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夢を解く  作者: 桃園沙里
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<第10話>

 出入りが禁じられたとはいえ、宮中には知り合いが大勢います。私はそういった者たちから姫様の動向を聞いていましたし、京の様子も知っておりました。

 三十二歳になられた夏、御父帝からの譲位を受け、姫様は帝となりました。しかし帝とは名ばかりで、実権を握っているのは皇太后となられた御母君、それに藤原仲麻呂様でした。

 仲麻呂様は、藤原氏の男子の中で最も覇気あふれる野心家、兄上たちに代わる後ろ盾が欲しかった皇太后につけこみ、目覚ましい昇進をしていきました。

 そうそう、姫様の異母弟の安積親王ですが、姫様が即位なさるより前に、私が何をするでもなく、急の病で身罷られました。仲麻呂様が関わっているとか噂があったようですけれど、真相を突き詰める人間など誰もいません。

 姫様は、独身を貫いています。安積親王が薨去された後、御父君の上皇は、姫様に婿を取って生まれる息子を皇太子にする意向を示したのですが、皇太后が断固として婿取りを認めませんでした。

 御父帝の崩御後は、姫様と御母君との不仲が表面化したようです。藤原仲麻呂様と謀って、皇太后に近い勢力を排除していきました。

 間も無く、姫様は仲麻呂様の薦める皇子に位を譲って重荷を降ろされましたが、新帝も姫様と同様、仲麻呂様の傀儡には変わりないようです。

 姫様と、帝を陰であやつる権力者となられた仲麻呂様の関係はどうだったかというと、最初は良好だったそうです。仲麻呂様は、姫様の気に入りそうな、自分の息子の中で最も美形の者を姫様の舎人とし、姫様のご機嫌をとるなどしていましたし。元々政治に関心が薄かった姫様、しばらくは仲麻呂様の好きにやらせていたそうですが、どうやら近頃は、帝や仲麻呂様と折り合いが悪いようなのです。


 二年前、皇太后が薨去すると、姫様は病になりました。そうすると、静養先で出会った看病法師、弓削道鏡と親密になったのです。姫様を制御する御母君ももういません。

 姫様があまりに道鏡法師を寵愛するのを見かねた帝と仲麻呂様は、姫様に意見したそうですが、姫様は立腹し、宮を出て、道鏡法師を伴って平城京の法華寺に籠ってしまわれたのです。

 それまで、御父帝のために耐え忍んできた姫様のお姿を見て、帝や仲麻呂様は、自分たちの言うことも従順に聞くと思っておられたのでしょうか。本来の姫様は、好き嫌いの激しい方なのです。やっと御母君の死によって解放されたというのに、ご自分のお陰で帝になった人間に意見され、さぞ腹が立ったに違いありません。

 私の元へ姫様からの遣いが来たのはそんな折でした。


 初めて姫様とお会いした時と同じ、爽やかな夏の初めでした。姫様の座す寺の庭の木々の緑が鮮やかで、眩しく見えました。

「息災でしたか」

 二十年ぶりにお会いした姫様は、髪を肩の下で揃え、薄紫の衣を纏い、まるで仏に仕える尼僧のようでした。きりりとしたお顔立ちになり、口調にも自信が溢れていました。母親の顔色ばかりを窺っていた、かつての少女時代の面影はすっかり無くなっていました。 

「皇太后のおかげでずいぶんと難儀いたしました」

 私はそう言っていたずらっ子のように微笑みかけました。

「我が力足らずのせいで、苦労させました」

「とんでもありません。私の苦労など、姫様に比べたら小さなことにございます。姫様のさまざまな困難辛苦、遠くにいながらも心を痛めておりました」

「うむ、そなたと会わなくなってから、実に辛いことが多くありました。良き世にしようと思っても飢饉や疫病はどうにもできぬ。悪き企みをする輩も出てくる。所詮我は徳がない。国を収める帝にふさわしくないのだ。そうは言っても、他の者よりはまし、と今日までいたのだが、そんな折、この道鏡法師に出会ったのじゃ」

 姫様の隣に、紫の法衣に包まれた法師が穏やかな笑みを浮かべて座っていました。

「そなたに紹介しよう。こちらは弓削道鏡法師。我が最も信頼する人物じゃ」

 道鏡法師はゆったりとした動作で、丁寧に深々と頭を下げました。姫様より幾らか年長でしょうか。

 私は明るく弾んだ声で言いました。

「まあ、姫様、信頼できる良いお方と巡り合ったのでございますね。なんと素晴らしいこと」

 姫様は満足げに軽く頷きました。

「やはりそなただけは我をわかってくれる。他の者は誰もわかってはくれぬ。そう、皆が国のことを何も考えていない。我はこの先を憂いている。彼らにわかって欲しくて、出家すれば良いこともあるかと思ったが、何も変わらぬ。ただ昔、そなたが夢解きをしてくれた、その言葉を信じてここまでやってこれた。今また我の夢を解いてくれまいか」

 道鏡法師はずっと私たちのやりとりを何も言わず眺めていました。法師が何を思っているのか、全く分かりませんでした。ただ、邪悪な空気を感じなかったので、悪い人物ではないような気がしました。かつて安宿媛を誘惑した玄昉法師のような邪な心は持っていないのかもしれません。

「立派な法師の面前で、私のような者が恥かしゅうございます」

 姫様は、道鏡法師に目配せをし、法師を下がらせました。

 法師の姿が見えなくなるのを横目で追いながら、姫様は言いました。

「我は皇統の嫡系を継ぐただひとりの娘として、幼き頃から不自由な暮らしを強いられた。結婚も許されず、辛い思いもした。しかし、こうして道鏡法師と巡り会えた今、そのようなことはどうでもよい。道鏡法師は実に立派な心を持つお方じゃ。正に法師こそ国を治めるに相応しい人物と知った。思えば、父君が我に位をお譲りになったのも、このことを予感していたのではないかと思う。道鏡法師にこの国を任せよう。そう思った途端、目の前がパッと明るく開け、我の心に清々しい空気が流れ込んできたのじゃ。このようなことは今までにない」

 私は目を潤ませました。

「姫様、誠に……、ようございました」

「若き頃、どうして我は帝の娘に生まれてしまったのか嘆いていたら、そなたが言った。きっと意味があるはず、と。最近、ようやくわかった気がする。我が次の帝の在り方を定める。きっとこれなのだと。今の帝を廃して、道鏡法師を帝にしようと思っている。そしてこれからは、法師が適任だと思った人物に国を任せようと思う。我はもう皇太子を選ぶのは懲り懲りだ。しかし、反対する者が多い。そなた、今ひとたび我の役に立ってくれまいか」

 姫様が手招きするに従い、私は姫様の面前に座り頭を下げました。

 顔を上げると、姫様の右の手が目の前に差し出されています。

「失礼致します」

 私は姫様の手を両手で受け取りました。少女の頃よりふっくらと暖かく感じました。

 それを合図のように、姫様は語り始めました。

「我は高い山の上に立っている。下を見下ろすと道を行き来する人、農作業をする人々が見える。我が錫杖で地面をトンと突くと、穴が開きそこから水が噴き出てくる。我が宮へ戻ると、皆が呑気に梅見などしている。愚かしい者たち、ここはもう直に水浸しになるのも知らないで。しかし、皆が溺れては困る、先ほどの水を止めるよう、誰かに申しつけるが、いいえ、止める必要はございません、と答える。ならば我は宮を出よう。輿を用意させるが、宮の外は白い朝靄、行く道の先が見えない。右と左とどちらに行きますかと天から声がして目が覚めた」

 私は姫様の目をまっすぐ正面から見つめました。姫様も私を見つめ返してきました。その瞳には私への信頼が宿っているように見えました。

「まず、高い山の上に立つ姫様は、この国の頂点におられます。かつての御父君のよう」

 姫様は軽く頷きました。

「噴き出る水は、新しい世の始まりを暗示しています。おそらく、姫様は古き物を一掃し、この国を刷新しようと考えておられるのではないでしょうか」

 姫様は黙っておられました。

「姫様は、今まで皆のことを考え、国のため皆のために一生懸命にやってこられた。しかし、皆はそのことをわかってくれない。夢の中でも同じこと。皆が溺れてはならないと姫様がお心を痛めているのに、他の者たちは呑気なものです。それが情けなく悲しく思われる気持ちでいっぱいです。姫様がこんなにも皆のためを思っているのに」

 私は、姫様の手を優しくさすりました。

「その通り、誰もわかってくれなかった。我の心痛をわかってくれたのは、道鏡法師ただひとりだ。あ、いや、そなたもいたな」

 私は微笑んで大きく頷きました。

「行く道の先が白く、見えないのは、まだ誰もやったことのないことを姫様がなさろうとしているからです。姫様次第で世が変わるものだと夢が言っています。今は、姫様のお考えに反対する者も多いでしょう。ですが、やがては姫様が新しい世を開いてゆくのです。彼らはその時心から感謝するでしょう」

「ならば我は……」

「未来を選ぶのは姫様ご自身。どうか姫様が正しいと思うことをなされませ」

 私は、握っていた手を姫様の膝の上に戻しました。


 姫様の行宮を退出した私は、帰り道の馬上で笑いを堪えるのに必死でした。

 馬の手綱を持つ下男が言いました。

「ずいぶんとご機嫌でいらっしゃいますね」

 これが笑わずにいられましょうか。姫様は私の期待以上の人物に成長し、あのような出自の低い僧侶を次の帝にすると言う。なんとも愉快なことではありませんか。


 私の母方の血族は藤原氏によって滅ぼされました。だからと言って復讐しようと思ったことはありません。こんな世ですもの。滅し滅ぼされるは世の常。大陸の国々を見てもわかるように、永遠に続く栄華などありはしない。世は諸行無常なのです。

 あの日、姫様に会わなければ、私は何の邪心なく一介の占卜師として今日も生きていたでしょう。

 姫様と初めてあったあの日、私はこの娘が皇統と藤原氏の命運を握っていると知りました。母親の顔色を伺っているばかりの何の才もない娘が。

 私はふと思いました。

「最も帝にふさわしくない資質のこの娘を帝にしたら、どうなるかしら。そうだ、未婚のまま即位させてしまえば、子孫は残せず、藤原氏の血を引く帝が途絶える」

 姫様を自分の保身の道具としか思っていないような皇后や藤原一族によって、いずれは藤原氏に最も有利な人物と結婚させられる姫様。それよりも、帝となって彼らを裏切り、好き勝手に生きたほうが幸せではないでしょうか。

 そう思いついた時、私はなんだか心が躍りました。

 姫様が帝となった時、尊敬する父親を裏切った皇后を憎み、藤原氏を憎み、藤原政権を終わらせる、そのための種を私は姫様に植えつけました。

 私の企みは、志半ばで諦めねばなりませんでしたが、あの時、私が姫様の中に蒔いた種は無駄ではなかったのです。姫様の中で芽を出し、しっかりと根を張り成長し、今、この国の土台を壊そうとしています。

 姫様の夢解きに嘘を言ってはいません。

 最初の夢解きは真実を告げたまで。姫様の行手を阻む草の蔓は藤、つまり皇后と藤原氏が姫様の自由を奪う。ただ皇后を焚き付けたのは私ですけれど。

 先ほどの、姫様がこの国を刷新しようとしている、それも本当のこと。でも成功はしないでしょう。誰も姫様の行う政治を歓迎していない、無理に進めば世の中は混沌とし、未来はないことを暗示しています。

 姫様が道鏡法師を次の帝にしたいと言ったとして、果たして他に皇子が大勢いる中で誰がそれを認めましょうや。もしも帝の血を引く人間が誰もいなくなってしまえば、そのようなこともあるかもしれませんが。頑なに姫様が言えば言うほど、周りの反発も強くなり、やがてはご自分に跳ね返りましょう。その昔、時の権力者蘇我氏を敵に回して弑逆された崇峻帝、せめて姫様がそのようなことにならなければ良いと願う、それだけです。

 どちらにしても、姫様のお陰で、藤原氏の作り上げた皇統も、もうじき終焉を迎えましょう。なんとまあ予想以上の娘に育ってくれたものでしょうか、これからもしばらく楽しませてくれそうです。

 私は愉快でたまりませんでした。

「ええ、本当に、とても楽しいわ」

 私の晴れ晴れとした声が京の大路に響きました。(了)

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