第十話
理不尽な罵倒に肩を震わせながら掌を強く握りしめる。握りしめた手は冷たく、硬直してうまく広げることができなくなっていた。
そんな僕の様子など知ったことではないという表情で言葉を繋ぐ。
「まぁ語源はその鏡でしょうね。あんた、無限鏡って知ってる?」
「まあ、何となくはね。これでも超常現象研究部の部長ですし」
無限鏡。たしか合わせ鏡をする事で両側に無限の鏡が映し出されること。だったと思うけど。まぁ正確には無限に続いているわけではないんだけど。
合わせ鏡を作って呪文を唱えると悪魔を召喚できるとか、過去、未来が見えるとか、自分の死に際の顔がどこかに写っているとか、異世界への道が開かれるなんていう都市伝説を随分昔に大量に見た覚えがある。ネタが古すぎてブログで取り扱ったことはないけど、以前部活でも鏡を使って実際にやったことがある。
もちろん異世界への道が開かれたりはしないけど。
「その無限鏡がどうしたのさ」
ため息を吐き、めんどくさそうに続ける。
「この世界は、無限鏡のごとく無数のパラレルワールドが存在するの。文字通り無限にね。それらをまとめて鏡界って私たちは呼んでる。まぁ、わかりやすく言えば多元宇宙論よ」
「パラレルワールドって、まさか本気で言ってるの? 草も生えないわけだが。あ、もしかしてオカルト板に感化されちゃった系ねらーとか?」
「誰がねらーよ!」
フォルテの叫びにもそろそろ慣れてきて、右から左に聞き流せるようになってくる。
伸ばしていた足を引き寄せてあぐらをかく。そろそろ体が冷えてきていた。制服の薄い装甲ではこの時期の夜風は些か心許ない。
「そもそも、異世界があるっていうなら証明して見せてよ。証拠もなしにパラレルワールドとか言われても世迷言にしか聞こえないって」
僕の言葉にフォルテは首を傾げ、言う。
「証拠なら自分の目でみてきたじゃない。あんた、アイラの部屋に上がったんでしょ? それこそ何よりの証拠じゃない」
「は?」
「ぁん?」
僕の疑問形の一音は厳つくなって返される。
たしかに今現在地下へ降りる階段は存在していない。まるでこの世界から地下の部屋が消えて閉まったかのような現状だが、よりにもよってあの空間が異世界? 僕にはこの世界と変わらないように見えたけど。
「ねえ、あたしが何する存在か知ってる?」
呆れたような顔で僕をみる。いや、呆れてるのは僕の方だよ。
「だから知らないから教えてって言ってるんじゃん……人の話を聞けよ……」
遠回り遠回りを繰り返して出てきた言葉がそれっていくらなんでも酷すぎる。
フォルテも、あっと言う間抜けそうな顔をする。
「そうだったわね」
頭を押さえて俯きながら呟く。そうしたいのは僕の方なんだけど。
コホンと一つ咳払いをして視線を向け直す。
「あたしこそ、観測不可能な鏡界を観測するためのアプリ? なのよ! どうよ!」
腕を組み、鼻を高くして自慢げに話す彼女の姿を見て、僕は芝生背を預け、夜空を仰いだ。
「ちょっと、また無視するんじゃないでしょうね」
「あー……うん」
満点の星空なんてものは存在しないただただ暗い空には、幾つかの衛星の光だけが輝いていた。
あぁ、どうしてこうなってしまったんだろ。
「というかなんで疑問形なのさ」
夜空に視線を向けたままフォルテに問う。
「いや、あたしはあたしとして存在しているから、アプリって言われるとちょっと違和感があるっていうかなんというか?」
ああ、つまり高度すぎるAIが自分を本当の人間と思い込んでいるみたいな展開ですねわかります。どこのSF映画だよ。使い古された鉄板ネタって感じ。
「芝生に寝転んだりして何してるのよー。ほんとにあたしを無視するつもり? 許さないわよそんなの」
僕の視界の外でフォルテがぼやいているのが聞こえる。
Mirageにはミュート機能というものが存在しない。アプリを切るか、腕から外すか、Mirageそのものの電源を切る以外でそれから発される音をシャットアウトすることはできないのだ。
せめてもの救いはウィンドウの視界追従機能のオンオフをアプリごとに切り替えれることだろう。お陰で胡散臭くて痛々しい二色ずりのロリを視界から追いやることができる。
「思考整理中。――ねえフォルテ。今その、もう一回さっきの異世界? に行くことは可能なわけ?」
「ん? ええ、もちろん可能だけど。流石にアイラの許可なしに家に入るのはどうかと思うわ。あんたが入った部屋が家だとすれば、周りの空間は庭みたいなものよ」
代々木公園は絶対彼女の庭ではない。僕でもわかる。
まぁ異世界というなら全ての常識が通じないのかもしれない。
「まあ家に入らないっていうならいいんじゃない? やったげよっか?」
「良いのかよ。そんな軽いノリで」
あまりの楽観的な基準に思わず起き上がり突っ込んでしまう。
僕が忠告を無視して家の中に入ったりするなんてことは考えないのだろうか。まぁそんなことをするつもりは毛頭ないが。だって部屋の中はさっきも確認してるわけだしね。
どうしようかと考えるように夜空を眺めながら腕を組み、唸る。
興味はあるが、それ以上に胡散臭さが強い。
この自称AIのフォルテだって実際は別の場所でアクターがいるエセAIの可能性が強いわけで、こいつの提案に乗ってしまったが最後、脳の隅々までスキャンされて様々な情報を引き抜かれる可能性だってある。まぁとられて困る情報なんて持ってないけど。
だんだんと上を向いているのも疲れてきたので顔を下向け、組んでいた腕を崩し膝に着く。
「うん。うんいいや。今日はもう遅いし、何より流石に勝手に人の家を覗くのは気が引ける」
あくまでそういうことにして、ゆっくりと立ち上がる。
「そう。まあ懸命な判断だと思うわ。流石に今の提案を受けてはい行きますーなんていう人間を信用できないし」
僕を試したってこと? なんか尺に触るな。
ズボンについた草をはたき落として時間を確認する。
「八時か……そろそろ帰らないと遥がうるさそうだけど……この時間電車こむんだよな……数駅とはいえ満員電車は気が滅入るよ」
魔の悪さにガクッと肩を落とす。
「あ、ねえフォルテ。異世界に行けるような機能があるなら空間と空間を繋げて家まで帰れるような機能とかないかな?」
そう。人類のロマン。どこにでもつながるドアってやつ。
しかし声を掛けた先にフォルテの姿はなく、僕の間抜けな問いかけだけが残された。虚しい。
代わりにメッセージウィンドウが表示されている。やたら主張してくるウィンドウに書かれている文字はと言えば――。
【やることがあるので裏に下がります。御用の際はウィンドウ右上のベルボタンをタップしてください。※反応するとはかぎりません】
というなんとも自分勝手な内容だった。
「あ、あの二色ロリ……αちゃんねるしに下がりやがったな。糞ねらーめ」
つまりこのアプリを起動したからと言って彼女が常にいるわけじゃない上に、呼び出しボタンも飾りと化しているというわけだ。糞アプリにも程がある。
表示されたメッセージウィンドウを閉じると、次のウィンドウが表示された。
【このアプリを終了させることとは推奨されません。常にバックグラウンドにて起動状態を維持してください】
「やたら命令の多いアプリだな」
そうは言いつつも、あのIronRabbit氏から渡されたアプリだ。無下にはできない。
「わかったわかりましたよ。起動しておけばいいんでしょ。バッテリー的に少し負荷がかかるけど指示に従いますよ」
独り言を呟きながら宙に浮いた黒塗りのウィンドウを五本の指で長押しすると、霧が晴れるようなフワッとしたモーションでウィンドウが消える。
そろそろ本当に帰ろう。夜の渋谷なんかに長居はごめんだからね。
不意に吹いた強い風に、思わず体を震わせる。謎のAIとの遭遇という非現実のお陰で今まで気にならなかったが、体は正直なようだ。
駅へと足を進めつつ、帰りの連絡を入れようとメッセージアプリを開くと、大量のスタンプが遥から送られてきていたことに気づく。
地下に居た時はMirageが繋がらなかったから届かなかったのだろう。
「うわぁ……これはまぁ、すごい量で」
悴んで思うように動かない指先でMirageを操作して遥にメッセージを送る。
即座に既読が付き、ヘンテコな兎のキャラクターが親指を立てて「OK」と文字が入ったスタンプが送られてきた。
ここ数年で爆発的に人気となったアニメ「NOAH—unlimited—」のマスコットキャラクターだ。アニメ原作の中でも異例のヒットを記録しており、映画化、コミカライズ、ノベライズもされており、現在ゲームが開発中だとか。
現在はアニメも三期目に突入して、絶賛放送中――。
「あぁ! 今日じゃん放送日! 疲れたからさっさと寝てしまおうと思ってたのにこれは起きておかないと」
ネットが世代問わず普及したこの時代、どう頑張ってもネタバレを回避するのは難しい。うっかり重大なネタバレを踏んでしまったらと思うと、リアルタイムで見る以外の選択肢がないのだ。アニメ原作なんて特に。
αちゃんやTwitterではリアルタイム実況なんて文化もあるし、ネタバレの嵐。勿論実況系タグは全てミュートしてあるが、タグ付けしないで実況する輩もいるのが事実。
思い出させてくれた遥に――というよりこのスタンプに感謝だ。
「普段返信遅いくせに、こう言う時だけ即レスよな」
帰りの連絡が遅くなってしまい、通知を待ち続けている遥を想像して思わず苦笑する。
そうこうしているうちに駅に着いた。予想通り、駅は混み合っている。
時間を確認すると、次の電車まであと二分ほど。
「ジャストタイミングってやつだ」
僕は鞄からICカードを取り出し――
「あ……」
改札を通ろうと歩みを進めると、耳障りな電子音が響く。
次に改札機が赤く光った。残金不足だ。
「これは、電車が行ってしまうパターンだな。わかる」
何より音に反応しての注目、後ろが詰まる申し訳なさに耐えられないので、僕は俯き足早に券売機へと向かった。




