<第04話>
姫様はときどき私を呼ぶようになりました。占卜や夢解きだけではありません。姫様は誰にも言えない心の内を私に話してくださりました。
この年頃の娘は、心が揺れ動くものです。少女が大人になる不安を抱え、模索しながら自我を形成していく過程で、自分を肯定し導いてくれる存在を欲しています。姫様の場合も、折よく目の前に現れた私に、その役を求めたのでしょう。
私たちが話をする時は庭に出て、池のほとりに造らせた床几台に絹を敷き、並んで座りました。宮の中では衝立の裏に戸の影に誰が潜んでいるかわかりませんもの。古くからの侍女といえど信用できるとは限りません。皇后に知らせて良い待遇を得ようとする者は多くいます。宮中とはそういうところですから。姫様もそのことをよくご存知でした。
「どうして皆、我に厳しいのかしら。お母様も、お祖母様も、乳母やも皆、内親王としてふさわしい教養と品格を身につけなさい、と言う。帝の名を辱めないように、と。そのようなこと、言われなくてもわかっているのに」
そう言って池端で人目を憚らず大きな口を開けて、干し柿に齧りつきました。
姫様は、皇后の持つ才知も色気も、人目を引く華やかさもまったく持ち合わせていないように見えました。花に例えると、皇后が艶やかな牡丹の花ならば、姫様は足元に咲く月草でした。
「お母様はねえ、我が口いっぱいに頬張ると嫌な顔をするの。高貴な女性は大きな口を開けてはいけないと言うのよ。我に飢え死にしろとでも」
帝や皇后の前では従順な娘の顔をしていらした姫様でしたが、私といる時はのびのびとした少女でした。
時の権力者、藤原不比等様の邸で大切に且つ自由に育てられた安宿媛と違い、姫様の生活に自由はありませんでした。内親王としての教養と嗜みを教育され、その言動は常に皇后から監視され、さぞ窮屈な暮らしだったと思います。
姫様がまだ幼い頃、父君が帝になられました。年始の儀式の最中に父帝に「お父様」と呼びかけたのだそうです。帝はお答えになりませんでしたが、それを見た上皇氷高皇女、姫様にとって大伯母にあたられる氷高皇女が、後にものすごい剣幕で姫様の母親である皇后を諌めたのだそうです。
「内親王をちゃんと皇女らしく教育してもらわないと。それとも皇室のしきたりを、貴女もまだわかっていないのかしら」
姫様の父親である前に帝であると、帝とは神に近い存在なのだと理解させるよう、厳しく言われたそうです。
「そのようなことを上皇から言われた私の気持ち、誰がわかるというの」
上皇である氷高皇女は、草壁皇子を父に、元明帝を母に持ち、倭根子帝(持統天皇)から正統な後継者として位を譲られた文武帝の姉君です。今上帝の伯母にあたられるのですが、まるで実の母親のように振る舞っておられていました。皇后にとってはいわば姑のような存在で、絶対に逆らえない相手なのです。
元来、皇后には皇族の娘しかなれないと決められていました。皇后は時として帝に代わり政を執ることもあったからです。
例えば氷高皇女の御母君の元明帝。息子の文武帝が早逝したため、母であった彼女が帝に立ちました。年老いると長女の氷高皇女に位を継がせ、孫息子が適齢になるのを待ったのです。
ですから、皇族でない藤原安宿媛の立皇后の時には大変な騒ぎでした。皇族の反対を押し切って、藤原氏が強引に皇后に立たせたのです。氷高皇女や皇族だけでなく、多くの貴族たちからも反感を買ったのは当然です。
そんな、正当な天皇家の血を引く氷高皇女が、甥っ子を天皇にするため結婚を諦め即位した氷高皇女が、人臣の娘の身分でありながら甥っ子の妻となり皇后を名乗る女をよく思う理由がありませんでしょう。
皇后が姫様の教育に厳しいのは、そういった氷高皇女に対する意地もあったと思います。人臣の娘にして初めて皇后となった、その重圧は相当なものだと想像します。姫様をきちんと育てることで、自分が皇后に相応しい人間だと氷高皇女に認めさせたかったのかもしれません。
「帝と藤原の名に恥じないような振る舞いをなさい」
姫様はそう言われ続け、がんじがらめにされて生きていたのです。
「あまりお気になさいますな。姫様は、お心のままになされるとよろしゅう」
「ああ、そなただけよ、そう言ってくれるのは。お母様も侍女たちも皆、あれをしてはだめ、これをしてはだめ、私のやることなすこと口を出す」
姫様は、常にご両親や上皇の目を気にしていました。その反動なのか、年下の下女をきつく叱ったり、若い内舎人をからかっては鬱憤を晴らすことも多くありました。
ある時、姫様は庭の小枝を折りながら私に言いました。
「ああ、腹が立つ。あの女。何から何まで口うるさくて。ねえ、そなたは誰かに腹を立てることはないの。年長者に腹が立った時、どうして自分の気持ちをおさめるの」
姫様の教育係の侍女のことでしょう。
「私はもうこんな年齢、自分の感情を封じ込める術を知っております。ですが、私の下女たちは、面と向かって言い返せない方について、影でおかしな名前をつけて呼んでおるようです」
「おかしな名前」
「人を見下す役人には鼻高とか」
「鼻高。なんとおかしい」
「姫様も、気に入らない方におかしな名前をつけてみるとすっきりいたしますかと」
「じゃあ、あの女にも、何か変な名前をつけてやろうかしら。そうね、ギャアギャアやかまし女、やかましめはどうかしら。ねえ、どう思う」
「姫様のお好きなように」
「そなたと二人きりの時はやかましめと呼んでやろう。やかましめ、ああ、気味がいい」
そう言った後、姫様は、はあ、とため息を吐きました。
「お母様は、我の顔を見ては、男子だったらよかったのに、と嘆くの。男子に生まれていれば、今頃はもっと大事にしてもらえたのかしら。だったら我は男子に生まれればよかった、ねえ」
「そのようなことはありません。今までもこの先も姫様が女子であってよかったと思う人間が大勢いますよ。もし今はいなくとも、そのようなお方といずれ巡り合いましょう。ええ、必ず」
「そうかしら」
姫様はまんざらでもなさそうな顔をしました。内親王と言ってもやはりお年頃の娘、いつか恋焦がれる男性と出会うことを夢見ているのです。
「ああ、早く宮を出て思いのままに暮らしたい」
それが姫様の口癖でした。