第六話
―都内某所―
「我々の今観測しているこの世界は、量子によって構成されています。そしてそれらは粒子と波動の二重性を持ち合わせていることはご存知でしょう」
暗闇の中、一人の男が口を開いだ。
「観測された量子は波動から粒子へと変質し、質量を持った物質となります。これを量子化といい、我々は常にこの量子化された世界を観測しています。この場に波動状態の世界を観測したことがある方がもしいらっしゃるなら、ぜひ我々の研究にご協力いただきたい。何、少し頭を開くだけです。たったそれだけで、きっと貴方様は神となれるでしょう。いえ、神すらも、その先に到達しているのかは怪しいですがね」
男は苦笑する。
背後に用意されていた大型のモニタに図が表示された。
「話がそれました。では、我々はどのようにして全人類で同じ世界を共有しているのでしょう。観測した波動が粒子に変わるのだとすれば、観測することのできていない波動もまた、存在するかもしれませんし、一定の人間にしか観測できていないものもあるかもしれない。私が観測できている波動が仮に波動Aから波動Eまでだとしましょう。そしてそこの貴方。貴方が観測できている波動が、波動Cから波動Gだったとして、それを我々は証明することができないのです。違いは微々たるものですし、その人にとってはそれが当たり前の世界として生まれた時からすごしているのですから。ちなみに我々はこれらの波動誤差をキョウカイのエラーと呼んでいます」
「そんな話はよい。本題に入りなさい。我々の時間は安くはないんだ」
小太りの中年の声が響く。
不快そうな男の表情は闇が隠す。そのための暗闇を用意した。
愚かな人間に何を言われようが男の心は微動だにしない。
「失礼。単刀直入に言いましょう。この世界には我々が普段観測できていない波動のパターンというものが無数に存在していることが分かっています。そして決して我々はそれらの波動を観測することはできません。我々の観測する波動のパターンは、常に一定となるよう個々の脳により制御されているのです。」
「つまり?」
一定のリズムで机を叩きながら聞き返す。
「普段観測することのない波動のパターンを、もし我々が観測することができたとするならば、それは並行世界、異世界と呼ばれるような、こことは別の世界が広がっている。ということです。それは質量保存の法則にすらとらわれない、量子の世界のその先。神の領域と言えるでしょう。我々は遠くない未来の資源枯渇問題を回避するための手段として、その神の領域の奪取が必要だと考えております」
場が静まり返る。それでもなお、男は口を閉ざさない。
「私達の今観測している世界をα世界として、数値として大きくずれた世界を、順にβ、γ、δ……と続けて行き、小さいながらも別の世界として存在している世界をα1、α2……と称しています」
馬鹿げていると、そう言いたげに顔を顰めているお偉方が男を見下ろす。
致し方ないことだと、男はうつむき、口を歪ませた。常人には到底理解できるはずもない。
最初から理解されるとも思っていなかった。それでも、彼らがこの事実を知ることが重要なのだ。
たとえ理解されなかったとしても、男にとっては些細なことだった。
「我々はこの世界の外側を鏡の世界。鏡界と、そう呼んでいます。長くなってしまいましたが、今日はこの辺りとしましょう。また、もし機会があれば是非。私はいつでも資金援助の申し出を歓迎しますよ。我々人類の未来の為に」
そう言い残すと、男は返事を聞かずその場を後にした。
――既に実験は十年以上前に成功を収めているのですよ。
小さく呟いたその言葉は、誰にも届くことはない。
外に出ると、空から落ちる大粒の滴が地面を激しく打ち鳴らしている。
耳に入るのは雨音のみ。
Mirageをタップすると、小さなく空間が振動した。
否、振動したのは空間ではなく――
「これはまさに最高傑作です。Mirageはいずれ世界を変えてくれることでしょう」
先日の実験も、若干のトラブルがあったものの成功を収めた。今、研究は軌道に乗っていると言っても過言ではないだろう。
「後は被験体〇〇三がどこまで働いてくれるかだが、まぁいずれ気は熟す。この調子で進めば年末が山場になるだろうな」
建物から傘もささずに出た男は、しかし雨に濡れることなく、忽然と姿を消した。




