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ミリオンダラー・ブラット  作者: 宝積 佐知
1.躍るブギーマン
3/21

⑵疾風迅雷

 斜陽は淡く街を照らし、薄明は金色の矢の如く大気を貫いた。瓦礫を寄せ集めたようなバラックの群れは、歴史の轍と呼ぶに相応しかった。


 ヨーロッパ随一と呼ばれた芸術の都は、数々の文化遺産を生み出して来た。日の当たる大通りは観光客で賑わい、軒を並べる市場からは活気に満ちた声が飛び交う。


 大陸性気候に分類される母国には、四季があった。だが、国土の中央を走る山脈を境に、山岳部と平原部では気候が大きく異なる。山岳部では積雪量も多く、朝晩は冷え込むので上着が必要だった。


 アイナが生まれたのは、ヨーロッパ南東部に位置する小さな国だった。人種の坩堝と呼ばれる多民族国家は、常に紛争の脅威に晒され、国民は差別と飢餓に喘いでいた。けれど、それは歴史には記されない国の汚点だった。


 死臭の漂う路地裏で、幼い頃のアイナはいつも大通りを見ていた。着飾る富裕層の人間、完成された家族の形、受け継がれて行く誇り高い民族意識。アイナには、永遠に手が届かないものだった。


 色褪せた丘の上に、古城のように寂れた教会があった。

 腹を空かせたアイナがやって来ると、喪服のような出立をした神父は慈悲深く微笑み、迎えてくれた。




「人は生まれながら咎人である。――罪人よ、頭を垂れよ」




 促されるまま、アイナは十字架の前に頭を垂れた。神なんてものは信じていなかったが、その言葉に従えばメシに有り付けることを知っていた。


 礼拝の終わった伽藍堂の教会、茜色の差し込むステンドグラス。天鵞絨の絨毯が十字架の下へ伸びて行く。耳鳴りがするような静寂の中、アイナは神父から施された食材を遠慮無く貪った。


 アイナの野良犬のような食事風景を見ながら、年老いた神父は酷く穏やかな目をしていた。深い皺と垂れ下がった瞼に覗く瞳は白銅色をしていて、目の前のアイナのことなんて見えていないみたいだった。


 アイナが満たされた腹を撫でていると、時々、神父は説法を語った。その殆どは耳の中を通り抜け、消えてしまう。飢えが満たされると睡魔に襲われ、微睡みながら、アイナは横長のベンチに腰掛けていた。


 十字架を背負う神父は、聖母を模したステンドグラスの光を浴びながら、独白のように静かに語った。




「希望を抱いて喜び、苦難に耐え、常に祈りなさい」




 新約聖書、ローマの信徒への手紙。

 アイナが見上げると、神父は十字架に首を差し出すかのように俯き、両手を組み合わせていた。


 アイナの視線に気付いたのか、神父は閉じていた両目を開き、口元に微かな笑みを浮かべた。厚みのある温かな掌が、アイナの黒髪を優しく撫でる。




「痛みはいつか消え、他の何かに変わる」




 そう言って、神父は去って行った。

 アイナには、分からなかった。その意味も、意図も、何も。

 ただ、去って行くその背中は風前の灯のように儚く、何処か温かかった。










 1.踊るブギーマン

 ⑵疾風迅雷











 天使の去った室内は、まるで黄昏の世界にあるかのように仄暗く、乾いていた。仕事を終えた後の達成感を味わう為に一服すれば、体が鉛のように重く感じられた。


 あのガキは何者だったのだろう。

 アイナは、焦げて行くフィルターの先端を眺めながら物思いに耽った。どうして名前を知りたがったのか。何故、偽名と疑わなかったのか。


 短くなった煙草を灰皿に押し付けた時、戦慄が冷たい汗が背中を滑った。アイナは殆ど脊髄反射で愛銃に手を伸ばし、ベニヤ板のような扉の向こうへ身構えていた。


 その瞬間、扉を蹴破る激しい音が雷鳴のように鳴り響いた。


 暴力的な騒音と共に、扉の前に立っていた男が宙を舞う。アイナにはそれが、無重力空間に投げ出されたかのようにコマ送りに見えた。


 吹っ飛んだ男がバックバーへはりつけとなり、陳列されていた酒瓶の割れる凄まじい音がした。数瞬の沈黙、時間の停滞。割れた酒瓶からウイスキーがぽたぽたと零れ落ちる。耳が痛くなる程の静寂の最中、足音がした。


 こつり、と。

 上質な革靴が褪せた床板を叩く。

 蹴破られた扉、磔になった男、砕けた酒瓶。店内は一瞬にして異様な沈黙と緊張感に包まれた。


 破られた扉の向こうに、一人の優男が立っていた。リネンの開襟シャツに、白蝶貝のボタンが鈍く光る。はっとする程の見事な金髪に、深い水底のようなエメラルドの瞳。すらりとした長身は、風に揺れる柳のようだった。


 一見すると、表通りを歩いていそうなホワイトカラーの男なのに、片手には血塗れのガードマンをぶら下げている。それはまるで、地獄の底からやって来た死神のようだった。


 空気が重く淀み、氷の牢獄のように冷えて行く。

 エメラルドの瞳ばかりが夕陽の残光の如く光る。その眼光を見た瞬間、丸腰で猛獣と対峙したかのような戦慄に襲われた。




「ようよう。何してくれんだ、優男」




 挑発するように、三下が鼻先で嘲笑う。

 金髪の男は頬に返り血を付けたまま、仄暗い目付きで微笑んだ。




「大の大人が、揃いも揃って情けねぇ」




 良く鞣した皮のように落ち着いたテナーの声だった。

 意識の無いガードマンを投げ捨て、そいつは深く溜息を吐いた。低劣なギャング共が銃を取り出すコンマ数秒、そいつは手前の男の頭を引っ掴むと、テーブルの上に叩き付けた。


 飴色のウイスキーと共に、獣の断末魔にも似た絶叫が迸る。優男は悪魔のように嘲笑った。




「まあ、飲めよ。――楽しく行こうぜ?」




 顔面にショットグラスの破片が突き刺さり、無精髭の破落戸が叫び声を上げる。そいつは構わず、テーブルの上に置かれていた蒸留酒の瓶を掴み、逃げを打つギャングの脳天を殴打した。




「心配すんな、俺の奢りだ」




 口角を釣り上げて、そいつが吐き捨てる。

 硝子が飛び散り、血液と安い酒精が悪夢のように漂う。悲鳴と絶叫がサイレンのように響く中、そいつは悪童のように嗤った。


 男は胡乱な目付きで室内を見渡し、子供に言い聞かせるかのように滔々と言った。




「お前等みてぇな馬鹿共は、三歩も歩けば、道理もマナーも忘れちまう。……だからな、今日はこれだけ覚えておけ」




 何処かの国の工作員、訓練された玄人。――いや、そんな言葉では言い表せない深淵の住人。

 エメラルドグリーンの瞳は宝石のように美しいのに、その奥底には寒気がする程の殺意が燃え滾る。




「俺の領域を侵す者は、《《死ね》》」




 そいつは顳顬に青筋を浮かべ、侮蔑を極めた口調で吐き捨てた。引き摺っていた男は昏倒している。そいつは荷物でも捨てるみたいに放り投げた。


 アイナは懐からMk.22 Mod0を取り出した。

 黒く光る銃身に飴色のグリップ。暗殺用消音拳銃――通称、ハッシュパピー。撃たれた人が静かに死ぬことから、そう呼ばれるようになったとされる。


 アイナは銃口を突き付けながら、嗤った。




「どうやら、アンタは立場がよく分かってないね。要求があるなら、金を寄越しな」

「……」




 そいつは奇妙に静かだった。

 アイナには、その無表情の下で煮え滾る激怒を押し殺しているように見えた。


 こいつ等が何者なのか知らない。興味も無い。

 ガキ一人の為に敵陣真っ只中へ単独特攻仕掛けるなんて、正気の沙汰じゃない。多分、こいつは手を出してはならない修羅で、あのガキはその虎の子だった。


 自分が厄介なものに手を出してしまったことは分かったが、それを懺悔する程の情緒も倫理観も無い。積み上がって行く緊張感と、空気が歪んで見える程の濃厚な殺気が心地良い。


 ハッシュパピーは、ベトナム戦争時代にSEALsが生み出した暗殺用拳銃である。その筋から流れて来た本物の官給品は驚く程に使い易く、グリップは掌に吸い付くようだった。


 しかし、その用途はターゲットの暗殺ではない。

 自分が仕事をする上で障害となるであろう番犬を始末する為の小道具だった。


 アイナが撃鉄を起こした時、そいつは不気味に凪いだ声で言った。




「俺は、悪党と取引する趣味は無ェ」




 金色の閃光が駆け抜けた。

 アイナの顎先をストレートチップの革靴が掠める。身を引いた一瞬、背中がカウンターに当たる。あ、と思う間も無かった。


 闇に沈むナイフが虚空を滑る。

 ハッシュパピーの弾倉で受け止めた瞬間、金色の火花が散った。アイナが後方に転がり込むとギャング共が手当たり次第に発砲する。


 散弾銃の凄まじい銃撃の最中、そいつが手前のテーブルを蹴り上げた。盾代わりになった木製のテーブルが勢い良く削られて行く。嵐のような下品な銃撃戦だった。


 鼻を突く硝煙の臭い、耳障りな罵声、稲光に似たマズルフラッシュ。その時、ボロ切れとなったテーブルが真っ二つに割れ、無数の銀色の光が走った。


 スローイングナイフ。

 鋭利な刃が、正確無比の精度でギャング共を仕留めて行く。呻き声が零れ落ち、血飛沫が霧のように舞う。目で追うことは出来なかった。アイナはカウンターの向こうに飛び込んだ。


 絶叫と悲鳴が途切れたその瞬間、アイナは足元に衝撃を受けて倒れ込んだ。

 痛みも時間経過も混沌と化した動乱だった。アイナが漸く顔を上げた時、そいつは目の前で笑っていた。




「さあ、命乞いの時間だぜ?」




 眼前に突き付けられていたのは、一本のナイフだった。そいつはハッシュパピーを片足で押さえ付けたまま、楽しそうに口角を釣り上げていた。


 辺りは、耳が痛くなる程の静寂に包まれていた。噎せ返るような濃厚な血と硝煙の臭い。いつの間にか、店内には蜘蛛の巣のようにピアノ線が張り巡らされている。


 鼠一匹逃さないとばかりに仕掛けられた罠と、自然現象の如く圧倒的な戦闘力。細切れになったギャングの肉片と、ピアノ線から滴り落ちる血の雫は、まるで雨垂れのようだった。


 出鱈目で、不条理で、反吐が出る程の暴力。

 圧倒的な武力による制圧。凡ゆる手段を無効化する化物染みた戦力差。そいつのエメラルドの瞳は寒気がする程の殺気が篭っていた。

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