第二話
目を覚ますと、僕は見慣れない天井を眺めながら、知らないベッドに横たわっていた。
病院だ。新宿にある総合病院。何度かお世話になったことがある。見慣れないと思ったのはもう長いこと来てないからだろう。
僕が来る病院といえばそこだけだ。確認は取れないが、きっと違いない。
震災後、つまり今の僕の最初の記憶はこの病院のベッドから始まっている。
「さっきの夢はなんだったんだろう。やけにリアルに感じたけど」
詳細は思い出せないが、酷い孤独感だけは鮮明に覚えている。
思い出すだけで鬱になってしまいそうな程のインパクトがあった。僕はそれを体験したことがあるのだろうか。
残念ながら、今の僕にはわからない。
こういう時、やはり昔の記憶がないのは寂しく思う。良いことにせよ悪いことにせよ、その全てが自分という存在を構成するパーツなのだ。一つでもかければ、僕は僕じゃない。
「まあ、今の僕という存在が昔の記憶を取り戻した時点で、僕も僕じゃない誰かになってしまうんだけど……考えてもしょうがない。少なくとも僕の過去に明るい話があったようには思えないしね。なら今が全てだと思ったほうがいい」
誰でもない自分に言い聞かせる。
「人体実験とか、親がカルト的な何かで過酷な生活をしていたとか、人身売買されたとか……やめよう。考えると心が折れそう」
事実、僕が夢に見たりする記憶は全て暗い内容だ。一つとして、明るい記憶と思われる夢を見た試しがない。
「いや、一つだけあったかな」
詳細は覚えていないが、心が安らかになる夢を見たことがある。僕が小学生高学年ぐらいの年齢の夢で、僕は誰かと公園のブランコに座りながら話してる。
多分女の子で、確か――うさ耳っ子。
どう考えたって現実じゃない話だが、僕は確かにその夢を見た時、懐かしく思った。
「まあ、それが夢なのか記憶なのかを確かめる手段すら、僕にはないけどさ」
自分でも声のトーンが落ちていくのがわかった。
こういう時、遥なら――。
そう思い部屋を見渡すと、ベッドの横で椅子に座りながら、壁に背を預けて寝ている遥の姿が目にとまる。多分、ここに運ばれた僕をずっと見ていたのだろう。
静かな寝息が心地よい。
その姿を見て、気持ちが落ち着いていくのがわかる。相変わらず僕は助けられてばかりだな。
「そういえばどうして僕ここにいたんだろ」
目が覚めてから意図的に避けてきた疑問をついに声に出す。これ以上余計なことを考えているとまた気持ちが沈みそうだったから。
白みがかった記憶を漁り、ここに至るまでの経緯を必死に思い出す。
無意識に僕の指先が喉元へと伸びた。直後全身に鳥肌が立つ
起きたばかりでまだ暖かい皮膚に指を這わせながら強く握りこぶしを作る。
「あ、あぁ……僕……」
あの時、変な少年に首を切り飛ばされて、それで。
死んだんじゃ……。
思い出すと体が震えてくる。全身の毛が逆立つような感覚に、僕は自身の身体を強く抱く。
パニックになりそうなのを必死に抑える。
「ゆ、夢? というか夢だよな僕いきてるし」
体全体を動かして自分の生を確認する。
声も出る、息もしてる。なんなら少しお腹も空いてるし、喉も乾いた。病院の硬いベッドで寝てたせいが体も痛い。
うん。僕は生きてる。よし。
まぁこれが幽霊だっていうなら恐怖を通り越して好奇心でもう一度死ねるまであるけど。幸いここは病院だから、万が一の時も安心ってね。
それともゾンビ? 実は首から頭がすぽっと抜けるとか無いよな。そんなB級映画みたいな展開――ねぇ?
無いとは思いつつも、恐る恐る頭を引っ張ってみる。しかし取れる気配もなければ縫われた後もない。
よかった。あれは完全に夢だったんだ。よくできた夢。
僕は眉間を指先でほぐしながらゆっくりとベッドから足を床に下ろす。冬場の地面が僕の足の裏を冷やしてくれる。熱った体にはちょうどいい。
「日頃のハードワークに身体が耐えられなくなって倒れたとかかな」
まあ、僕はハードワークと言えるようなことは何一つしてないけど。
やることといえば、学校と家の往復、ブログの更新。ニュースの確認ぐらい。後はアニメ鑑賞とネトゲを少々。たまに現地調査とかもするけど。重い機材を持ち歩いたりするわけでもなし。一眼レフカメラを持ち歩くことが稀にあるぐらいだ。
そういえば最近ネトゲ仲間でよく一緒にプレイしていた“ホーク”の姿を見た覚えがないな。Twitterにすら浮上してきていない。年齢も僕と変わらないぐらいだったはずだし、今回の集団失踪事件に巻き込まれたりしていなければ良いけど。
人の心配ができるいい人間なんかじゃない。自分の心配より他人の心配をしている方が気が楽になることってあるよね。それだよ。
「さて、と」
立ち上り窓際まで歩みを進める。
月明かりを適度に遮るカーテンを静かに開けた。
やはり行きつけの病院で間違いなさそうだ。見慣れた建物が見える。近くには電車が通っているが、今はもう終電後なのか、明かりは灯っていない。
「ふう。まあ、ここかどこかさえわかればとりあえず――」
安心しかけていた僕は、見た。
空に走る、無数の亀裂を。
「雷……?」
口に出しては見たものの、そうでないことは明らかだった。
その亀裂はゆっくりと、じわじわと空という空間を割り進める。まるでガラスに入ったヒビのように広がっていった。
僕たちの空が割れた。
その亀裂から、僕を見る大量の瞳が見える。この世ならざるものの視線を感じる。
「な、なっななに」
何がなんだかわからず、僕は目をこすり、もう一度空を見上げる。
「あれ?」
そこには、静かに星が瞬いている。まるで何事もなかったかのように。
僕はもう一度強く目を閉じてこすり空を見上げるが、やはりそこには何も変わらない静かな夜空が広がっているだけ。
「疲れてるのかな……疲れてるんだろうな」
空が割れるなんて、そんな事あるわけないじゃないか。常識的に考えて。
空はハリボテじゃない。その先には無限の世界が広がっている。それが割れるなんてそんな馬鹿げたことがあるはずがない。
きっと和人にでも聞いたB級ホラーかSF映画なんかが頭をよぎったのだろう。
非現実的な妄想だ。
都内にしては珍しく沢山の星が見えていたので、それを無数の瞳だと錯覚したのだ。きっと。
まったく人騒がせな夜空だよ。
遥は深く眠っているようで、僕がこんな馬鹿げた妄想をしていても起きる様子はない。
安心したら急に尿意がこみ上げてくる。
遥が目を覚さないように、僕はトイレに向かうために静かにスライドドアを開け、廊下に出た。
深夜ということもあり、とても暗い空間が広がっている。非常灯だけが緑色の光で控えめに主張をしている夜の病院は、ひどく冷たく感じた。気温もそうだが、空気感が。
緑に照らされた廊下はどことなく不気味に感じられる。
「ゆ、幽霊とかいないし。あ、でも僕が幽霊の可能性? いやいや」
消えそうな声でつぶやいたつもりだが、静かな病院では僕の耳には響いて聞こえて、とっさに口を抑える。
廊下に出てもほとんど音が耳に入ってこない。病院ってそんなに静かなんだなと思いながらしばらく歩いていると時計が目に入った。時間は二時を回ってしまっている。
僕の記憶と感覚がただしければ、最後の記憶は十九時頃だったと思う。Mirageが機能していなかったおかげで正確に確認できてはいないけど。
つまり七時間前後意識を失っていたことになる。
「おっかねぇ……」
七時間も目を覚まさなかったら不安のレベルが跳ね上がりそうだ。
遥も相当心労が酷かっただろう。
「今度謝っとかないとな。あぁ、一緒に例の喫茶店にでも行ってご馳走してあげるかな。コーヒーはあんま好きじゃないって言ってたけど、ケーキなら喜ぶでしょ」
そんなことを考えながらトイレを済ませ部屋へと戻っていると、ドタドタと慌ただしい音が前方から聞こえてきた。
静かな病院の廊下によく響いていて、一瞬心臓が跳ね上がる。当然だ。その音は僕の方へと一直線に向かってきているのだから。
「こ、ここは現実。現実の病院はオカルトチックなことは起こらないって、きっとナースコールでもどこかで押されたんでしょ――――って、え……」
僕がその正体を認識するのと、衝突するのはほぼ同時の出来事。
水にダイブするようなスピードで僕の身体に飛びかかる。
「おわ⁉︎」
柔らかな感覚が僕を包む。
ぶつかった拍子に体制を崩してそのまま今度は固い地面へと崩れ落ちた。
服が少しずれて僕の脇腹にしっかりめに冷えた床が触れ、思わず叫びそうになるのを必死に抑える。冷たい‼︎
「キョーヤーーーー‼︎探したよ‼︎」
暴走列車の正体。遥に抱きつかれて放心状態になっている僕を他所に、彼女は止まることなく口を開く。
「もうほんとあせったよちょっと寝落ちちゃって起きたらキョーヤがいなくなってたんだもん最近失踪事件もあったじゃん? キョーヤに何かあったらもう私――――この先一生寝られなさそうだったんだからね!」
すごい勢いで詰め寄られる。普段ののほほんとした雰囲気は消え、必死さが伺えた。
よく見ると瞳には涙を溜め、身体は震えている。よっぽど不安だったのだろう。やっぱり一声かけてから出るべきだったかも。
僕は未だあうあう言っている遥の背中をさすりつつ口を開く。
「ご、ごめんて。よく寝てたから起こすのも悪いと思って。というか院内は静かに……もう夜中だし、誰かが出てきたらめんどくさいでしょ。あとまくしたてないで」
遥を引き剥がすと僕は打ち付けた腰をさすりながら立ち上がる。結構強く打ち付けたらしく、今尚鈍い痛みが残っていた。
これが一番の怪我かもしれないなと思うのと同時に、第三者からの痛みの情報を受けたことにより、僕が生きているという確証が得られた。なにより遥が僕を認識してくれてるそれこそが、行きている証拠だ。
叩いたり回したりして腰を動かしていると、ようやく遥かも立ち上がった。
「体バキバキじゃん。すごい音」
潤んだ声を誤魔化すようにおどけた調子で言う。
「それな。もう全身バキバキなんだよ。便利なネット社会の代償ってやつ」
「何それ。適当な事ばっか言ってさ」
徐々にいつもの調子を取り戻してくれたところで一息つく。
「でキョーヤ、ここで何してたの?」
鼻をすすりつつ、改めてキョトンとした表情で僕の顔を覗き込む。
僕は頬をかきながら一言。
「あ、あー……トイレだけど」
そう伝えた。




