3 わたしの処遇 2
◇◇
セハスはドアの前から動けないでいた。さっき自分はユンナを女神と仰いだが、今、自分の目の前に天使がいた。いや、目の前というのは間違いだ。なぜなら天使は迎賓用の食堂ではなくアフタヌーン用の小さな食堂の奥の壁に沿うように立っていたからだ。距離としては近くはないが、その白い肌にはっきりとした大きな黒目は猫ように少しきつめだが、小さな唇と困ったような八の字の黒い眉毛は幼さを隠し切れ無い愛らしさがある。黒い髪はこの世界の女性には一般的とは言えない、しかし、芝居小屋で最近見る顎の長さに合わせて切る短い髪型になっている。いや、いや・・・芝居小屋の女優のような不健康な色気など皆無である。さらさらと艶やかなそれと直ぐわかる手入れのされたその髪は、天使の立つ壁横の窓から漏れる春の光を浴びてキラキラと輝いて見える。
セハスは幼い頃今は亡き母に読んで貰った寓話の中でも、特に好きでそれで文字を覚えたほど繰り返し自分でも読んだ『天使さまと大きな犬』の天使さまのようだとその場で膝を折りそうになってしまった。
執事セハス40歳を前にして妻以外の女性に膝を折るという取り返しのつかない裏切りをブチカマス所だった。『時を跨ぐ者』なんと恐ろしい!
「お初にお目にかかります。私はこのカザブス領ヴィサワーゴ公爵邸の執事セハスで御座います。『時を跨ぐ者』様におかれましては、我が主とお会いになる前に是非ともお願い申し上げたいことが御座いますれば、主を差し置いてこの様な粗末な場での謁見となりましたことご容赦願いたく思います。申し訳ございません」
セハスに続き一斉にメイドが頭を下げる。
それはドラマか何かのように恭しくという表現で表されるような一糸乱れることのない美しいものだった。しかし、ハルはそれすらも恐ろしく、一層壁に体を埋めるかのように小さくなってしまった。
「突然この様なことになり戸惑いも如何ばかりかと御察し申し上げます。『時を跨ぐ者』様におかれましては、突然世界を跨ぐことになってしまったわけで御座いますが、我がカザブス領地に置きましてはこの上もない栄誉で御座いますれば、何とぞお心安らかに御過ごしいただければ、この屋敷のもの一同」
「あ、あの……」
話の途中で遮るのは失礼かと思ったが、聞き慣れない謙譲語の羅列にハルは弱々しく手を挙げた。
「はい。何かご不明な点が御座いましたらなんなりと」
この言葉は全くもって上座に対しての言葉ではなかったが、声が震えていなかったことだけでも自分にとって満点が出せたと思うほどセハスは高揚していた。泉の底から湧く小さな泡のような、若しくは青い空を飛ぶ小鳥のような・・・目の前の天使の声はこの世界のどの女性も違っていた。そこまで天使の棲む世界と我々常人の世界は違うのか? きっと一つ一つのからだの作りまで違うのかもしれない。セハスは思わず前屈みに手を自分の胸に当て「偉大なる精霊に今日の出会いを感謝いたします」と呟いてしまった。あまりに声量豊かだったためそこに居た皆が知るところとなった。いつもは多少なりとも敬意をもって接してくれているメイドたちの目が、瞬間半目になってしまったことの反省会は後日にしようーーセハスは自分の軽率さに耳が熱くなった。
「疑問だらけですみません。状況がよく飲み込めていません」
「はい、其につきましては僭越ながらわたくしから説明させていただきます」
先程までハルから一番近い位置で控えていたメイド頭のリサが一歩前へ出て頭を垂れて挨拶する。
「この館のメイド頭を務めさせていただいております、リサと申します。以後よろしくお願い致します。」
リサの話しはとても直接的で分かりやすいものだった。
「『時を跨ぐ者』とは、異世界からこちらへ来たものを総じてそう呼んでいる」
「『時を跨ぐ者』に対して何人も危害を加えることはできないので安心して欲しい」
「『時を跨ぐ者』の生活の一切はこの国が保障するが、出来れば今暫くこの領に滞在して欲しい」
リサの説明は大まかにういうことだったが、最後に、という事でとても言い難そうに言葉を繋げた『お願い』にハルはクスリと笑ってしまった。
「申し上げにくいことなのですが、旦那様は女性恐怖症と言いますか、酷い仕打ちを幾度となく女性の方にされたせいで女性に対して嫌悪感を持っておられます。そこで……『時を跨ぐ者』様には暫く少年として御過ごしいただければと……」
「男の子としてですか? あの、寧ろ此方の御当主様がそこまで女性に対して嫌悪感をお持ちであれば、私は別の場所へ移った方がいいのかな、なんて思うのですが?」
「いえいえ、それはなりません。どうかこの領に御滞在下さい‼ そうしていただかなければ困るのです。お恥ずかしい話、これは云わば貴族の誇示いうとても俗世的なものが絡んで参ることなので……『時を跨ぐ者』様にはなんと申して良いのやら……」
詰まるところセハスのいう誇示とは、そちらの領に来た『時を跨ぐ者』の世話が出来なくて他領に引き渡した、と聞こえては貴族社会で見下されてしまう、ということらしい。
その話を聞き終わる頃には、最初の頃よりは落ち着いてきたハルはつい、そうこれは『つい』と言ってしまうくらい浅はかなことだったが、他がここより良いという保障も無いという思いと、母の墓前であったはずの場所からこの世界へ転移してきたのであれば、ここから離れてしまうことで元の世界へ戻れる可能性が低くなってしまうのではないかという不安、それが『つい』そういった言葉を口にしてしまった。
「分かりました。わたしの名はハル。少年という事でお世話になります。よろしくお願いします」
ハルは壁から離れ、立ち並ぶメイドたちに頭を下げた。
この世界で暫くお世話になるとしても、日本人として教えられた礼儀は間違いの無いものだと信じているので、ここはきっちりケジメます。
かくしてハルは時代背景の曖昧なお城で、『時を跨いで来た少年ハル』として生活することになったのでした。
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