<第08話>
それからしばらくしてのことでした。
姫様が私を召し、池端に連れて行くなり問うたのです。
「広嗣様が太宰府に下向したって本当」
大養徳守の職にいた藤原広嗣様は、突然職を解かれ太宰少弐に任命されたのです。京では左遷だと囁かれていました。
私は姫様の目を正面から見て、ゆっくり頷きました。
「ああ」
姫様は床几台に座り込みました。
「采女たちが噂をしていたけれど、誰も詳しいことを教えてくれないの。一体どうして」
私は姫様の横に座り、姫様のその細い肩を慰めるようにさすりました。
「そなたは知っているの」
私に向き直り言いました。
「はい。でも、姫様には辛い話なので」
「いいわ、話してちょうだい」
「以前、玄昉僧正のことをお尋ねになりましたね」
姫様が気にしていた美形の玄昉法師は、出世して今では僧正になっていました。
「ええ、まだ会ったことはないけれど」
「その玄昉僧正が、皇后に寵愛されているのをいいことに良からぬことを企て国を傾けようとしていると、広嗣様は、帝に直訴なさったのです。それを恨んだ皇后が」
「お母様が。お母様が僧正と、そんなまさか」
「広嗣様は玄昉僧正を即刻排除すべきだと訴えたのですが、皇后がお怒りになってご自身の身の潔白を帝に訴え、広嗣様を京から遠ざけるよう仕向けたのです」
「ちょっと待って。でも、広嗣様の言うことは本当なの」
私は残念そうな顔を作りました。
「姫様には信じられないと思われますが、宮中では公然の秘密です」
「そんな……。お母様は私には男性と近づかないように言うのに、ご自分は……。あんまりだわ」
姫様はそれまで男女の交わりのことを教えられてきませんでした。通常の皇女なら結婚が決まった時に正しい知識を教えられるものなのですが、一度も婚姻の話がなかった姫様は、若い侍女たちの噂話から得る程度の知識しかありませんでした。そのせいか、姫様は恋愛に対して過剰な憧れを抱いていました。政略結婚があるのは承知しています。でも、結婚したら、相手に対して一途な愛情を注ぐものだと信じていたのです。
「いつか私もお父様のような心広い男性と寄り添いたい」
そんな憧れを口にし、男女間の行為には純粋な愛情があるものと信じていた姫様には、皇后と玄昉僧正の関係は信じられないことだったのでしょう。それまで周りから皇后を誉めそやす言葉しか聞いてこなかった姫様は、余計に衝撃を受けたと思います。
「広嗣様は、皇后の行動を身内として諌めたかったのでしょう。でも帝は皇后の言うことを信じ、皇后の望むままに広嗣様を筑紫に」
「酷い。お母様」
姫様は白い指で顔を覆って嘆きました。
「皇后を恨んではなりませぬ。悪いのは皇后を誘惑した玄昉僧正です」
本当のことを言うと、広嗣様は玄昉僧正と下道様の罷免を要求すると同時に、暗に、彼らを重用した諸兄様の責任を問うものでした。諸兄様は時の右大臣、名を出すことは差し控えられるため、玄昉僧正と下道様を名指ししたのです。もちろん、帝も諸兄様もそのことは承知しています。ただ、元々、官人の中には諸兄様をよく思っていない者たちも多くいて、広嗣様に同情する声もありました。
姫様は、この件がきっかけで、皇后への気持ちが以前と変わってしまったようでした。年頃の娘にとって、母親の不貞は許せないことだったのでしょう。姫様の言葉の端々に、皇后への軽蔑が感じられるようになりました。
「お父様から」
ある日、姫様は言いました。
「お父様から、母上はご病気だから大切にするように、と言われたの」
姫様はしょんぼりしていました。
このところの皇后に対する姫様のよそよそしさに、帝は何か感じ取ったのかもしれません。
「お父様は、不貞を働いたお母様になぜそんなにお優しくなれるのかしら。私には無理」
「帝は、この国全体と姫様のことを思って、御母君をお許しになったのでしょう。帝というお立場、苦しいお心内を誰にも打ち明けられずにいるのです。姫様もいつか帝のお力になって差し上げらればよろしいですね」
「ええ、本当に」
「帝は皇后にお優しい。ですが、このまま皇后が、身内やお気に入りの人間を取り立てたら、帝の周りは皇后の意のままに動くものばかりになってしまいます。それは正しいことだと思われますか」
「そうね、いえ、よくないかと」
「ええ、帝が蔑ろにされるのはよくないことです。民が帝を崇めるのは、帝が正しく国を治めるからです。よろしいですか。姫様だけが、真に帝のお力になれるのです」
この先、姫様は帝になられるでしょう。その時に皇后の言いなりにならないよう、今のうちに私が姫様にお教えしていこうと思っていました。