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序章

 闇に曙色あけぼのいろの火が灯る。


 ベニヤ板を組み立てたような寂れたバーは、社会という皿から零れ落ちた残飯のような客で埋め尽くされている。


 狭い店内で炸裂している音楽と人間達の叫び声が、視界を眩く朦朧とさせる。使い込まれたカウンターテーブルには、罅の入ったジョッキグラスが置かれている。麦の色と小さな気泡、綿花のような薄い泡は、この低劣な店にお似合いだった。


 カウンターの向こうでは、西部劇のような帽子を被った店主が煙草を片手に退屈そうに突っ立っていた。店内に響き渡るAerosmithの名曲、Rats In The Cellarはまるで雑音のように流れて行く。


 アイナは砕けそうなジョッキグラスを手に取ると、温いビールを一気に呷った。炭酸が喉を刺激しながら落ちて行く。半分程を飲み干してカウンターに叩き付けた時、ついにグラスの持ち手が割れた。


 けれど、それを咎める者は此処にはいない。

 使い古され、消費されて行く。煌びやかな社会の裏側、誰も惜しまない不用品のゴミ捨て場。此処はそういう所だった。


 アメリカ、ルイジアナ州モンロー。

 ワシタ郡の郡庁所在地でありながら、その治安は米国全土でワーストを誇る不成者の吹き溜りだった。オレオを買いに出掛ければ何処かで銃声が聞こえ、誰かがナイフで切られている。子供達は闇に消え、陽炎のような薬物の売人が街角で目を光らせ、骸骨に似た売女が煙草を吹かせる。


 アイナは欠けたジョッキグラスを端に避け、カウンターに肘を突いた。波打つ黒髪が紫煙と酒精に染まり、酷く不快だった。




「それで、今度の仕事は?」




 アイナが問い掛けると、マネキンみたいな店主がカウンターに一枚の写真を滑らせた。写っていたのは、映画俳優みたいな金髪碧眼の優男だった。


 監視カメラか、隠し撮りか。雑踏の中に紛れてはいるが、そのエメラルドの目はレンズの此方側を確かに睨んでいた。シックなジャケットをラフに着こなす様は、腕のある実業家のようにも見える。アイナにとっては、嫌いな世界の人間だった。




「こいつが、次のターゲット?」




 アイナが問い掛けると、店主の鉄面皮に嫌悪が滲んだ。店主は機嫌悪そうに煙草を吸いながら、磨き込まれたグラスを取り出した。


 琥珀色のスコッチに氷を浮かべ、店主は苦汁を舐めるように啜った。氷の割れる音が涼やかに響く。




「ターゲットは、こいつの近くにいるガキだ」

「ガキ?」




 写真を凝視するが、ガキの姿は何処にも無い。

 エメラルドの瞳ばかりが血に飢えた獣のように爛々と輝き、まるで此方を牽制しているかのようだった。




「何処にガキがいる?」

「……撮れねぇんだよ」




 忌々しげに、店主が言った。

 撮れないとは、どういうことか。


 この風変わりで無愛想な店主は、裏社会御用達の情報屋だった。愛想は無いが、腕はある。それでも、写真の一枚すら入手出来ないとはどういうことなのか。




「エンジェル・リードと呼ばれる投資家らしい。目的も正体も分からねぇが、確かなことはただ一つ。こいつ等は金の卵を産む鶏を飼っている」




 へぇ、とアイナは嗤った。アルコールに浮かされたかのような高揚感が胸の内側に湧き上がる。


 正体不明の投資家に、金の卵を産む鶏。エメラルドの瞳をしたこの男が何者なのか分からないが、カメラレンズ越しに映る殺気は、堅気の人間ではない。


 アイナは懐から煙草を取り出し、鈍色のジッポで火を点けた。ニコチンが吸収され、高揚する神経を冷ましてくれる。


 細く煙を吐き出せば、店主が眉間に皺を寄せた。

 アイナはケタケタと笑いながら、写真の優男を叩いた。




「それで? こいつは何者?」

「窓口係らしいが、経歴は一切不明だ。何処かの国の元工作員じゃないかって話だよ」




 元工作員。良い響きだ。難易度は高い方が良い。山と一緒だ。山顛から眺める景色はさぞ美しいだろう。

 アイナは込み上げる愉悦を押し込め、煙草で灰皿の縁を叩いた。灰となった紙フィルターがボロボロと小気味良く崩れ落ちる。


 店主はスコッチを飲み下し、グラスをカウンターに置いた。




「こいつが飼ってんのが、件のガキだ」

「なるほどね。だが、ガキなんざこの世界に掃いて捨てる程、溢れてる。手掛かりの一つも無いってんなら、そいつは藁の山から一本の針を探すようなもんだぜ」




 写真の中に手掛かりは無い。恐らく、そいつは監視カメラの位置を把握し、通行人の視線すら誘導する術を持った透明人間だ。


 店主は空になったグラスにスコッチを注ぎながら、手品の仕込みをするかのように意味深に笑った。




「詳細は分からねぇ。俺が知ってんのは、ただ一つ。そいつは、天使のようなガキってことさ」

「天使?」




 アイナが復唱すると、店主が黄ばんだ歯列を見せて笑った。店内の喧騒は遠い。アイナは追及の言葉を飲み込み、写真を懐へ入れた。


 兎に角、依頼内容は分かった。

 この優男の近くにいる天使のようなガキを攫えば良い。人攫いは得意だ。掏摸も置き引きも同じ。仮初の平和に浮かれた群衆と、目先の餌に夢中な豚共から掠め取る消失ショウ。


 アイナが席を立つと、店主が思い出したみたいに言った。




「そういや、ついでにお使いを頼まれてくれよ。報酬は前金で口座に振り込んでおくからよ」




 店主の言うお使いとは、或る駅前のコインロッカーからトランクケースを移動させるという引越し業者みたいな仕事だった。それだけで大金が手に入るのだから、濡れ手で粟だ。


 店主が挑発的に笑った。




「頼んだぜ、()()()()()?」




 ブギーマン。それがアイナの通り名だった。

 裏社会御用達の運び屋、ブギーマン。薬物、武器、人間。事情や対象は選ばない。


 アイナはポケットの中からバイクの鍵を取り出し、了承の意味を込めて手を上げて応えた。店主は口の端に笑みを浮かべると、後は俯いてグラスを磨き始めた。


 出口付近で顔を赤くした酔っ払いが、下衆に絡んで来る。荒い息遣いと腐った口臭が、吐き気を催す程に不快だった。


 アイナは愛想笑いで躱し、通り過ぎ様に思い切り右手を振り被った。肉を打つ鈍い音と共に、醜悪な男が店内に吹っ飛んで行った。


 ワインボトルのコルクみたいだな、と思うと笑えた。アイナは黒革のライダースーツを首元まで締め、沈黙した男を嘲笑った。












 序章











 真夜中の街はパレードのように賑やかだった。

 艶やかな衣装に身を包んだ売女は、致死毒を持った蛾のようだ。明らかな外国籍の男が違法薬物を甘い言葉で売り捌き、背伸びしたティーンエイジャーが今日もまた廃人になって行く。


 寂れた混凝土のビルは墓場のように佇み、明る過ぎる空に星は見えない。

 モンローの夜は冷える。ふと吐き出した息は綿のように白かった。アイナは地下駐車場から愛車のNinjaを引っ張り出した。黒いフルフェイスのヘルメットに防風性のグローブを嵌める。


 エンジンを掛けると、乾いた咆哮が木霊した。シートから感じる拍動は、まるで大型肉食獣に跨っているようだった。


 目的地を頭の中で思い浮かべる。

 金髪の優男が目撃されたのは、ニューヨーク、マンハッタン。お使いを頼まれた駅も近い。一度で二つの仕事が済んで金が手に入るなら、神様に感謝したって良い。


 退屈な夜の一本道を流星のように駆けて行く。

 鈍間な車のテールランプが目障りだった。ギアを踏み換え加速すると、見えない掌が正面から押して来るかのような重量が掛かった。


 何処か遠くで悲鳴のようなクラクションと、改造車のバックファイアが聞こえる。長距離運転の大型トラックが下品な音楽を爆音で流し、荒れたアスファルトを延々と走って行く。LEDの派手な装飾は漁火に似ていた。


 他人に歩調を合わせるなんて時間の浪費だ。

 アイナは一気に加速するとトラックの横を擦り抜け、その眼前に躍り出た。運転手が狂った豚のようにクラクションを鳴らし、罵声を撒き散らす。アイナはサイドミラー越しに、紅潮する男を眺め、思い切りアクセルを回した。


 今頃、何処かで銃弾の雨が降り注ぎ、子供の臓器が抜き取られ、純度の低い麻薬が売り払われている。だが、そんなことはもう、アイナにとっては遠い日の幻だった。


 自分は這い上がった。

 それが全ての答えだ。天上から降りた蜘蛛の糸が千切れないように、奪われないように奴等を出し抜いてやっただけだ。


 それが罪だと言うのならば、人間は失敗作だったと言うことだ。この世には、ノアもアブラハムもいなかった。皆、死んだ。ただ、それだけのこと。


 追走しようとするトラックを置き去りに、アイナは走り続けた。春の夜風は冷たく、隙間風は身を切るようだった。


 自分は目的地へ向かっているのか?

 それとも、過去から逃げているのか?

 アイナにはもう分からなかった。バイクから響く振動と排気音が、アイナの世界の全てだった。

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