 山神はこちらを見てはいたが、怒る様子は微塵も見せていない。

先の水谷の質問に対する山神の答え、殺し以外の話をしてもいいということを、森口は身をもって証明したのだった。基本的に山神は嘘をつかない、ということだろう。

森口はグループのメンバーの顔をぐるりと見渡し、落ち着いた声で言った。

「時間も残り少ないけど、自由に発言していいということはわかった。だから、これからは遠慮なく意見を言っていこう。いいよね、みんな?」

 佐々木たちはそれぞれ頷いた。宮園が眼鏡に中指を当てて話し始めた。

「俺はこの十分の間に殺し合いをする必要はないと判断した。もちろん、殺し自体反対ではあるが、わざわざ自分の手を自らの意思で汚す必要はない、という意味でだ。時間は有効に使って、この馬鹿げたゲームをどうにかして終わらせる方法を考えたい」

「そうだね。どうにかして脱出するか、終わらせるかしないとね」

 三上も、首を縦に振って賛同した。安藤もその隣でうんうんと頷いている。

森口が佐々木に「どう思う?」という目線を投げかけてきたので、佐々木は答えた。

「ぼ、ぼくもそう思う」

 実際、殺しなんかしたくないし、協力して知恵を出し合えば何とかなる可能性はあると佐々木も考えていた。ただ吉田のように山神を倒そうとする作戦には反対するつもりだった。

森口の横に立っている相馬が、日焼けした腕を組んで言った。

「俺も気持ち的には当然殺し合いをしたくはない。でも、ペナルティのことも考慮に入れないといけない。わざわざルールに書いてあるってことは、普通に考えて今一人を殺しておくほうが犠牲は少なくて済むってことだ」

「……は? それってさ、ペナルティが怖いから今一人殺っちゃおうってこと? あたしにはそう聞こえたけど」

 壁に寄りかかっている戸田が、爪を見ながら相馬の発言に反応した。

「違う。そういう意味じゃない。この十分間で誰一人殺さなかったら、犠牲者が一人では済まなくなるかもしれないだろ。俺はそのリスクも一応わかっておいたほうがいいと思っただけだ」

「うん、僕も唯斗の意見は大事だと思う。山神は正真正銘の殺人鬼だ。だからこの十分間が終わった後、あいつは誰かを殺すだろうね。それも、一人や二人じゃないかもしれない。……でも、クラスメイトを自分たちの手で殺すより、僕はそのほうが何倍もいいと思う。みんなもそう思わない?」

 悲しげな顔を浮かべた森口が、グループ内の全員に問いかける。

森口が言いたいことはわかる。佐々木も賛同できる。どちらにせよこのクラスから死人が出ることには変わりないが、自分たちの手でクラスメイトを殺すより、山神に殺されたほうがまだマシだと言っているのだ。

被害者であれば、心は穢れることはない。

佐々木も、誰かを殺して自分一人だけが生き残るなんて残忍なことは考えられなかったし、それくらいなら殺されたほうがマシだと思っていた。

 戸田もほかの全員も同じ考えのようで、ひとまずこの十分間は殺し合いをしない方向にまとまった。

佐々木はほかのグループはどうなったか気になって、視線を教室の後ろに向けた。佐々木たちのすぐ隣にいる河崎のグループも、殺し合いを始めるような雰囲気ではなかったため安心した。

ただ一つ気になったのが、明らかに意気消沈している様子の橋本の存在だった。彼氏と家族を殺されたことで相当生気を失っている様子だ。

橋本の落ち込む姿を見て、佐々木もつられて悲しい気分になった。理不尽に殺された家族との、最後になってしまった今朝の会話が脳裏に蘇る。

『明日で卒業かぁ、高志。早いもんだなぁ』

『母さんとお父さんと、それにおばあちゃんも、明日の卒業式、見に行くからね』

『いてらしゃい!』

『気ぃつけて行くんよお』

『うん、いってくる』

 ——ごめん、みんな。……卒業式、なくなっちゃったんだ。本当はちゃんとした晴れ姿、みんなに見せたかったんだけどな……。

グループ内で話し合いが続いているが、それらは佐々木の頭上を通り過ぎていく。耳には何も入ってこない。

家族の顔を思い返していると、堪えきれなくなった涙が目に溜まってきた。心臓がキュッと締めつけられるように痛い。

——あったかい家族だった。こんなぼくなんかを一生懸命育ててくれた。愛してくれた。数えきれないほどたくさんもらった。みんな、大好きだった。……本当は、もっとずっと、いっしょにいたかった。

あふれる思いとともに、目から熱のこもった水滴がこぼれ落ちていく。

——こんな息子のために愛情を注いでくれたことに、『ありがとう』って、言いたかった。一人前になって、恩返しがしたかった。


とめどなく流れる悲しみを押さえきれずにいると、顔のすぐ下に水色の四角く折りたたまれたものが、急に横から現れた。きれいなハンカチだった。

顔を上げると、そこには片手を胸に当てた安藤の姿があった。唇を少し噛みしめ、泣き出しそうな表情をしていた。

「これ、使って」

「あ、……ありがとう」

 受け取った佐々木は、ありがたく涙を拭いた。ハンカチはほどよい柔らかさで、柔軟剤のいい匂いがした。ふいの優しさに、また涙が出てきそうになった。

それをぐっと堪えて奥に押し戻し、濡れてしまったハンカチを安藤に手渡す。

「ごめん、汚しちゃって……。でも、安藤さんも使ったほうがいいよ」

 赤縁の眼鏡をかけている安藤は、レンズの向こうにある瞳を潤ませて必死に泣くのを我慢していた。もらい泣き、というものだろうか。首をふるふると左右に振る小柄な少女を見て、優しい子だなと佐々木は思った。

ハンカチを受け取った安藤は佐々木に「ありがとう……」と言い、眼鏡をずらして涙を拭いた。自分のハンカチなのに礼を言う彼女がなんだかおかしくて、少し心が和んだ。

 戸田を除くグループの全員が、佐々木と安藤に声をかけてくれた。三上には頭を撫でられてしまった。

「もう、メソメソしないの! ……ったく、泣き虫なんだから高志は」

「うん、ごめん……。ありがと……」

 そんなことがあったが、その後も佐々木のグループでは、森口を中心にこの状況を打破できる方法を必死に探し続けた。

しかし、やはり家族という人質をとられているせいで生徒側の動きがかなり制限されるので、良案は出なさそうだった。十分間の殺し合いの残り時間が二分を切ったとき、隣のグループで塞ぎ込んでいた橋本が手を挙げた。

「先生、星守教には女の人も当然いますよね。……質問していいんですよね」

 挙手したまま喋る橋本の目もとは、メイクが伸びて汚くなっていた。まだ目は充血していて、頬には涙の流れた跡が少し残っている。だが橋本のその目は、今はもう、家族が殺されて落ち込んでいる人間の目つきではなかった。意思の強さを感じる目だった。

佐々木は唐突な質問もそうだが、彼女の立ち直りの早さに心底驚いた。教室中の生徒たちも、橋本の急な質問と態度に驚いているようで、全員が彼女に注目していた。山神だけはこの場にそぐわない笑みを浮かべた。

「もちろん質問は歓迎だ。そして答えはイエス、女性も星守教で活動している。だがなぜそんな質問をする?」

 なぜ急に今こんな質問をしたのか、佐々木には皆目見当もつかなかった。三上も安藤も眉を寄せて橋本のほうを見ていた。

「女性は子供を産めますよね。だから人間不要論とは反対に、人間を増やしてしまう要因になってしまうと思うんですよ。先生はこの教室からは一人しか卒業生が出ないと言ってましたが、それは女子でもいいんですよね?」

「ああ、そういうことか、いい質問だ橋本。つまりお前が聞きたいのは、もし最後まで生き残った一人が女だったら、俺が不要だと判断して排除しないか、ということだな」

「はい。どうせ死ぬんだったら、ここで頑張る意味がないので」

 突如始まった問答に、佐々木の頭はついていけなかった。橋本の言いたいことがいまいち理解できない。女がどうとか、生き残るとか、頑張るとか、どういうことかわからなかった。山神は続けた。

「理解の及んでいない生徒が多いな。橋本はつまりやる気になったってことだ。家族が殺されたことで俺に復讐心を抱いたのか知らんが、正当にここを出ようとするのはいいことだろう」

 橋本が舌打ちをしたのが聞こえた。

「最初のほうにも言ったが、俺の目的は殺しのできる人間を作り出すことだ。短時間でな。星守教徒は全世界の半分以上と言ったが、それはもちろん高齢者も含まれる。戦力にはならない。そしていくら洗脳済みだとはいえ、全員が全員、殺しができるとは限らない。人間不要論は叩き込まれていても、実際に殺す行為を躊躇わない狂人が何人現れるかわからない。そのための保険がお前ら若い年代の人間だ。体力も力もあり、殺しもできる、そんな可能性を秘めた原石がお前らで、そいつを採掘するのが俺の役割だ。だから俺は、卒業生が女でも男でも構わない。……ただ、この教室で生き残った最後の一人が殺しのできない人間——つまり殺すことなく偶然に生き残った奴——だったなら、俺はそいつを躊躇なく殺すだろう。橋本、そういうわけだ、女だという理由では俺は殺さないと約束しよう」

「わかりました」

 何かを決心したかのような表情で、橋本は頷いた。山神もそれを見て頬を歪ませる。

橋本の彼氏の吉田はバスケットボールをやっていたこともあり、体格、力、スピードは申し分なかった。さらにほかの強そうな男子と五人がかりで山神を倒そうとした。しかし吉田は簡単に殺されてしまった。だから橋本は、この教室を出た後で隙を見て山神を殺るつもりなのだろう。

——この教室から『正当に出る』ということは、橋本さんはクラスメイトを次々に殺していくということなのか?

 佐々木やほかの生徒たちのさまざまな想像と疑問が教室内を駆け巡るなか、ついに十分が経過してしまった。白衣が動いたのを視界の端で確認した。山神が腕時計を確認していた。

「十分経った」山神はため息をついた。「全員にこれからペナルティを与える。これからは一言も喋るな。喋ったと俺が判断したら、殺す。はいスタート」

 ——喋ってはいけないということは、山神は今から誰かを殺すのか? 悲鳴を出させない訓練とでも言って……。

 ネガティブな妄想が佐々木を恐怖させた。

山神は教室を見回した後、スマホを取り出して何かし始めた。文字を打っているようだった。それが終わったのか、山神は人差し指を二度動かし、佐々木たちのグループを呼んだ。

「森口のグループ、黙ってこっちに来い。——一列に並べ」


 2


 佐々木たちは口を閉じたまま山神のほうへ向かい、言うとおりにした。教壇と平行になるように一列に並んだ。

山神は端に並んでいた佐々木の前に一歩踏み出し、スマホの画面を見せてきた。白い画面に黒い文字が書かれてあった。佐々木は上から順に黙読した。


 ペナルティ

ルール一 自分以外のグループメンバーの名前を紙に書き、一番得票数の多かったものが殺される

ルール二 ジェスチャーなど不審な行動をしたものはルール違反とみなし、そのものと親族を即座に皆殺しにする

ルール三 得票数の一番多い人物が複数いた場合、グループ内で決選投票をして殺される人物を一人にする


 佐々木が読み終わった後、隣の森口にもスマホの画面を見せると思っていたが、そうではないらしい。佐々木だけ教卓に近づくように言われた。どうやらルールは一人一人直前に知らされるシステムらしい。

このルールは要するに、一番名前を多く書かれた人物が殺される、というものだ。不要な人間を排除するという、人間不要論の考えに基づいて作られている。

 教卓に近づくと、山神は内ポケットから白い小さな紙とボールペンを取り出して置いた。名字がやっと書けるくらいの小さな紙だった。

佐々木はボールペンを握り、誰の名前を書けばいいか真剣に考えた。

森口、相馬、三上、安藤、宮園、戸田。この六人の中から殺す人間を選ばなければならない。誰を書けばいいんだ、と悩んでいると、ふと先ほど抱いた疑問を思い出した。戸田だ。戸田がこのグループメンバーの中に混じっているのはやはりおかしい。

——そうか、戸田を選べってことか……。

もしかすると戸田を殺せという山神からのメッセージなのではないか。佐々木はそう考えた。

不良で高圧的な態度で弱者をいじめる女。佐々木は戸田に対してそういうイメージがあった。佐々木ほど頻繁にいじめられていたわけではないが、安藤も女子の間ではいじめられるほうだったと記憶している。思い返せば、中学生のとき、戸田が安藤を突き飛ばしたところを何度も見たことがあった。

 このグループで一番不要な人間は戸田だ。確信した佐々木は、戸田という名字を紙に書き込んだ。ペンを置くと、山神からの指示があった。

「そのまま振り返らずにそこのドアの前まで進み、立って待ってろ」

 佐々木は振り返らずに歩いていき、ドアの前に立った。

 少しして、山神の森口を呼ぶ声が聞こえた。森口は誰の名前を書くのだろうか。

このグループは七人いるから、四人から名前を書かれたらアウトだ。森口もおそらく消去法で戸田を書くはずだ。

 やがて、佐々木の後ろに森口が並んだ。次は相馬が呼ばれ、三上、安藤、宮園、戸田の順で呼ばれていった。

全員の投票が終わったところで、山神から指示を受けて教室の後ろに進んだ。同時に次は河崎のグループが前に呼ばれた。

河崎グループで殺されるのは河崎以外間違いない。むしろそれがいい。佐々木の家族を殺したのは紛れもなく河崎のせいであり、そのことはクラス中誰もが知っているからだ。

 河崎グループも投票が終わった。まだ開票されていないが、歩いてくる河崎の目は床を見ながら右へ左へと動いていた。不安で仕方ないのだろう。

水谷のグループも前に呼ばれ、最後のグループの投票が始まった。

 佐々木はそれとなく視線を河崎たちのグループに向け、様子をうかがってみた。不審な動きをすると殺される可能性があるのにもかかわらず、河崎はグループ内の一人一人の顔を見て探っているようだった。

『俺の名前を書いてないだろうな?』『お前は誰に入れた?』と目で言っているように感じた。もう遅いのに、と佐々木は心の中で失笑した。

 水谷のグループの投票が終わったところで、山神は「開票の時間だ」と言って邪悪な笑みを浮かべた。そして佐々木たちのグループを再び前に呼び出した。

佐々木グループは先ほどと同じように山神の前に横一列に並んだ。上から見下ろしてくる狂人の言葉を待つ。

「まだ喋るなよ」山神は教卓の引き出しの中から名前の書かれた紙を取り出し、その七枚の投票用紙を裏にして教卓の上に伏せた。

「これから一枚ずつ書いてある名字を呼び上げる。一番多かったものは死んでもらうことになる」

 無情な宣告をした山神は、一枚目の紙をつまんで自分の顔の前に持ち上げた。佐々木はもしかしたら自分の名前が呼ばれるのではないかと、今さら心配になってきて、つばを飲み込んだ。

山神は小さな紙から視線を外し、佐々木の目を見た。そして紙を裏返して見せる。

「佐々木」

 ——えっ⁉

 山神の口から、聞きたくない名前が飛び出した。そこには紛れもなく佐々木という漢字が書かれていた。一瞬にして心臓の鼓動が速く、大きくなったのを感じた。

——なんでぼくなんだ! 誰が書いたんだ⁉

 山神はその紙を置き、続いて二枚目を持ち上げた。また佐々木のほうを見て、口角を上げた。

「佐々木」

 裏返した先には、またもや佐々木という字が書かれていた。佐々木の心臓が、跳ねるスピードをどんどん強く速くしていく。なぜ自分の名が書かれたのか、佐々木には見当もつかない。いじめられっ子ではあるが、それが理由なのか。

佐々木はたまらず首を横に向けた。だが一列に並んでいるため、隣の森口の表情しか見えない。その森口は、唇を噛みしめ、正面を見たまま次の紙の結果を待っているようだった。

佐々木はその表情からどんな事を今考えているのか、読み取れなかった。しかし、森口まで佐々木の名前を書いたのかもしれないという疑念が膨らんだ。

——次は戸田、次は戸田……。佐々木は祈った。

「戸田」

 三枚目は戸田と書かれてあった。よく見ると、それは自分の書いた字であることがわかった。そのことから、字で誰が誰の名前を書いたかがわかることに佐々木は気づいた。四枚目を山神が裏返す。

「戸田」

 五枚目も裏返す。

「戸田」

 連続で戸田の名前が呼ばれた。佐々木の心は少し落ち着いた。

——よし、これで戸田に三票入ったことになる。おそらく最初の二票、佐々木と書いたのは戸田と宮園くんで、残りの全員が戸田と紙に書いたはずだ。

佐々木は三上と安藤とは仲が良いほうだし、森口はいつもいじめから助けてくれる。森口の友人の相馬も、佐々木が死ねばいいとは思っていないはず。だから大丈夫だ。

山神が六枚目を意図的にゆっくりと持ち上げ、顔の前で止める。光の加減で薄っすらと文字が透けて見えた。

——え?

「佐々木」

 山神は大口を開ける佐々木を見ながら、手で顔を覆って小刻みに震えている。手の甲の下から白い歯が見えた。目を見開いた佐々木は、危うく声が出そうになってしまった。

 ——そんな、ありえない。いったい誰がぼくに入れたんだ。

 これで残りは一枚。最後の一枚も佐々木と書かれていたら、佐々木の死は確定する。戸田と書かれていたら戸田が殺されることになる。

運命の一枚を、山神は先ほどよりもゆっくりと持ち上げ、視線を七人全員と合わせた。山神の口もとを注視した。息を吸った——

「戸田」

 ——はあ、よかった……。

 耳に入った瞬間、全身から空気が抜けたような気がした。生きた心地がしなかった。佐々木は膝に手をつき、もう一度、人生で一番大きなため息を吐いた。

顔を上げると、一瞬ニヤッと笑い佐々木のほうを見た山神が、教壇に置かれた投票用紙を何やら並び替えていた。

「よし、開票は終了だ。お前らのグループだけ自由な発言を許可しよう」

「ふざけんなよ、誰だよ入れたの! ——おい答えろよ!」

 山神が喋っていいと言った瞬間、青筋を立てた戸田が、女子とは思えない荒々しい言葉で怒鳴った。隣の宮園の胸倉を掴んでいる。宮園は気おされながらも首を横に振った。

「俺じゃない、俺は佐々木に入れた」

「じゃあ誰だ、ぶっ殺してやる」

「まあ待て戸田。一旦落ち着け」

 ほかのメンバーに脅迫しようとした戸田の首もとに、いつの間にか光る刃が置かれていた。戸田は寸前で勢いを止め、猛獣のような鋭い目つきで山神の顔面を睨みつけた。

「ルール一により、得票数の一番多かった戸田が殺されることが決定した。だが、俺はもともとこんな投票ごっこで生死を決めるつもりはなかった。……ということで追加ルールだ。ルール四、殺されることが決まったものは、代わりにグループ内のほかのメンバーを一人殺すことで、死ぬことを回避できる」

「は?」

 山神の発言に、七人が全員同じ一言を放った。

——追加ルール⁉

「お前らに一人一つずつナイフを配ったのを忘れたのか? それはここで戦うためだ」

 そう不敵に笑った山神は、戸田の首もとに構えていたナイフを懐に戻し、戸田に続けて言った。

「ついでに戸田、お前に誰が投票したのかわかるようにしておいたぞ。順番に並び替えておいた」

 教卓に乗っている、名字の書かれた小さな紙きれを指さした山神。佐々木は身を乗り出し、目を凝らしてよく見た。佐々木の字で戸田と書かれた投票用紙が、佐々木側の一番端に置かれていた。

「佐々木は戸田に、森口は佐々木に、相馬、三上、安藤は戸田に、宮園と戸田は佐々木に投票したことがわかるな」

 山神がわかりやすく説明してくれた。佐々木は思わず森口の顔を見た。

——森口君がぼくに票を入れた?

 投票結果が公表されたことに動揺したのか、森口はぎこちない笑顔を作り、佐々木に何か言いかけた。

「いや——」

「——弁明は後にしろ森口。それよりも、これが結果だ、戸田。誰を殺して生き延びるか決めたか?」

 ナイフを利き手に持ちながら山神の話を聞いていた戸田が、ふだんから悪い目つきを、さらにぎらつかせ、鼻から勢いよく呼気を出して佐々木たちのほうを見た。歯を全力で噛みしめているのか、こめかみの辺りが膨らんでいる。怒りに震えた声で戸田は言った。

「宮園と森口は佐々木に入れたんだな。……じゃあ、お前らの中の一人をぶっ殺せばいいんだな」

「そうだ戸田、今すぐに殺せ」

 山神に発破をかけられ、さらに目がキマった戸田。理性が吹き飛んでいるのかもしれない。ナイフを握る手に力が込められ、プルプルと震えている。噴火寸前の表情をしている。

佐々木は無意識に学ランの内に忍ばせておいたナイフを手に取った。

戸田は佐々木、相馬、三上、安藤の順で目線を移動させ、最後に捉えた小柄な少女、安藤に狙いをつけ、殺意をまとった。

「ふっ——」

 二歩ほどの距離を大股一歩で瞬時に縮め、無防備な安藤に戸田が覆い被さるように上からナイフを振るった。

ナイフは横髪を斜めに切り裂き、安藤は頬を押さえて床に転がり込んだ。銀色の刃の先に赤い血が付着していた。

 佐々木は動けなかった。森口と相馬、三上、宮園も動けなかった。

だがそれは一瞬のこと。三上は倒れた安藤を背にしてしゃがみ、ナイフを前に構えた。相馬もナイフを握ってその三上の前に立つ。

「邪魔するなぁっ!」

 全身の毛を逆立てる獣のように興奮した戸田が、血走った目で相馬を睨みつける。

「落ち着け、やめろ」

 相馬が体の前にナイフを構え、戸田と相対した。

 三上は倒れた安藤を抱きかかえ、頬にハンカチを当てていた。安藤と三上はハンカチをいっしょに押さえている。傷はそれほど深くないようで、佐々木から見える範囲では血が少しハンカチに滲む程度だった。

佐々木の足は恐怖に震え、本能的に自分の身を守ることしか考えられなかった。

「どかないなら相馬、お前が死ぬことになる」

 呼吸を荒げた戸田は半身になり、相馬にナイフを向ける。佐々木は隣にいる森口に声をかけた。

「どうしよう森口君、戸田さんは本気で殺す気だよ」

 いつもの快活さは消え、森口の目は怯えている様子だった。佐々木にやっと聞こえるくらいの声量で呟いた。

「ダメだよ……。僕にはどっちの味方もできない……。だって誰かを殺さないと戸田さんは山神に殺される」 

「それは、そうだけどさ——」

 森口は動くつもりがないらしい。話している間に、戸田が動いた。相馬に向かってナイフを雑に振り回し始めた。

斜め上から、ボールを投げるような動作で腕を振り下ろし、空を切ったナイフが折り返しで横に一閃する。後ろに安藤と三上を庇う相馬はそれ以上後ろに下がれないため、ナイフでなんとか弾く。

戸田には殺意があるが、相馬にはそれがない。受け止めることしか考えていないようだった。再びナイフを、今度は突くように繰り出す戸田。相馬はかろうじて避けるが、学ランにかすり、ボタンが一つ飛んだ。

このまま防戦一方では、相馬は勝てないだろう。そう考えるも、佐々木の足はその場から一ミリたりとも動かなかった。

——やばい、なんとかしないと相馬君がやられてしまう。でも、ぼくは……。

 戸田が今度は相馬の腕を切りつけた。

「ぐあっ」

 学ランの上から傷口を押さえ、歯を食いしばる相馬。本当にやばい、と感じた。

と、そのとき、安藤を庇う三上と目が合った。視線を交わした瞬間、まるで『高志、助けて』と懇願されたような気がした。隣で縮こまっている安藤とも目が合った。

——動かなきゃ、動かなきゃ……!

 距離にして五歩ほどの距離が佐々木には遠かった。刃物を振り回す狂人に立ち向かう勇気が出なかった。

 ナイフを落とした相馬が、片膝をつきながら腕をまだ押さえている。血が学ランを濡らし、小指の先から床に落下する。

息を荒らげている戸田は、相馬から一度視線を外し、後ろに視線を向けた。その先には寄り添う女子二人、安藤と三上がいた。

——戸田の口角が上がった。

そのとき佐々木の体に電流が走った。もしかしたら戸田はまだ、相馬じゃなく安藤を殺そうとしているのかもしれない。

 戸田は相馬を真後ろに蹴り飛ばした。安藤を庇っていた三上のか細い足に、相馬の体重がかかってしまう。

「いたっ」

 三上が苦鳴をあげ、自分のふくらはぎを押さえた。戸田はその隙を見逃さず、まず相馬を蹴って左にどかし、すぐに三上の髪を握り安藤の右に引きはがした。二人の城壁が破られ窮地に立たされた安藤は、後ろに逃げようとするが、腰が抜けているようでうまく動けない。

戸田はナイフを腰の横に構え、床にぺたりと座って動けない安藤に向かって一歩を踏み出した。安藤は迫りくるナイフから身を守るため、頭を抱えている。

横から見える戸田が、野獣のような咆哮をあげて刃物を突き出そうとして——、

「え?」

 佐々木の後ろで森口の驚いたような声が聞こえた。

佐々木は自分の行動に驚いていた。まさに今、佐々木はなぜか無意識で走り出していたからだ。胸の前には刃先を戸田のほうに向けて持つ手があり、目は戸田の横顔とセーラー服のスカーフの間、むき出しの首だけを見据えていた。狭いスペースを直線的に走り、今にもナイフを突き出そうとしている戸田の首に狙いをつけた。手前に少しナイフを引き、勢いよく水平に繰り出す。

魚を捌くときとは逆方向に右腕を動かしたが、ナイフはしっかりと戸田の首に深く傷をつけた。瞬間、切りどころがよかったのか、温かいシャワーが勢いよく吹き出し、佐々木の肩口を汚した。戸田は慣性に従って前に倒れながら進み、安藤のすぐ脇にドサっと突っ伏した。痙攣した体から血液が吹き出していた。

「キャアアアァ——!」

 安藤と三上の叫びが聞こえ、そこで佐々木は我に返った。右手に持っているナイフについている血と、顔の半分に感じる温かい感触と嫌な臭いが、自分が今やってしまったことを物語っていた。

「……え、あれ? ——っあ、ああっ……!」

 ナイフを落とし、頭を抱えた。

「ああああああああああ——!」

視線を動かすと、怯える目で佐々木を見る安藤、傍らにあった動かない人間、そして真っ赤な体液が佐々木の目にはっきりと映った。

——ぼくは今、人を殺してしまったんだ。

 視線を感じ周りを見ると、三上も、相馬も、森口も宮園も、教室の全員まで佐々木に怯える目、信じられないものを見たときの目で佐々木を見ていた。

「いい、いいね佐々木!」

だがそんななか、山神だけは違う反応だった。

「お前は才能がある。非常にいい動きだった。動く首に寸分違わず刃を当てた。威力も申し分なく、一撃で命を刈り取った。素晴らしい、いい人材だ佐々木!」

 山神が教壇から降りてきて、佐々木の肩に手を回した。佐々木の脳はフリーズした。


 3


 四つん這いの状態で肘をつき、ただ意味もなく床を眺め続けていた佐々木。脳が周りの情報を遮断しているのか、その後教室で何が起こったのかをまるで知らない。

山神に顎を上げられたときにやっと気がついた。目の前で山神がにやけている。

「そこは邪魔だ。次のグループが殺し合う場だからどけろ」

 次のグループと聞いて、佐々木は現状を思い出した。左を見ると、すでに死体と血の池は跡形もなく消え去っていた。

佐々木は体を起こし、グループメンバーを探した。森口の姿を廊下側の壁で見つけたのでそちらに歩いていった。一瞬目が合った森口は、佐々木からわざと目を逸らした。

目が合ったのは助けた安藤と三上だけだった。脅えた表情は隠しきれていなかったが、それでも何か嬉しいものを感じた。

 教室後方のドア付近に立つと、安藤と三上が近寄ってきた。安藤がいきなり頭を下げた。涙を浮かべた三上は、唇に力を入れて頷いていた。私のせいで、ごめんなさい。高志は悪くないよ。そう言ってくれているように思えた。

学ランの袖を三上につままれ、左手を安藤の温かい感触が包んだ。

頭を上げた安藤の頬には一筋の涙が伝っていた。それから安藤は、眼鏡のレンズを通して佐々木の目をしっかりと見て、『ありがとう』と口を動かした。声は出せないから口パクではあったが、その想いは佐々木にちゃんと伝わった。袖が引っ張られて三上のほうを見ると、三上も同じことをしていた。

 殺人をしてしまったけれど、この二人のことは守れたのだ。佐々木はそう思えた。すると感情のダムが決壊し、一気に放流されていった。ポタポタと落ちていく透明の雫を見つめながら、戸田を殺してしまったことと、二人を救ったこと、罪悪感と安堵の気持ちがごちゃ混ぜになっていくのを佐々木は感じた。

二人の女子も声を出さずに泣いていた。それを見てさらに佐々木は涙を流した。

——優しいな、本当に。

 山神が教壇の上で白い紙を河崎たちに見せている。それを揺れる視界で眺めていると、安藤が自身の血で少し汚れているハンカチをポケットから取り出し、佐々木の顔を拭いた。

涙というより、顔半分についた返り血を拭き取ってくれているようだ。首もとと学ランの肩付近も丁寧に拭いてくれた。

『ありがとう』と佐々木も口を開けて感謝した。


 すすり泣く声はルール違反ではなかったのか、佐々木たちは山神に注意を受けることはなかった。佐々木は教室前方で横一列に並ぶ河崎グループを見た。今ちょうど八人目の開票を終えたところだった。

「開票は終わりだ。このグループだけに発言を許可する」

 山神が白い紙の順番を整えながら言った。河崎がグループ内のメンバー、特に仲の良い男友達に向かって怒鳴る。

「おい誰だよ俺に入れたのは! 五票入ってるってことはお前らの中にも俺の名前を書いた奴がいるってことだろ!」

 どうやら河崎が一番多く名前を書かれたらしい。河崎のグループのメンバーは八人で、その内河崎とよくつるんでいたのは、太田正人、清水達樹、野田晴太の三人だった。ほかのメンバーに名前を書かれたことは許容できたらしいが、親しい友人の裏切りは許せないようだ。三人の友人たちの中の誰かが、追加ルールのことを知らずに、あるいは匿名式と勘違いして河崎の名前を書いてしまったらしい。

答え合わせが、山神の口から発せられる。

「河崎、教えてやるよ。お前の名前を書いてお前が殺されればいいと思った奴をな」

 山神は教卓の上に置かれた小さな投票用紙の上で手のひらを広げ、河崎グループの全員に見せつけた。一人を除き、全員が教卓の上を覗き込む。河崎が紙とグループの並び順を確認し、ある生徒の顔を凝視した。

「お前か、晴太……」

「だ、だってしょうがないじゃん! この中で一番悪いのは拓也じゃん!」

 どうやら友人の中で河崎に票を入れたのは、野田晴太だったようだ。野田は必死に弁明する。

「人を殺したんだよ拓也は! 消去法で選ぶしかなかったんだよ!」

「俺たち友達だろ」

 河崎が強烈な視線で睨みつける。野田の両拳は硬く握りしめられ、首と耳は赤くなっている。

「友達とか関係ないよこれは! だってほかに選ぶ人がいないもん!」

「俺たちいっしょに遊んできたよなぁ。その友達を殺そうとするなんて、お前はもうダチとは言えないなあ」

 河崎は言い終わると同時に学ランのポケットに無造作に入れていたナイフを握り、野田に向けた。野田はまだ抵抗の準備もしていなかった。

野田の背中が曲がったと思うと、河崎の握ったナイフが腹に刺さったままになっていた。

「ぐぅ」

 そのままうずくまるように床に転がった野田。河崎の手には野田の返り血がついていた。小林の「ひっ」という小さな悲鳴が聞こえ、周りの生徒は河崎と野田から距離を置くように後ろに下がって唖然としていた。

 問答無用、まったく躊躇らうことなく人を殺す河崎を目にし、佐々木は総毛立った。

「友達は大事にしないとダメだぞ、晴太」

 まるで生徒を優しく叱る教師のように、河崎は地面に転がる野田に言った。しかし言葉とは裏腹に、ボールを蹴る動作に入った。まだ息をしている野田にとどめを刺すためか、河崎はつま先を思いっきり野田の腹にスイングした。

「ぐぉあっ」

 声とは言えない音を出した野田の下からさらに血が滲んで、後ろの佐々木たちにも見えるくらいに大量の液体が床を覆いつくしていった。野田が絶命したことを確認したのか、河崎は振り返り、山神に報告した。

「神セン、一人殺したので俺は殺されないで済むんすよね~?」

「ああ、そのとおりだ」

 悪魔のような邪悪な笑みを浮かべた山神が、「声を発することの許可を取り消す。黙って後ろに行け」と指示した。その後、スマホを耳に当てた山神は例のごとく、「野田晴太の家族を殺せ」と命令していた。

すぐ隣に歩いてくる河崎たちを見て、佐々木は思った。自分の命がかかっているとはいえ、あんなに簡単に友達を殺せるなんて、やっぱり河崎は気違いだ。

 安藤と三上が佐々木の後ろに隠れて、河崎からできるだけ距離を置こうとしていた。頼られているみたいでちょっと嬉しかった。

 教室前方のドアが開き、一時間目に見た森口の父親と、その助手の警察官が姿を見せた。いつの間にか救急隊員の格好をした男も一人増えていて、その男が持ってきた担架に死んだ野田が乗せられた。山神は森口の父親に言った。

「ご苦労。そうそう、お前の息子ははっきり言うが、この教室では生き残れないと思うぞ」

 山神は森口の父親から、佐々木の近くにいる森口翔太に視線を移した。森口父も息子のほうに顔を向けた。

「ああ、いいんですよ。強い者が生き残るだけのことですから。それにどうせ人類は遅かれ早かれ絶滅します。だから死ぬのがいつでも関係ありませんよ」

「それもそうだな」

 会話を終えた森口父は助手と担架を持ち、遺体を教室から運び出していった。救急隊員は床に散らばった血を布で拭きとってから出ていった。

佐々木は少し離れた位置に立つ森口の様子を観察してみた。下を向き、眉根を寄せて険しい表情をしている。

無理もない。実の父親もすっかり星守教色に染まっていて、息子が死んでも構わないと発言したからだ。信じて誇りに思っていた警察官の父親にあんなことを言われるのは、相当ショックだっただろう。

「水谷のグループ、前へ来い」

 そろえた指をクイと動かした山神は、最後のグループを教卓の前に並ばせた。一枚一枚白い紙を開票していき、発言の許可を出した。八人グループの中で一番票が多かったのは女子の井口萌で、六票獲得していた。

「そ、そんな……」

「ごめん萌ちゃん」

 水谷が井口に向けて頭を下げた。どうやら水谷は井口の名前を書いたらしい。それから次々と頭を下げる生徒たちが現れた。井口は驚愕の表情を浮かべていた。井口といつもいっしょにいる天然パーマが特徴の女子、中野瑠香だけは、今にも泣きだしそうな顔で井口に寄り添い、肩を抱いていた。水谷が頭を下げながら言った。

「悪い人間なんてここにはいなかった。でも、誰かを選ばないといけなかった。だからわたしは消去法で萌ちゃんを選んだ。ごめん……!」

 井口は小さい体を抱え、瞬きを速くした。震える声で疑問を返した。

「なんでみんな私を選んだの? 消去法って?」

「——」

 グループの誰も理由を言えなかった。みんな目を伏せ、誰かが言ってくれるのを待っているようだった。

佐々木も井口と同様、罪のない井口が狙われた理由がわからなかった。井口はふだんからいじめられているわけでもなかった。影が薄いといえばそうだが、それだけで標的にされるのは納得がいかなかった。

その疑問は、ため息をついた山神が答えてくれた。

「井口、お前が犠牲になったのは、お前の父親がもう死んでいるからだ」

 井口はそれを聞いて気づいたのか、立っていられなくなった。中野が支えながら、いっしょにへたりこんだ。

その山神の言葉の意味に佐々木も気づいた。脳裏に、ホームルームのときに送られてきた、家族の監禁写真が蘇った。

——そういえばあのとき、なぜか井口さんの父親だけ先に死んでいたっけ。……そうか、生徒が死んだら家族も殺されるというルールだから、もう家族を一人失っている井口さんが一番少ないダメージで済むと考えて、標的にされたんだ。

「井口、誰かを殺せばお前の死は覆る。……水谷なんか死んでもいいってツラしてるぞ」

 泣きじゃくる井口に、山神は選択を迫る。水谷は顔を上げてから大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。

「萌ちゃん、わたし、悪いけど死ぬつもりはないよ。わたし以外の誰かを狙うなら止めないけど、わたしにも大事な家族がいる。わたしが死んだら家族も殺される。それは嫌だ」

「井口の家族を間接的に殺す選択をしておいて、よくそんなセリフが吐けるな、バカ女。自分のセリフが井口をさらに傷つけるってのがわからないのか? それともわざと傷に塩を塗り込んでるのか?」

 山神が嘲笑しながら水谷を責める。

「井口、水谷はお前の母親を殺す選択をしておいて、自分の家族は殺させないとほざいてるぞ。一分待つから、その間に誰を殺すか決めろ。個人的には水谷を勧めるが」

 涙目になった井口が、セーラー服の袖で目をこする。支えてくれる中野に小さく礼を言い、おもむろに立ち上がった。

ナイフをスカートのポケットから取り出し、体の正面に両手で凶器を構えた。水谷のほうを向き、言った。震える声だった。

「夏実ちゃんは悪くないよ。それに、みんなも」

 グループ全員を見るように、井口は首を巡らせた。それから教卓に寄りかかる山神を見据え、ナイフを両手で構えたまま、教壇の上に移動した。教壇に立った井口は一度大きく深呼吸をした。

「待って! 何する気⁉」

 水谷が叫ぶが、井口は動じない。山神から視線を外さずに、大声で叫んだ。

「お父さんの仇はこいつだ——っ!」

 走り出す井口の横顔は復讐に燃える主人公のように力が漲っていて、佐々木はふだんのおとなしい井口とのギャップに驚き、鳥肌が立った。

水谷が止めようと手を精いっぱい伸ばし、足を踏み出そうとするが、——もう遅い。ダンダンと二回教壇を踏む音が鳴ったと思うと、次いで肉を切り裂く音がした。井口は前進しながらうつ伏せに倒れこんでいった。

「あっ——!」

 教壇からはみだした井口の上半身が、冷たい床の上に投げ出されていた。まだどこからも血は流れていないが、こちらを向いている井口の目の光はもはや失われてしまっていた。

一瞬のうちに山神は教壇の端に立っており、血の一滴もついていないナイフを白いハンカチで拭いていた。

佐々木はその技に驚愕した。どこからナイフを取り出したのかも見えなかったし、井口とすれ違った速度も刹那だった。殺し合いという状況が頭に入っていなかったら、ただ井口が教壇の上で転んだだけに見えただろう。

 水谷と中野が倒れこんだ井口に駆け寄っていく。そのとき山神が振り返って口を開いた。

「今近寄ると靴が汚れるぞ」

 山神に向けていた視線を死した井口の首もとに戻すと、一条の赤い線が浮かび上がってくるのが見えた。とすぐに、細首から破裂するように血液が噴出し、水谷と中野の足もとに飛び散った。

いきなりのことに二人は腰を抜かし、尻もちをついた。中身が抜けたせいなのか、井口の体が少しずり落ちた。

「うわあっ」

 井口の近くにいた二人の男子も勢いよく後ろに下がって壁に背中を打ちつけていた。教室の後ろにいる佐々木でも、その赤々とした光景に声を出してしまいそうになった。三上も安藤も佐々木の腕に掴まり、背中に隠れるようにして必死に声を押し殺している。

 山神が教壇の上を歩き、何事もなかったかのように中央の教卓に戻る。スマホを取り出し、お決まりのセリフを吐いた。

「井口萌の家族を殺せ」

 ため息を吐いた山神は、画面の上で親指を動かしてまた電話をかけた。井口の死体を回収するよう指示し、通話を切った山神は、再び小さく息を吐きだした。

「いちいち連絡するの面倒だな」

 小声で呟いた山神は、床にへばりついている井口の体を見て、それからいまだに尻もちをついて床から離れられないでいる水谷やグループのメンバーを見た。

「お前ら、いい加減に慣れろよ、『死』に。そんなんじゃこれからの世界についていけないぞ」

「そ、そんなおかしい世界、ついていこうなんて思わない!」

 声をあげた水谷は、金縛りが解けたように体の向きを変え、教卓にいる白衣の狂人のほうを向いた。

「じゃあお前はここで死ぬな」

 そう山神が冷たく言い放ったとき、ちょうどクラス中のスマホの通知音が鳴った。佐々木は見なくても何の通知かわかった。ポケットから少し画面を出して確認すると、思ったとおり二枚の画像が送られてきていた。今死んだ井口の家族の写真だろう。

 クラスの反応を見ると、わざわざチャットを開いて内容を確認していたのは河崎と橋本くらいだった。

 もはや警察とはいえない仕事をする森口父と助手、救急隊員の三人がドアを開き、教室に入ってきた。死体処理班と名乗ったほうがよほど似合っている。

先ほどよりも手際よく井口の体を運搬し、床の汚れを拭きとっていく。救急隊員が手に持つ白い大きな布が、毎度真っ赤に染まっていく。透明なゴミ袋に赤くなった布が何枚も放り込まれ、最後にアルコールスプレーのようなものを床に噴霧して、乾いたきれいな布で拭きとり、救急隊員は帰っていった。

 山神が白衣の袖をめくり、腕時計に目をやった。佐々木も壁掛け時計を見ると、十時四十五分を指していた。

「よし、これにて三時間目の授業を終える。もう好きに喋っても構わないぞ。それから、十分休みはトイレと水飲み場だけには行っていいことにする。というか毎回行け。井口のように大量に漏らされると臭くてたまらないからな」

 山神は教壇を降り、前方のドアを開けて出て行ってしまった。

 次の授業まであと十五分弱あるし、せっかくトイレ休憩に行っていいということだったので、佐々木はトイレに行くことにした。そばにいる三上と安藤に声をかけた。

「ぼく、トイレ行ってくるよ」

「危ないよ高志、教室から出たら兵隊に殺されるかもしれないよ」

「そうだよ佐々木君、あの人の言っていること、信じちゃダメだよ」

 三上に腕を掴まれ、止められた。安藤は自身の胸に手を当てていた。

 廊下で銃を構えている兵士に撃たれるかもしれない、という心配がまだ二人にはあるようだ。

「そっか、そうだよね……。でも、心配いらないよ、山神はぼくたちに殺し合いをさせたいだけで、意味もなくこんなところで嘘はつかないと思うよ。それに、ぼくにはもう家族がいない。井口さんがさっき消去法で選ばれたように、ぼくも今このクラスでは一番死んでもいい人間だから」

 佐々木は水谷のグループの投票結果と水谷の発言、井口の死から、命の価値には差があることを学んだ。家族分の命を背負っているか否かで、命の重みが変わり、殺される人間が自然と決まってしまうということに。

だからこそ、今この教室で誰よりも被害が少なく『実験』できるのは佐々木だけだと判断した。佐々木のほかにも橋本も家族を殺されているが、佐々木単体と橋本を比べると、明らかに橋本のほうが生きる価値があると考えた。

 佐々木自身はいたって普通のことを話したと思っていたが、三上と安藤は顔をしかめて反論してきた。強い語調だった。

「死んでもいい人間なんていないよ! それは違うよ高志!」

「家族がいないからって佐々木君が試す必要なんてないよ!」

 二人は本気で佐々木を止めてくれているようだった。

黒板に書かれている最初の五つのルールには確かに『教室から一歩でも外に出たものの家族は即座に殺される』『教室から出て「逃げる」とこちら側が判断したものは、射殺される』とあるが、あの山神が無駄に人を騙して殺すとは思えない。

だからやっぱり「心配ないよ」と口を開きかけたとき、ドアに近づいていく人影が目に入った。

近くのドアの前に立ったのは森口だった。佐々木の目を見て、重そうな口をゆっくり開いた。

「……佐々木君、ここは僕が先に出てみようと思う。山神の話していた内容からすると多分教室から出ても大丈夫だ。君の言うとおりだと思うよ。……それと、僕が廊下に出て無事だったら、佐々木君、いっしょにトイレに行かないかい?」

「……あ、うん、森口君がいいなら」

 森口の言いたいことは大体わかっているつもりだ。佐々木は頷いた。

森口の額には汗が滲んでいた。喉仏が上下し、不安げに一歩を廊下の床に踏み出した。首を左、右にゆっくりと振り、それから教室に残した後ろ足も床から離し、廊下に置いた。

佐々木や相馬は一番ドアに近かったこともあり、顔だけを廊下に出して左右を確認した。左右に伸びる廊下の先には、相変わらず銃口をこちらに向けてトリガーに指をかけている兵士がいた。だが、森口がさらに歩いても撃ってくることはなかった。山神がいるわけでもチャットの通知音が鳴り響くわけでもなく、そのまま森口は正面にあるトイレの前にたどり着いた。振り向いた森口が言った。

「大丈夫みたいだ」

 佐々木は頷き、廊下に続く。左右に三十メートルほど離れているところに兵隊が一人ずついて、そこから刺すような視線と殺気が伝わってきた。少しビクビクしながらも前方に進み、ところどころ剥げた青いドアの前に立った。

森口といっしょにドアを開き、トイレに入った。

中にはさすがに兵隊が潜んでいることはなさそうだった。何か変わったところも無さそうで安心した。

久しぶりにあの空間から出られて、佐々木は少し気分が軽くなった。森口と二人で小便器の前に立ち、チャックを開く。緊張感や恐怖やらのせいで全然気づかなかったが、結構溜まっていたようだった。ふいに森口が言った。

「佐々木君、その、さっきの投票のことなんだけど……」

「う、うん」

「僕が佐々木君の名前を書いたのは、佐々木君が憎くて死ねばいいと思って書いたんじゃないんだ」

「それくらいわかってるよ」

 佐々木は手もとを見ながら、微笑した。

——森口君ってほんとに真面目なんだな。

「……僕が君に投票した理由は、ごめん、あの中で一番犠牲が少なく済むのは佐々木君だと思ったからなんだ」

 森口は佐々木のほうに首を向け、頭を下げた。

「うん、わかってる。あの瞬間はわからなかったけど、井口さんが犠牲になったときに気づいたよ。あのグループの中でぼくだけが家族をすでに失ってた。ぼくが殺されても死ぬのはぼくだけだけど、仮に戸田さんが殺されたら戸田さんの家族も死ぬことになっちゃうもんね。ぼくも森口くんの立場にいたらきっと、同じように一番犠牲が少ない人を選んだと思うよ」

「本当にごめん。……でもわかってくれて、ありがとう。ほんとごめん!」

「おしっこしながら謝られたの、ぼく初めてだよ」

「う……ごめん」

 佐々木は今日初めて笑った。森口もチャックを閉めながら目を細めていた。その目尻には一瞬光るものが見えた気がしたが、佐々木は気づかないふりをした。

きっと佐々木に心から申し訳ないことをした、と罪悪感を抱えていたのだろう。真面目で正義のヒーローで、かっこいいな。

 水を流すボタンを押したとき、数人の男子が入ってきた。長居しても意味はないと考えた佐々木は手を洗おうとしたが、森口に引き留められた。

「あそこの窓から逃げられないかな」

 指さしたその先には、一つ窓が設置されていた。

森口に連れられて窓に近づき、外の景色に目をやる。ゆっくりと落下してくる小粒な雪の向こうに、白い広大な地面が広がっていた。誰もグラウンドで遊んだりしないため、当然降り積もった雪には足跡一つない。グラウンドのネットの向こうには、白で覆われたカラフルな遊具たちが、寒そうに佇んでいた。

「顔出してみても大丈夫だよね?」

「そ、それはどうかなあ」

 佐々木の曖昧な返事に少し逡巡した様子の森口だったが、「いや、ここで迷ってもしょうがない。やらなきゃ後悔する」と言って窓を開け、顔を出した。

森口の短髪の向きが二度三度変わり、後頭部と横顔が見えるなか、佐々木は、もしこれでペナルティが与えられたらどうしよう、などと考えていた。

森口は顔を引っ込め、外国人みたいに肩をすくめた。

「ダメだ。ここから見えるだけでも少なくとも兵士が一人いる。山神は思ったより神経質らしい。僕たちが家族を犠牲に逃げる可能性まで潰そうと準備しているってわけだ」

「そ、そっか……」

 やはり脱出するという選択肢は最初から用意されていなかったということだ。佐々木たちには最後の一人になるまで殺し合いをするしか道はないのだ。

森口が窓を閉めるのを少し待ち、二人は用を足している数人の男子たちの後ろを通り、手洗い場まで行った。蛇口をひねり、水を出す。

冬だからといって温かい水が出るわけではない。冷たい水が佐々木の手を濡らす。手というフィルターを通すと、若干赤くなって水が流れていった。

——あ、戸田の血だ……。

 狂人と化して安藤に迫る戸田の横顔と、ナイフで首を切った感触を佐々木は思い出した。

あのまま見過ごせば安藤は殺されていたし、首を切らずに動きだけを止めることは佐々木の体格じゃできなかった。仕方のないことだった。結果的に安藤を守ることができたのだからよかったじゃないか。

そう内心で言い訳をするが、歯をむき出しにした肉食獣のような戸田の表情は佐々木の脳裏にこびりついて消えない。手には初めて人を捌いた感触がまだ残っていて、それを消したくて冷たい水で手を何度も擦る。返り血はすすげたが、殺しの感触はなかなか消えてくれない。

「佐々木君、大丈夫?」

 隣の森口が心配そうな目で佐々木を見ていた。もう手を洗い終わってハンカチで手を拭いていた。

「だ、大丈夫だよ」

 森口に返事をして、感覚がなくなりそうなほど冷えた手を上下に振り、水を払い、蛇口をひねった。それからいつもの癖で鏡を見ると、そこには薄っすらと血のついた自分の顔が映っていた。先ほど安藤に拭き取ってもらったのに、顔の左半分と、よく見たら首の一部にもまだ赤い跡が残っていた。息をのんだ佐々木は、森口に言った。

「先に戻ってて」

 森口は頷き、扉を開いて歩いていった。佐々木は学ランを脱いで股に挟み、鏡を見ながら顔を洗いにかかった。

——汚い、汚い、まだ汚い、まだ、まだ……。

 数分後鏡を確認した佐々木は自分のもとの肌の色を見て落ち着きを取り戻し、トイレを出た。

 佐々木が廊下に出ると、教室の中から生徒たちの声が聞こえてきた。トイレのすぐ隣にある水飲み場で水を飲んでから教室に向かった。

後ろのドアから教室に入ると、中央のほうで人が集まっていた。森口や水谷が中心となってこの絶望的な現状を打破しようと、必死に話し合っていた。

時計を見ると、四時間目が始まるまであと残り三分ほどしかなかった。佐々木は正直、脱出も山神を倒すのも不可能だろうと諦めていた。だが森口は先ほどトイレの窓から脱出の糸口を見つけようとしていたことからもわかるが、まだ外に出られる可能性を捨ててはいないようだった。同じく意見を出し合う周りの生徒たちも、まだ諦めきれないようだった。

 ハンカチを持参していない佐々木は、学ランで手に残った水滴を拭き取りながら壁際に座った。四時間目はどんなことをするんだろうかとふと考えたとき、集団の外側にいた安藤が、こちらをじっと見ていることに気づいた。

赤縁眼鏡の奥の瞳が、佐々木の目と少しの間合う。どうしたのだろう。そのまま見つめ返したままでいると、ついと目を逸らされてしまった。気のせいかもしれないが、顔を赤らめていたように思えた。

 チャイムが鳴り、休憩を終えた山神が教室に入ってきた。話し合いをしていた集団はまだいい答えが見つからないようで、不満げな顔をいくつか残したまま口を閉ざした。


〇四時間目


 1


 代わり映えのしない教室の景色。天井からは昼光色の電灯が佐々木たちを明るく照らしている。壁や床には、殺されていった生徒たちの命の残滓が貼りついており、この場所が異常であることを如実に物語っている。

休憩時間はもう終わったが、黒ずんだ染みが目立つ黒板にはまだ白い文字の羅列が残されていた。唯一それを消す権限のある山神は、最初に黒板に書いた五つのルールを残し、それ以外のルールを黒板消しで消しているところだった。

すでに四時間目の始業のチャイムが鳴り、五分は経過している。

何度も何度も黒板消しをかけ、チョークの白い跡が完璧に消え、黒板が新品同様になったとき、山神はやっと口を開いた。

「なんだお前ら、俺を待ってたのか? そんなことしなくても殺し合っていいんだぞ?」

 なんでこんな問題が解けないんだ、とでも言いたげな顔をしてこちらを挑発してくる山神。

だが誰も自ら進んで殺人を起こすことはしない。当然だ。人間不要論という星守教の狂った教義など、誰も理解していないからだ。

 クラスの全員が沈黙を貫くと、山神は鼻から空気を出して笑った。

「まあいい、これからやれるようになるさ。まだ人間不要論の授業は四時間目だ。……さて、まだ俺のルールがないと殺し合うことすらできないひよっこたちに、俺は新たなルールを考えてきた」

 そう言った山神は白衣の内側から半透明のチョーク入れを取り出し、蓋をパチンと開けて白いチョークを手に持った。後ろ向きになって黒板にルールを書こうとしたとき、動きを止めてこちらに振り返った。

「お前ら、そんなに俺のルールが楽しみなのか?」

 理不尽な殺し合いのルールが嫌だから黒板を凝視していたのに、山神はそれを『楽しみ』の視線だと勘違いしたような発言をする。この殺し合いが楽しくなることなんてありえないが、山神はそれをわかっていて煽ってきているのだ。

佐々木は山神の言葉につばを吐きたくなり、黒板から目線を切った。

やがて、黒板をひっかくチョークの音が止み、教壇の上を革靴が踏む音が聞こえた。顔を上げてみると、お手本のようなきれいな字で新しいルールが書かれていた。


 ルール一 三人組で輪をつくり、その中の一人が有権者となる

 ルール二 有権者はほかの二人の内、どちらかを殺すことが許される

 ルール三 制限時間の十分以内に殺しを行わなければ、有権者の家族が殺される

 ルール四 一定の距離から離れたと山神が判断したものについては、その場で殺す


「この授業では何もしなくても生徒が死ぬことはない。だが有権者がグループ内の二人のどちらかを殺さなければ、自身の家族を犠牲にすることになる。家族か他人かを選ぶ簡単な問題だな」

 山神は説明をつけ足すと、生徒たち一人一人に目を向け、顎に手をやって何かを考えている様子を見せた。

このルール、『有権者』という響きが有権者を一見有利に見せているが、実はそうではない。ここでは、『殺す権利を持つもの』という意味で使われている。

 しかも有権者はグループ内の人間を殺さないと、自分の家族の命を失ってしまう。家族の命とクラスメイトの命、どちらかを選ぶという残酷なルールだ。

三人組は今決めているようで、決まった組から黒板に名前が書き出されていった。

 斜め後ろから見える山神の口もとが綻んだのを、佐々木は見逃さなかった。その笑みの意味はなんなのか、黒板に書き出された三人組を見て理解した。

——最悪だ。

 佐々木の三人組は『河崎、佐々木、森口』だった。有権者には名字の横に丸がつけられていて、佐々木のグループでは河崎の横にそれがあった。河崎は佐々木を狙ってくるだろう。

 やがて六個の三人組が作られ、黒板に書き出されていった。最後に二人が余ったようで、そこに山神自身を入れて組分けが終わった。

「人数までは考えていなかったな、誤算だ。だがここに書かれた二十人プラス俺一人で、今から殺し合いをしてもらう」

 二十人という数を聞き、佐々木はもう五人も死んだのか、という感想を抱いた。木野愛里、吉田和真、戸田依梨夢、野田晴太、井口萌が三時間目までに殺されている。

 七個作られた三人組の内訳はこうだった。


『河崎拓也、佐々木高志、森口翔太』『安藤咲花、橋本杏奈、三上恵美』『中村・スジーキー・海人、藤川優佑、宮園洋』『久保寛太、西山涼、渡辺修一』『太田正人、清水達樹、相馬唯斗』『今野美紅、佐藤凛、水谷夏実』『小林継美、中野瑠香、山神太一』


有権者はそれぞれ河崎、橋本、宮園、西山、相馬、水谷、中野だった。

佐々木がほかのグループで気になったのは、三上と安藤と橋本の組だった。橋本はこの教室から出て山神に復讐するようだが、彼女はそのために人を、あの二人の内どちらかを本当に殺す気なのだろうか。

「質問はあるか? 今だけ聞くぞ」

 山神が教室内に投げかけた。ルールの把握を済ませ不明点をいち早く聞くのは、ここでもやはり森口だった。森口が手を挙げる。

「このルールでは有権者だけが殺す権利を持っていて、ほかの二人は抵抗するだけなんですか?」

「いい質問だ、森口。有権者以外の二人も、グループ内の人間なら抵抗していい。無論、『抵抗』とは殺してもいい、ということだ。例えば俺のグループでは有権者は中野だが、別に俺か小林が中野に抵抗したっていい。まあ俺はこの際殺しはしないがな。ただの人数合わせだ」

「わかりました」

 人数合わせで入るから殺しはしないという山神の発言は、今までの山神の行動からしておそらく本当だろう。山神と組まされたといって、中野と小林が不利になることはない。

佐々木は一度教室の反対側にいる河崎のほうを見た。いやに大人しく、黒板を見つめてじっと動かないでいたのが不自然だった。

「先生」橋本が手を挙げた。「あたしは家族をもう失っているので、何もしなくてもいいんですか」

「いいや、そんなことはない。家族がいないものは親戚や、お前が大事に想っている人間が殺されることになる」

「そうですか」

 橋本は有権者だ。つまり家族を人質に取られて、誰かを殺さないといけない立場にいる。だがその家族はもう殺されているので、何もしなくてもクリアできるのか、と聞いたのだ。

もちろんそんなことはなく、次に近しいものたちが殺されることが決まっていたようだ。佐々木も家族を失っているが、今回は有権者ではないのであまり関係がない。だがここは一応聞いてみたほうがよさそうだ。

 佐々木も手を挙げた。

「先生、このルールとは関係ないですが、もしぼくが死んだ場合も、『大事に想っている人間』が殺されてしまうのでしょうか?」

 ふだんの授業では絶対に手を挙げない佐々木が質問をしてきたことに驚いたのか、山神の口が『お』の形になる。

「おお、佐々木が手を挙げるなんて珍しいな。……そうだ、お前がもし死んだら親戚や近しい人間も殺される」

「ち、近しい人間っていうのはクラスメイトも含まれるんですか?」

「ああそういうことか。安心しろ、お前が死んで近しい人間が道連れを食らうといっても、クラスメイト、特に三上なんかが殺されることはない」

 ——そっか、よかった……。

「あ、ありがとうございます」

 友人が殺されることはないとわかって安心した。だが、簡単に死ねないことは変わりない。家族や親戚などが連動して殺されるので、自分が死ぬことを受け入れるということは、周りの人を殺すことと同義だということだ。

 白衣のポケットに両手を突っ込んで教室の中を見渡した山神は、もう手が挙がらないことを確認し、言った。

「各自指定された三人組を作り、適当に散らばれ。全員の準備が整ったら開始だ」

 佐々木は息をのんだ。河崎がどう動いてくるかはわからないが、もし殺しに来るようであったら抵抗しようとは思っていた。森口を狙うのであれば森口を庇う心構えも作った。

生徒たちは思い詰めた表情をしてそれぞれ移動する。一度深呼吸して、佐々木も森口のいるところへ向かった。

 教室の中央で森口と合流した後、ゆっくりと歩いてくる河崎が来た。いつものふざけた態度は鳴りを潜めていて、真剣な顔をしている。糸目の隙間から覗く瞳孔と視線が交錯したとき、奥に鋭く光るものが見えたような気がした。

いつもの佐々木ならその眼光に怯え、恐怖を感じていたかもしれないが、今回ばかりは違った。殺されたくはないからだ。——否、違う。逆に佐々木が河崎を殺したいからだ。

なにせ佐々木にとって河崎は、家族の仇。実験という河崎の遊びによって、命を理不尽に奪われた。仇を討たなければならない。そうでなければ、家族に顔向けできない。

脳裏に家族の笑顔が蘇る。河崎の顔面を見ると、憎悪が増した。

——殺してやりたい。

上下の歯が無意識のうちに強く擦り合わされた。

「集まったみたいだな。じゃあ全員、配ったナイフを手に持ち、体の前に構えろ」

 教壇の前に立つ山神は、ルールどおり中野と小林と輪を作り、三人組を組んでいた。声に反応して山神のほうを一瞬見た佐々木の視界に、その近くにいた三上と安藤と橋本の三人組の姿が入った。

ナイフを取り出しながら、佐々木は心配になった。三上と安藤を見下ろす橋本の目がとても冷たく感じたからだ。だが手助けなどはできない。自分のグループに集中するしかないのだ。

集中しろ、と心で唱えたとき、胸の前に構えた凶器の峰に目がいった。そこから目線は奥にある白い上靴に移り、学ランを通り、憎い顔に移動していった。

つい今しがた、目の前にいる家族の仇を殺してやりたいと思ったはずだった。だが、実際に河崎の体にナイフを切りつける想像をすると、手が震えた。手の震えは腕、腰を通り、足にも伝播した。小刻みに揺れる自身の膝を見ると、その先の床に薄っすらと残っていた血痕にも目がいく。恐怖心が身をさらに震えさせる。

思考は勝手に進み、先ほど首を切り裂いて殺した戸田の横顔と、人体を初めて捌いたあの感触がまた蘇ってくる。

——無理だ、ぼくは殺せない。殺してやりたいほど憎いのに、殺すことが、ナイフを振るうことが、怖い……。

 目を閉じ、歯を食いしばり、なんとか震えと恐怖を奥に押しやり、顔を上げる。今は集中しなくてはならない。

森口と河崎もナイフを取り出し、その鋭利な刃を体の正面に構える。緊張感が増すなか、佐々木は森口の顔を見た。森口も佐々木を見つめ返し、互いに準備ができたことを確認する。

「制限時間は十分。はい始め」

 これから家族かクラスメイトかを賭けた殺し合いをするというのに、山神の号令には緊張感のかけらもなかった。三人組の殺し合いが始まった。

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