<第06話>
その後も皇后は懐妊もせず、姫様の嫁ぎ先も決まらないまま、月日は過ぎていきました。
そうしているうちに、何とも恐ろしいことが起こりました。国中を恐怖のどん底に陥れた疫病が京を襲ったのです。
疫病は猛威をふるい、大勢の京人を死に追いやりました。右大臣藤原武智麻呂様をはじめ、政権の中枢にいた藤原氏の四兄弟、皇后の異母兄ですが、四人全員が病に倒れてしまったのです。
京では官人の三分の一に近い数がいなくなり、必然的に新たに人を補充しなければならない事態です。武智麻呂様の代わりには、臣籍降下なさった葛城王、橘諸兄様が右大臣になりました。盤石だと思われていた藤原政権が崩れ、一気に政権交代が起きたのです。
生き残った藤原一族の男子の中で最年長の藤原豊成様、右大臣武智麻呂様の長男である彼が一族の長となり、参議に任命されましたが、何しろまだ若輩、御父君たちのようにはいきません。父親ほどの年齢の諸兄様や経験豊富な年配の貴族たちに到底太刀打ちできるものではありません。皇后が自分の行く末に不安を抱くのは当然です。
「我はどうしたらよいのか」
皇后は、すがるような目で私に語りかけました。
そのように不安顔をする皇后を見るのは、初めてでした。
私の知っている皇后は、藤原氏の娘としていつでも毅然とし自信満々に振る舞う女性でしたから。
「落ち着きなさいませ。貴女様は皇后。その辺の女のように狼狽えるのはおやめなさいませ」
今まで、藤原氏の後ろ盾があったから皇后にもなれ、何の不安もなく暮らせてきたのです。問題ごとは全て兄上たちが片付けてくれていたのです。
「ああ、わかっておる」
「まず、橘様の先手を打たねばなりませぬ」
「先手とはどういうことじゃ」
「橘様が安積親王を皇太子に立てようと言い出す前に」
皇后はそれを一番恐れていました。
私は皇后に顔を寄せて囁きました。
「内親王を立てるのです」
「内親王を皇太子に」
皇后はそのようなことを、まったく考えていなかったようです。
「でも、」
「上皇がお許しになられるかしら」
私には確信がありました。
「大丈夫です。きっとお許しになられるでしょう」
上皇氷高皇女は、御母君の元明帝から是非にと頼まれ、未婚のまま即位なされたお方です。
「皇后が男子をお産みになるまで、あるいは安積親王が相応の年齢になるまでの中継ぎに、とでも言えば」
男性と肌を合わせることなく今日まで生きてこられた氷高皇女。一方、長屋親王と結婚し子を成し楽しく暮らしている妹、吉備内親王。妹の幸せを横目で見ながら、氷高皇女は、母君から与えられた運命を、ずっと恨んでおられたのでしょう。長屋親王を処罰する時も、全く反対しなかったと言われています。
そんな氷高皇女ですから、姫様が同じ人生を味わうのを歓迎なされるに違いありません。ご自分と同じように、姫様が誰の妻になることも許されずに生きる。それで長年心の内にあった恨みも、少しは晴れましょう。
案の定、氷高皇女は「そうね、それもよろしいかもしれないわ」と快諾なされたのです。
「しかし、安積親王が相応の年齢になったら、位を譲らねばならぬのでしょう」
皇后はまだ不安げでした。
「無事、相応の年齢まで生きられたなら、ですが」
皇后が目を見開いて、私を羅刹を見るような目で見ました。
「皇后はそれを望んでおられるはずです。豊成様も仲麻呂様も、藤原氏の男子たちは皆様そう思っておられるんじゃないですか」
藤原氏の男子たちは、おそらく誰ひとりとして安積親王が帝になることを望んでいないでしょう。安宿媛を皇后にするためにどのようなことがあったか思い出せば、安積親王の身に何が起きても不思議ではありません。
でも、藤原氏の男子たちがどう考えようと、私の知ったことではありませんでした。私の望みは、皇后が生きている間は安積親王を帝にしない、ただそれだけです。皇后に「上皇后」の地位を与える、それだけのために姫様は皇太子となり、帝となるのです。その次の帝は誰がなろうと知りません。
皇后は姫様を皇太子にするよう帝に働きかけました。もとより帝は皇后の言いなりです。渋る右大臣諸兄様の意見を一蹴し、そうして兄上たちが亡くなった翌年、姫様の立太子の儀式が行われました。