<第02話>
私は姫様の部屋を退出すると、廊下を渡って皇后の部屋を訪ねました。
皇后とは、人臣の娘でありながら二年前に今上帝の皇后となられた藤原安宿媛です。前の右大臣藤原不比等様と、帝の乳母で後宮の実力者橘三千代様の間に生まれ、生まれた時から帝の妃になることが決まっていた女性、それが姫様の御母君です。
姫様とお会いしたのも、皇后から「ひとり娘の阿倍内親王がどうやら気になる夢を見たらしい、夢解きをしてもらえないか」と依頼があったからです。大方、年頃になった姫様の嫁ぎ先を決めかね、私に占卜をさせるつもりだったのでしょう。
皇后は振分髪の姫様と違って、妖艶な色気のある女性でした。長い黒髪を、貴族の間で流行している頭上二髷に結い、真っ赤な紅を差した口元には桃の花のようなよう鈿を描いていました。
「娘と、内親王と会ってきたのね」
皇后は私に詰問するように問いました。
「はい、夢解きをいたしました」
「どのような夢だったのかしら」
「それは申し上げられません。夢を他人にお話ししてはならない、それが夢解きの決まりごとでございます」
私の毅然とした口調に皇后は不機嫌そうに目を細めました。他の者には通じる自分の威厳が私には通じないことを快く思っていなかったでしょう。仕方がありません。皇后といっても元は人臣の娘。帝を先祖に持つ私が彼女に頭を下げる謂れなどありませんから。
「ふ……ん。ならばよいわ。あの娘と会ってどう思った。そろそろ年頃となった。いずれ婿を取ろうと考えているのだが、どういった男がよいと思うか言うてみ」
私共占卜師は、占卜だけでなく病を治したり相談を受けたりします。ことに私は、皇族や貴族、また宮中に仕える人たちからの相談に乗ることもしばしばありました。
「率直に申し上げますと……内親王は奇妙な運を持っておられます」
「奇妙な運」
「彼女を手に入れた者はこの世をも動かす力を手に入れるかもしれませぬ。それほどに数奇な運を持っておられます。婿取りは慎重になさいませ。内親王を貴女様の側にいつも目の届くところに置き、やたらな男子を近づけてはなりませぬ。この男を帝にしようと思った男でなければ、軽々しく近付けてはなりませぬ」
「それは今でもやっておるわ」
「この先、誰とも婚姻させてはならないという意味です。皇后が今の暮らしを続けたいのならば、決して内親王を手放してはなりませぬ」
「しかし……。安積親王の妃とするのが一番良いだろうと帝は仰せられている。いずれはそのようになるでしょう。兄たちは反対しているが」
皇后の子は内親王おひとりだけです。内親王を産んだ後、何年も子ができず、やっと授かった男子は三年前、わずか一歳で夭逝しました。皇后は、帝の跡を継ぐ皇子を持っていなかったのです。
一方で、帝のもうひとりの夫人、県犬養広刀自は、皇后が産んだ皇子が逝去したその年、男子を産みました。今のところ、帝には他に男子はいません。このまま何もなければ、県犬養広刀自夫人が産んだ安積親王がやがて皇太子となります。
それで二年前、それまでの慣例、皇族でなければ皇后になれないという慣例を破り、安宿媛は、兄たちの尽力で強引に皇后に立てられました。
というのも、それまで皇位継承権は年齢が上の順になっていましたが、そうなると安積親王が皇太子になるのを防げません。そこで安宿媛を皇后に立てて「皇后が産んだ皇子は年齢に関わらず、他の妃、夫人が産んだ皇子より優先する」という決まりを当てはめることにしたのです。つまり、この先皇后が男子を産みさえすれば、その男子は安積親王を差し置いて皇太子となるということです。
皇后が男子を産めるかどうかは誰にもわかりませんが、ただ私は難しいと思っていました。
「安積親王を次の帝になされたいのであればそれで良いと思います」
「わかっておるわ。だから兄たちもそれを危惧しておる。そうではあるが、他の皇子と結婚させても同じこと」
「ええ、その通り。誰と結婚させても安積親王が帝になるのを防げません。他の皇子と結婚させるのは無駄なこと。安積親王ならば、親王が帝になられ阿倍内親王が皇后になられたその時、内親王が男子を産めば、その男子をいずれ即位させることもできます。藤原氏との縁は途絶えません。ですが、男子を産むことの難しさは、皇后、貴女様もよくお分かりのはず」
皇后の白い顔が一層白くなりました。
「その前に、安積親王が即位なさった時点で、その母の県犬養広刀自は帝の母、皇太后となられます。その時、貴女様は」
皇后の眉が阿修羅のように曲がったのが見えました。
それまで彼女は、人臣の娘の中で最も高い位置にいるのは自分だと自負していたはずです。彼女の地位を脅かす人間などいなかったのです。
「ならば、どうしたらよいと言うのじゃ」
「内親王を手放してはなりませぬ。この先、誰とも婚姻させてはならないという意味です」
「しかし、このままだと安積親王が皇太子に」
「私に考えがございます」