8.群青の港町1
オルフェン王国は大陸の西側に位置し、国の北西は海に面している。ケムビの街から真っ直ぐ海岸線に出る道はなく、山間部をやや迂回する必要がある。だが距離的にはさほど遠くない。
海側にはいくつか港があるが、そのうちのひとつ――ルグレイは王国の重要拠点として知られる。漁港と貿易港を兼ねており、賑わう大きな港町は国内外で有名だった。
朽葉色の瞳の少女――幻獣召喚という特殊能力を持つリンドは、現在そこに向かっている。
もちろん本意ではない。単身でもない。例のお偉い騎士様――クロノとエドに無理矢理連れて来られただけだ。知己のルードルフも同行していた。
「……ええっとですね、何故に私がクロノ様の馬に乗せられているんですかね?」
「リンドはひとりじゃ乗れないだろう?」
「だからって、なんでクロノ様と。ルードルフ先生の馬に乗せてもらうんじゃ駄目ですかね?」
「私と同乗するのが嫌なのかな?」
ずっとリンドを自分の馬に同乗させているクロノが、至近距離の背後から軽い口調で尋ね返した。
馬は傾斜をゆっくりと登っていた。先程までは結構な速度で走らせていたため、リンドの臀部にはヒリヒリとした痛みが生じている。なので、どうしても苛々を隠し切れない。
「いいえ? 私ごときがクロノ様のような御方とご一緒させていただくなんて、あまりに恐れ多いだけですよ?」
「うん、気にしないで? 君みたいな可愛いお嬢さんを乗せるなんて、とても光栄に思うよ」
(また適当言ってるよ)
慇懃無礼な返答にも、クロノはまったく怒らなかった。先日リンドを痛め付けたのもあり、嫌がられている自覚もあるのだろう。
ただ……寛大に見える騎士様は、そもそも庶民の小娘が抱く好悪などに価値を置かない立場にいる。クロノ自身が意識してるかはわからないが、多分そう思っている。だからこそリンドは彼を厭う。
何しろ、ルードルフが余計なことをほざいたとはいえ、リンドの随行を強く求めたのはクロノだ。相棒のエドは当初、危険かもしれない渦中に年端もいかない子どもを置くことには反対していた。
(目的のためなら手段を選ばないお人柄とか、巻き込まれる身からしたら面倒臭くて最悪じゃん)
つくづくクロノとは相性が悪い、とリンドは辟易する。
最初はルードルフのもとに案内するだけの予定だった。口を滑らしたリンドにも過失があろうが、まさか新たな聖女探しとやらにまでつき合わされるとは思ってもみなかった。
彼らは得体の知れない連中に狙われている。確かに召喚士がいれば、いざというとき牽制にもなるだろう。もちろんリンドの知ったことではない。
身勝手な言い分でも、騎士であり貴族であるクロノが決めたのだ。当然反論は許されなかった。
一応、その聖女候補がいるらしいルグレイの港町までならという制限は設けたが、約定がどこまで守られるか定かではない。
(爺様が死んじゃってケムビは出るつもりだったから、行き先としては丁度いいんだけどさ。さすがに貴族様の金払いは良さそうだし)
成り行きとしてはむしろ僥倖ではある。
異能持ちとはいえ、リンドの見た目は貧乏臭い十歳の小娘に過ぎない。独り旅をしていたら周囲の目には奇異に映る。世間に要らぬ不審を抱かれるのは本意ではなかった。
ある意味では渡りに船とも言える。けれど素直に喜べないのは、やはり発端となる聖女絡みのあれこれが不気味過ぎるせいだ。
歴史というより伝承の類いだが、オルフェン王国の王宮の地下には、世界を脅かす危険な魔獣が眠り続けていると伝えられる。封印を守るのは王家と異世界から渡って来るという歴代の聖女だった。
今の代の聖女――サユという名だ――は、何故か無惨にも殺害されたらしい。
犯人は未だ不明だが、離宮に幽閉されていた王太子妃――カレンなる異世界人が疑われている。聖女を騙ったというかの魔女は、三年も前から行方知れずだ。一度ケムビの街に来た以上の足取りは掴めていない。
犯人探しと同時進行で、王宮は不在となった聖女の席を埋めるべく奔走している。喪われた聖女の代わりが現れるのを期待して、わざわざ片田舎の森の中まで専門家を訪ね、手掛かりを探しに来た。
その途中で任務を負った騎士たちが襲撃されたのだから、首謀者は聖女殺しの犯人と同一、もしくは何らかの関わりがあるのか。可能性を模索するも真相は未だ知れない。
正直何もかもが、リンドの理解の範囲を越えている。
「はあ。まったく、なんで私が……新しい聖女様を探せとか言われても、意味がわかりませんよ」
「ルードルフ殿が説明した通りだろう?」
「いや、でもですね、仮にも聖女様がそんなぽんぽん降臨してたら、ありがたみも神聖さもないでしょうが。唯一無二、稀少価値だからこそ崇め奉られているんじゃないんですか」
「確かにね。最初は飽くまでも可能性の話だったんだけどなあ。私も驚いているよ」
リンドの手厳しい指摘に、さすがのクロノも同意して苦笑した。
「だが候補がいると聞いたら、会わない訳にもいかない」
「偽物かもしれませんよ。……その」
「かの魔女のように?」
言い淀んだリンドの科白を、クロノが奪う。
「もちろん考えているよ。どちらにせよ、異世界人だとしたら、何かしらの異能を有しているだろうし」
それに、とクロノは続けた。
「もし本物であれば、聖女殺しの犯人に狙われる危険があるかもしれない。そういう側面からもリンドに同行してもらったんだよ」
「……魔女を、知っているから?」
「そう」
無意識にリンドは身を強張らせた。クロノの表情を想像して身震いする。背後で見えないのをいいことに、さぞや冷たく酷薄な笑みを浮かべているに違いない。
「彼女について思い出したことがあったら、いつでも知らせてくれ。何でもいい。リンドは彼女と何を話した? 印象に残る言葉はなかった?」
「印象……」
消えた魔女の手掛かりは、今のところリンドの目撃情報のみだ。問答の回数はすでに数えるのも馬鹿馬鹿しいほど無意味に積み重なっていた。
(と言われてもなあ……あのとき何を喋ってたかなんて、どうもよく思い出せないんだよね)
思い出そうとすれば、ぼんやりとした立ち姿が脳裏に浮かんでは消える。朧げな記憶の中で、朽葉色の虚ろな瞳に映る黒髪が、すきま風に吹かれて舞っていた。
(なんて……言ったんだっけか、あのとき)
――どう……は……てしま……かったんだろう
「ああ、そうだ。どうして……プシュケーは忘れてしまわなかったんだろう、って」
「え?」
「……今のはどういう?」
脈絡もなく呟いたリンドに、クロノが訊き返す。
「え? あ、えと……」
リンドは巧く答えることができなかった。
「急に思い出して。そんなこと、言ったような」
「彼女が?」
「はい」
遠い過去をまさぐるように、リンドは空を見上げる。三年も前の出来事など遥か彼方に捨て置いていたから、きちんとは語れない。
――私の世界の神話……お伽噺でね
――プシュケーという女性は、正体不明の夫に求められて嫁いだのにも拘わらず、相手をちょっと疑っただけで拒絶されてしまうんだ
「プシュケー? 人名?」
「……さあ? 神話、とか」
「神話?」
リンドは大きく首を左右に振った。
「よく、わかりません」
――しかも夫がプシュケーを好きになったのは、そもそも手違いだったとかね、ぶっちゃけ勝手過ぎるよね
――なのにプシュケーは諦め切れず夫を追って、試練を受けて取り戻そうとするっていう愚かな話なの
薄れた記憶が徐々に蘇る。
言葉の意味は理解できても、その意図を伝えるのは難しく、リンドは頭を抱えた。
――そんな男に縋るなんて馬鹿みたい
――どうしてプシュケーは
「多分、主張はあったんです。言ってるのは例え話なんですけど。いや、皮肉っていうか」
――忘れてしまわなかったんだろう
「君は……、いや」
クロノが何かを言いかけて、不意に止める。
理由はすぐにリンドにも察せられた。
(あ……海?)
目的地――ルグレイの港町が見えてきたのだ。
誤字のご指摘ありがとうございます