⑴ヘルタースケルター
白い太陽から金属粉に似た陽光が降り注ぐ。
ニューヨーク州、マンハッタン。
銀鼠の混凝土と華美な装飾に彩られた街は、冬眠明けのような倦怠感に包まれている。人々は携帯電話を片手に、微睡を振り払うかのように早足に消えて行く。
アイナは欠伸を噛み殺し、ゆっくりと瞬きをした。世界経済の中心地は膨大な情報に溢れ、水槽の中を眺めているような心地にさせた。
何処かで聞こえるクラクションと流行りのロックミュージックが酷い不協和音となり、頭の奥が刺すように痛む。アイナは携帯電話を取り出した。SNSは沸騰した水面のように、真偽不明の情報が飛び交っている。
あれこれ詮索し、優劣を付けないと満足しない。
弱音を零して同情を得られなければ、夜も眠れやしない。
丸裸で殴り合っているフリをして、他人を嘲笑っているのがこの世界の奇妙な倫理観だった。
赤と白のシェードアンブレラが、パイン材のテーブルに影を落とす。アイナは商業ビルの片隅に愛車を寄せ、オープンカフェで寛ぐ二人の男を観察していた。
写真で見た金髪碧眼の優男は、手元のタブレットをぼんやりと眺めている。向かいの席に座っているのは、ベースボールキャップを被った子供のようだった。シェードアンブレラが影になって、子供の顔はおろか外見的特徴すら分からない。だが、それがアイナの狙うべきターゲットであるということだけは分かった。
二人はマグカップを傾けたり、雑誌を眺めたり、呑気に談笑したりして、昼下がりの一時を満喫している。忙しなく動き続ける経済の中心地で、彼等は切り取られたかのように穏やかで静かな日常を営んでいた。
個人投資家と聞いた。勝者の方舟に乗った金の亡者だ。
アイナは、腹の底から湧き上がる嫌悪感を唾と共に飲み下した。やがて二人は示し合わせたかのように席を立った。二人はそれぞれタブレットや雑誌を脇に抱え、雑踏に消えて行く。
アイナは携帯電話を取り出し、金で雇った協力者に連絡を入れた。タイミングを見計らう。二人が街中に溶け込む、刹那。外国人観光客の団体が進路を阻んだ。
捲し立てるような訛りのある早口で、そいつ等は二人の道を塞いだ。優男が子供を庇う。下世話な観光客共が足止めすると同時に、アイナは愛車のエンジンを入れた。排気音が獣の咆哮のように響き渡る。優男が振り返る、その瞬間、車道から黒塗りのクラウンが弾丸のように突っ込んだ。
甲高いブレーキ音と民衆の悲鳴、逃げ出すサクラ共。
クラウンの後部座席から腕が伸びる。キャップを被った子供の腕を引っ掴むと、クラウンはミサイルのように勢い良く発進した。
アイナは走り出すと同時にギアを踏み換え、速度を上げた。計画通り、予定調和。余りにも上手く行き過ぎて、奴等の危機感の無さに肩透かしを食らったようだった。
その時だった。
乾いた破裂音が二つ鳴り響き、クラウンの装甲を貫いた。街中に溶け込んでいた金髪の男は、黒く輝く鉄の塊を構えている。硝煙が立ち昇り、クラウンが蛇行する。アイナは加速し、制御の乱れたクラウンに並走した。その後部座席に重い衝撃が走り、前輪が俄かに浮き上がる。
どん、と。
楔を打つような鈍い音がした。
クラウンのバックドアを貫いたのは、一本のナイフだった。
ナイフはハーケンのように打ち込まれ、男は激しく揺れるクラウンに飛び付いたまま微動だにしない。左手に持った自動拳銃――マカロフが火を噴いた。リアガラスに蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
「おいおい、嘘だろ?」
思わず、アイナの口からはそんな言葉が零れ落ちた。
砕けたリアガラスが星屑のように路上に散って行く。
男は、喜怒哀楽の感情全てを喪失したかのような無表情だった。その碧眼ばかりが爛々と輝き、まるで獲物を前にした肉食獣のようだ。
クラウンの後部座席には、ベースボールキャップを被った子供がいる。溺れる者が助けを求めるかのように手が伸ばされる。男がそれを引っ掴もうとする、その瞬間。
アイナは、リアドアを開けて子供の腕を掴んだ。男の手から子供を掻っ攫い、アイナはアクセルを回した。車道を埋め尽くす四輪車の隙間を縫って、アイナは走り出した。
「待ちやがれ!!」
恫喝的なテナーの怒号が空気を震わせる。
サイドミラーに映るのは、悪鬼の如き形相をした金髪の男だった。視線が交差した時、心臓に冷水を流し込まれたかのような恐怖に襲われた。クラウンを踏み台にしてマカロフを構えるその様は、一般人とは言えない。何処かの国の工作員。完全な玄人。
「侑!」
澄んだボーイソプラノが、男の名を呼んだ。
目深に被られたベースボールキャップが落ちると、栗色の髪が風に泳ぐ。侑と呼ばれた男が忌々しげに顔を歪める。アイナは射線から逃れるように車道を曲がった。
銃弾の追撃は、終に無かった。
1.躍るブギーマン
⑴ヘルタースケルター
スラム街の奥にある酒場は、地の底へ続く洞窟のようだった。
ゴミで溢れたバラックの集落を、垢だらけの物乞いと痩せたホームレスが幽霊のように彷徨い歩く。
子供は何も言わず、抵抗もしなかった。アイナはバイクを停めると、ヘルメットをサイドミラーに引っ掛けた。そして、子供の首根っこを引っ掴んだまま、階段を降りて行った。
扉を蹴って開けると、アンダーグラウンドな面々が出迎えた。上等なスーツを着た営業マン風の男、皺だらけのドレスを着た薬物中毒の女、サングラスを掛けたスキンヘッドの中年。店内は紫煙に包まれ、薄く曇って見えた。
アイナが子供を引っ張ると、小さな掌が制するように腕を掴んだ。
「自分で歩けるよ」
少女のような澄んだ声だった。
子供は深く溜息を零し、体の強張りを解すようにストレッチをする。栗色の髪をくしゃくしゃと掻き混ぜて、そいつは小馬鹿にするみたいに鼻で笑った。
「お姉さん、運転が下手だねぇ。俺の靴の爪先を見てよ、ほら」
子供が白いスニーカーの先を見せ、皮肉っぽく笑う。アスファルトに擦ったのか、僅かに削れていた。
余りにも太々しい態度に、アイナは苛立った。脊髄反射で胸倉を掴んでやると、その軽さに驚かされる。アイナは子供を壁に押し付け、眼前で凄んだ。
「自分の立場が分かってないみたいだね。アンタはこれから、内臓を取られて魚の餌になるか、裏社会のド変態の奴隷になるんだ」
良い気味だ。この世は不平等に出来ている。
だから、時々、清算の神様がやって来て理不尽な罰を下す。
けれど、子供は口唇を歪めて笑った。壁に押し付けられたまま、子供は喘ぐような掠れ声で、挑発的に言った。
「親切だね、お姉さん?」
アイナは眉を顰めた。
なんだ、こいつ。腹立たしさが込み上げて、アイナは感情のままに投げ捨ててやった。子供は呆気無く埃塗れの床に倒れ込むと、肺病のように盛大に咳き込んだ。
細い腕、生っ白い肌、丸腰。抵抗も逃走も出来ない温室で育てられたようなクソガキが、地べたで這い蹲る様に気分が高揚する。
アイナは流れ落ちる黒髪を肩に掛け、鼻を鳴らした。両耳に下げた大振りのピアスが揺れる。クソ子供はフレームの歪んだ眼鏡を外すと、ぞんざいに投げ捨てた。
硝子玉のような大きな目が、アイナを鏡のように映す。輪郭の整った美女のような青年だった。高く売れそうだと、そんなことを思った。
子供は襟元を正しながら、弱々しく問い掛けた。
「お姉さんの目的は、何なの」
「アンタに教える義理は無いね」
「じゃあ、名前を教えてよ」
強請るように、子供が言った。
不思議な感覚がした。透明度の高い湖の水底を覗いているみたいだった。手を伸ばせば届きそうなのに、一度踏み入れたら二度と這い上がれないような喪失感。
子供は小首を傾げ、無邪気に問い掛ける。
その姿に毒気が抜かれて、アイナは溜息を吐いた。
「あたしは運び屋、ブギーマンって呼ばれてる。アンタにとっては死神だね」
ブギーマン。子供は復唱し、顎に指を添えて俯いた。
長い睫毛が影を落とし、目の下が窪んで見える。血管が透けるような白い面を上げると、子供は言い募った。
「それは通り名だろう。俺は貴方の本当の名前が知りたいんだ」
「煩い子供だね。それなら、アンタが先に名乗れば良い」
「俺の名前を知っても、お姉さんが得することなんて無いと思うけどな」
子供は朗らかに笑った。
逃げる素振りも無ければ、命乞いもしない。怯えもせず、自分を拐った人間の名前を知りたがっている。
調子が狂う。
アイナは髪を掻き上げ、側にあった椅子を引き寄せた。背凭れに肩肘を突き、床に座る子供を見下ろした。
十代前半くらいだろうか。学生か。
あの優男は家族なのか。今頃、どうしてるだろう。
NY市警のサイレンが聞こえていたから、捕まっただろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、アイナはジッポと煙草を取り出した。
炎がフィルターを焦がす芳ばしい香りがする。
煙を吸い込みながら、アイナは気紛れに答えた。
「アイナ・セルトラダート」
子供はアイナの名前を繰り返すと、宝物を見付けたみたいに笑った。
本当の名を口にしたのは、久しぶりだった。どいつもこいつも呼ぶ時はブギーマン。別に構わなかった。けれど、目の前のクソ子供は楽しそうに微笑んでいる。
この世の果てみたいな地の底で、その子供ばかりが春の陽溜まりにいるみたいだった。明るさが零れ落ちるように微笑んで、そいつは言った。
「俺の名前は、湊。宜しく、アイナ」
こいつ、誘拐されたんだよな?
アイナは混乱した。街中で出会ったかのような自然さで、無防備に距離を詰めて来る。子供故の無邪気さか、命惜しさの計算か。
湊は立ち上がると、勝手に椅子に座った。スラム街の酒場が、都会のオープンテラスに見えるのは何故なのか。子犬が尻尾を振るように此方を見詰める面に邪気は無く、まるで状況を理解してないみたいだった。
アイナは背凭れに体を預け、肩を落とした。
気を張っているのが、馬鹿みたいに思えるのだ。逃げる所か、警戒すらしていない。これから待ち受ける残酷な未来を想像することが出来ないのだろうか。
アイナはテーブルに煙草を押し付け、身を乗り出した。飄々と笑う子供の本性を覗き込むつもりで、腹に力を込める。
「お前、何者だ?」
店内の雑音が遠去かる。
子供は白い歯を見せて不敵に笑った。
「貴方が決めろ」
ハウリングのような高音が鳴り響いたような気がした。
凡ゆる情報が目の前の子供によって塗り潰され、その姿だけが鮮明に映る。
スナイパーのレーザーポイントに狙いを定められたみたいに、冷気が迸り、肌一面が粟立っていた。
アイナが追及の言葉を吐き出そうとした時、耳障りな嗄れ声が響き渡った。
「よう、ブギーマン! 大成功だったらしいな!」
田舎臭い南部訛りで、農夫のような野暮ったい男が喚いた。地響きに似た振動が足元を揺らし、店の奥から破落戸が波のようにやって来る。
湊の濃褐色の瞳が、魚眼レンズのように雑多な店内を映した。アイナは深く溜息を吐き、椅子に凭れ掛かった。
下衆を絵に描いたような男達が衝立のように囲み、口々に勝手なことを言って、一人芝居のように愉悦に嗤った。けれども、湊の視線はアイナをじっと見詰めたまま、逸らされない。
「綺麗な子供だな。高く売れそうだ」
黄ばんだ歯列を露出して、男は下品に零した。
こいつが何者なのか、その結末がどうなるのか。
アイナには、もう関係が無かった。自分は仕事を完遂し、大金を手に入れてメシを食う。住処に帰る前にラム酒でも飲んで、また次の仕事を探す。
南部訛りの破落戸が、大きなトランクケースを転がした。人間一人くらいなら余裕で入りそうだ。湊はシルバーのトランクケースと男達を見遣り、鋭く睨んだ。
その奇妙な落ち着きが崩れたことに、胸が抄くような心地だった。アイナは目の前に屈み込み、棺となるだろうトランクケースを親指で差し示した。
「神様へのお祈りは済んだかい?」
これが慈悲なのか嗜虐なのか、アイナにも分からなかった。子供は諦念するかのように目を細めると、皮肉っぽく鼻を鳴らした。
「俺に神はいない」
アイナは声を上げて笑った。素晴らしいクソガキだ。殺しても罪悪感すら覚えないような、達成感すら得られそうな救いようのないクソガキ。
信仰があるのなら、祈りの時間をくれてやっても良かった。だが、こいつに神はいないらしい。それなら、さっさと仕事を済ませるだけだ。
アイナが視線を送ると、三下が子供を連れて行った。
昏睡状態にしてトランクケースに詰め、何処かの海の向こうへ運ばれる。そして、自分は大金を手に入れて酒を飲む。ただそれだけのこと。
「じゃあな、クソガキ。縁があったら、また会おうな」
餞別代わりに視線を遣った時、子供は既に背中を向けていた。
その足取りには迷いも躊躇いも無い。それがアイナには一層、気味が悪かった。