9.群青の港町2
潮の匂いが強くなる。
少し遠くでうみねこが鳴いていた。
山影から徐々に広がっていく青い海と沿岸に作られた船着き場と港町――。
「あれが……ルグレイ」
想像していたよりは規模が小さいが、栄えている様子は遠目からでも窺い知れる。
海側は王都から距離がある。ルグレイ以外にも港は幾つかあるらしいが、街として発展したのはここが一番だとリンドは聞いていた。
「ああ。……だが、何か妙だな」
「?」
いきなりクロノは不審を口にする。同じくして、少し前方にいたエドが首だけ振り返った。
「クロノ、見えるか」
「ここからではどうも判然としないが……火と、煙か?」
(え? 火事?)
目を凝らすとリンドにも見えた。
どうやら停泊している船から出火している……のではないだろうか。
「何だ? 港で何かあったのか……我々の探索とは無関係、と思うが、先を急ごう、エド」
「ああ」
「それがいいな。確かに穏やかじゃねぇ」
クロノが促し、エドが頷く。並走するルードルフも馬の横腹を蹴った。
「舌を噛まないよう口を閉じていろ、リンド」
「……仕方ない。そういうことなら手伝ってあげてもいいですよ。もちろん別料金ですけどね」
言うなり、返事も待たずにリンドは右腕を上げる。空に向けて掌を広げれば、たちまち白い煙が空を駆けた。
白煙はくるりと宙を一周すると、巨大な姿で地上に下りてきた。それは馬の頭身のゆうに二十倍はある、蛇の尾を持つ亀だった。
「へえ、こりゃあ珍しい……地の属性の幻獣かよ。他の属性に比べると大きいものが多いとは聞くが、本当のようだな」
馬を引き返してしばし魅入っていたルードルフが言い当てる。さすが研究者なだけあって、幻獣に対する造詣は深い。
「お嬢ちゃん、無理すんなよ。地属性は召喚も制御も難しいんじゃねぇのか?」
「まあ、多少は。なので、早めに背に乗ってください。馬ごとで構いません」
「背に?」
リンドが促すと、まずは躊躇もなくルードルフが馬を進めた。続いてエド、そしてクロノが微妙な表情で幻獣の背に上った。
「では」
宙から下ろされるリンドの腕に合わせて、亀に似た幻獣がゆっくりと首をもたげた。ずずっと僅かに地揺れが起こる。
それは――瞬きをする短い時間の出来事だった。馬の足元はいつの間にか、群青の海に続く砂浜に変わっていた。
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「ありがたいと思うべきか、出し惜しみと責めるべきか悩むなあ」
「失礼ですね」
幻獣の力で一瞬のうちに長距離移動をしてみせたリンドだったが、クロノからすれば、何故こんな便利な手段を最初から使わなかったのかと不満があるらしい。
業腹である。リンドは当然反論する。
「いくらなんでも見たことも行ったこともない土地では無理ですよ。遠目でも視認できたから可能だったんです」
「まあ、君がかなり優秀とわかって嬉しいよ」
「クロノ、無駄口を叩いていないで行くぞ」
エドの一声で一行は砂浜から少し先にある港へ視線を向けた。遠くに見えた火の正体が知れる。
貨物船が一艘、激しく燃え上がっていた。
(うわあ、結構火勢強くない?)
「近づくの、危険じゃないですか?」
リンドはちらりと振り返ってクロノに確認する。位置的にはこちらが火元より風下のため、鎮静化を待った方がいいように思えた。
「土地柄、水の属性の幻獣の扱いが得意な召喚士も多いと思うぜ? 見たところ、もう消火は始まっているみたいじゃねぇか」
「クロノ、住民の様子も気になる。混乱が起きているのではないか?」
「……少し迂回して街に入ろう。人が避難して集まるとしたら、中央広場だろう」
ルードルフとエドの意見も受け、クロノが方針を定めた。船の様子も出火の原因も気になるが、情報を仕入れるのであれば住民に尋ねるしかない。
四人は馬から下りて砂浜を進む。
街に近づくにつれ、騒ぎの大きさが実感できるようになってきた。
(すっごい混乱してる……)
右往左往する人々をあちらこちらに見て、リンドは呆然とした。
浜辺に着くよう幻獣に命じたのは正解だったかもしれない。いきなり街中に移動していたら、現場は混迷を極めたに違いない。
貴族然とした騎士二名と剛毅な学者と鄙びた子どもという奇妙な組み合わせが、馬を引きながら港町を歩く。どこか場違いな雰囲気の来訪者たちが歩いていても、周囲は誰も気にしてはいないように思えた。
もともと港には異国の者も商人も多くいる。それが目当ての貴族や富裕層の客も少なくないのだろう。
特に見咎められることもなく、一行は中央広場に着いた。広場は港から避難して来た者たちがルグレイの憲兵に誘導されて集まっており、野次馬も含めて人混みを作っていた。
「人が多過ぎです……」
「はぐれるなよ、リンド」
「それよりも馬を盗まれないよう注意した方がいいですよ。あとスリも」
身長の低いリンドは埋もれそうになりながらも、クロノに注意を喚起した。
裕福な貴族であるクロノやエドは、機会があれば犯罪も厭わない末端など想像できないに違いない。土地に慣れていなさそうな金持ちがうろうろしていたら、常時であっても迷わず獲物と認定されるはずだ。況してや現在のような異常時は、混乱に紛れやすい。見られていないようでも恐らく品定めはされている。
その予想通り、窃盗を試みようとする輩は近くにいた。リンドは目の端に不自然な動きを捉えて、すぐに声を上げた。
「あ……クロノ様、後ろ!」
声に反応するより早く、気配を察したのかクロノは素早く避けた。
「治安悪いなあ」
「うわわッ」
クロノは器用に脚をかけて相手を転ばせる。体勢を崩して倒れ込んだのは、リンドより少し上くらいの年齢の子どもだった。
「ちっ!」
ぼさぼさ頭の少年は反射的に起き上がると、慌てて逃走を始める。
クロノは特に追わなかった。
他に仲間もいたのだろうが、蜘蛛の子を散らすように一斉に駆け出したのは、人混みの騒がしい様子や怒鳴り声から明らかだった。
「何だ何だ!?」
「きゃあッ!!」
「痛ぇな、このクソ餓鬼が!」
「またてめえらか!!」
「ガキ共を捕まえろ!」
あちこちで同様の声が上がった。
貧民層の子どもが悪さをするのは珍しくないらしく、呆れ半分の怒号が飛び交う。追い掛ける者もそれなりにいたが、殆どの子どもたちはするりと脇道を抜けて逃げ切ったようだった。
「――どけよッ!!」
クロノから逃げた少年は、仲間より遅れて前方を塞ぐ人々に向かって叫んだ。しかし生憎と人口密度の高い往来は逃亡者に厳しく、逆に立ちはだかる人の壁が退路の邪魔をしていた。
「おおっと……待ちなさい、少年」
「!?」
それどころか悪餓鬼の首根っこを押さえようとする者まで現れた。リンドは少ししゃがんで、人々の足の隙間からその光景を見た。
「おや、一方的にぶつかっておいて詫びもなしとはねぇ」
「何しやがる、てめえ、離せ!!」
(おお捕まったのか)
「……あれ?」
(あの男のひと、どこかで見たことあるような……)
暴れる少年を押さえつけた男に記憶を刺激され、リンドは小首を傾げた。見覚えがある――それもつい最近――のような気がしたのだ。
燃えるような赤い髪が鮮烈な印象を与えるその男は、クロノたちよりは若干年嵩で、ルードルフよりは幾分か若い。姿勢正しい佇まいと品の良さそうな面立ちは、庶民ではなく貴族階級であることを示唆していた。しかも男はクロノやエドと同じ騎士服を身に付けている。疑問はすぐに解けた。
(……騎士団のひとだ!!)
「セイン!」
リンドが思い至ると同時に、クロノとエドが声を揃えて赤毛の男の名を呼んだ。