33.三年後
オルフェン王国の王都ジァェルが災厄に見舞われ、前王が崩御してから約三年が経った。
即位した新王の統治下で、遷都の準備が本格化している。王宮の周辺は慌ただしさを増した。
公表された直後は民も驚きを隠せなかったが、壊れかけた街を直すより、新たに作る方に希望を感じたのか、今はもう受け入れられてる。
計画を軌道に乗せ実現に至らせるまでは、さらに年単位の月日がかかるだろう。
国のためには今が正念場だった。
「ルードルフ先生の試算だと、王都の気候は早ければ五年くらいでかなり寒冷化が進むらしいんですよ」
「聞いたよ。新都の建設は順調だけど、間に合うか心許ないな。一部機能の移転を先行できるか考えよう」
「そのことですけど、幻獣を使って、通信……遠隔地の連絡手段が作れないか、という話をしてましてね」
王とその妃の会話は、私室であっても仕事に関する内容が多い。年上の王妃は先代とは違い、大人しく溜め込むこともない。自分の意見をはっきりと主張する人柄だった。
そんな彼女の性格を、年若い王は気に入っていた。過去にはすれ違いがあり、離別していた時期さえある二人だが、今は良好な関係を築き上げている。
ただ、周囲は別の意味で心配しているらしい。
曰く「甘やかさに欠ける」と。
当人たちは普通の夫婦のつもりだが、傍から見ると仲睦まじくはあっても、男女ではなく戦友のような雰囲気なのだとか。
一度、その話を彼女にしたところ、
『はいぃ? 頭湧いてるんですか? こっちは真っ昼間から人前でイチャイチャベタベタするお国柄で育ってないんですよ。勘弁してください。仮にも公人が、嫌過ぎるでしょう』
という、本音八割照れ隠し二割(推定)の反応が返ってきたため、無理に現状を変えるようなことはしていない。
とはいえ二人きりでいるときは、たまに素直な言葉が聞きたくなるのも人情だろう。
「……そろそろ休憩にしようか」
その日は昼過ぎからずっと打ち合わせを続けていた。気がつけば二刻は経っている。重臣や官吏も入れ代わり立ち代わりで、国王夫妻が休む暇はなかった。
侍女にお茶を頼んで人払いをすると、国王は少し考えてから妻の名を呼んだ。
「――リンド」
「は……? 懐かしい呼び方ですね」
公式には出てこない名を久々に耳にして、王妃は軽く肩を竦めた。突然何なのだ、と困惑している風でもあった。
「まだ三年も経っていないよ」
「でしたか? まあバタバタしてたせいか、三年なんてあっという間ですね」
「忘れるほどじゃないだろう?」
「ええ、何なら私もクロノ様とお呼びしますよ」
「いいね。騎士時代に戻ったみたいで」
かつては王宮騎士団を率いたこともある国王は、今よりもう少し気楽だった時代を思い出す。
その頃は王妃と共に居られなかったから、戻りたい気持ちはない。ただ、まだ幼かった彼女と出会った日が輝いて見えるだけだ。
「あのとき……一介の騎士をやってたからこそ君に会えたんだと思うと、とても感慨深いよ。旅に出て良かった」
国王が笑いかけると、王妃は赤面した。
以前から彼女が夫の顔立ちを気に入っているのは知っていた。言葉の意味は不明だが、見つめる度に「このクソイケメンが!」と言って悶絶している。
「ただの偶然でしょうに」
「男はそこに運命を求めるものなんだよ」
「あー……男の浪漫ってヤツですか。きっも」
「夢がないなあ」
「女は現実的って言いますからね」
幼い少女だった時分と同じ口調で、王妃は憎まれ口を叩いた。辟易とする表情すら愛らしい。
要するに――国王は妻を溺愛していた。
「……リンド」
「いったい何なんですか……クロノ様」
二人が心を通わせたときの呼び名を敢えて口にして、国王は愛しい妻に情を示す。
「私にとっては大切な名前なんだ」
「え……と? と言われても、便宜上だったんですよ。捻りもないですし。あんまりご大層にされても、困ります」
「かもしれないが、惜しいだろう?」
「だからって別に使い途もありませんしね」
男は思い出を大事にするが、女は過去を振り返る素振りも見せない。素っ気ないことこの上ないと、国王は少し残念がった。
「使い途か。そうだね」
ふむ、と長い指を顎に滑らせて、国王は思案する。その姿すら妻の目にどう映るか、完全に計算しての仕草だった。
「やだやだ。くっそイケメンめ……」
「……たまに、君が私に靡いた真の理由を邪推してしまうんだけれど。それだとちょっと悲しいかな」
「別に顔だけじゃないですよ。見た目だけで、貴方みたいな面倒な相手を一生の伴侶には選びません」
心外だとばかりに王妃は反論した。
「月並みな意見ですが、容色なんていつかは衰えるんですから。性格だって年齢を追ってくと一層悪くなりますけどね」
「駄目じゃないか」
「全部引っくるめて、生涯付き合っていけると判断したんですよ。言わせないでください。恥ずかしい」
「ええっと……そう。嬉しいよ」
むしろ自分がこそばゆい気分になって、国王は口元を手で覆った。他人の目には甘やかでなくとも、夫婦の間に流れる空気は糖度に満ちている。
「生涯……か」
気恥ずかしさを隠すように、国王は話を広げた。
「老いてからのことなんて、まだ想像もつかないな。さすがに五十歳になったら一線からは退いていたいとは思うけど、どうかな」
「早っ。敦盛ですか。この国の平均寿命って人間五十年じゃないですよね。もう少し生きるでしょ」
「うん? 五十年じゃ老境とまではいかないかな。引退を考える時期ではあるよ。今こんな苦労をしている分、国が落ち着いたら、さっさと君と隠居生活に入りたいと言ってもバチは当たらないだろう?」
老後を語るには若過ぎる相貌が、愉しそうに笑みを刻んだ。つられて、王妃もくすりと声を漏らす。
「じゃあ気ままな隠居暮らしのために、頑張って新しい国造りをして、譲らないとですね。次代が大変な目に遭わないように」
「ああ。幸い公爵家が血を繋いでくれそうだが、我々が子を持てない分、彼らや彼らの子に重荷を負わせる。せめて最小限にしたい」
「そのことですけど、本当に良かったんですか。私の血を残せないのはしょうがないにしても、貴方は……」
「いいんだよ。君以外と添い遂げる気はないから」
「……さらっと言いますね」
国王は同じ未来を見据える相手として王妃を選んだ。簡単にはいかないことは承知のうえで、だ。しかし悲観はしなかった。苦楽を共にする覚悟がなければ、三年前のあのとき――互いの手を取らなかった。
歯の浮くような恋の言葉を囁いたことも、情熱的な愛の言葉を交わしたこともない。
ただ信頼し、尊重し合った。
二人寄り添い、助け合うことを決めた。
きっと、何十年後も同じだろう。
「もちろん他の人間を納得させるのは、時間がかかるだろうけどね」
「そういう意味では……いいですけど。ああ、もう。こっ恥ずかしいこと簡単に言うとか、何ですかね、このひとは」
何故か真っ赤になる妻の肩を、夫が優しく引き寄せた。国王夫妻は仕事一徹と信じている周囲には、なかなか見せられない光景である。
「君が言ったんだろう。生涯一緒だと」
「あー……ですよね。引退しようが蟄居しようがお付き合いしますよ。いっそ引退したら……それこそ旅に出るのはどうですかね。ただ隠居するだけは勿体ないので」
「旅?」
何気ない王妃の提案に、国王は興味を向けた。
「なるほど。地方の情勢が上向くのはもっと時間がかかりそうだから、丁度いいか。尤も辺境は逆に影響は少ないと聞いているが、君がいたケムビや、あのルグレイの港町の様子も気になる」
「いやいや、そうですけど……多分それだと、ただの巡行ですよ。私が言ってるのはもっと先です」
どうにも職務から離れられない夫に、妻はツッコミを入れる。引退後の話でしょうが、と呆れたように言った。
「まあ地方行脚もいいですけどね。折角なら国内だけでなく、海外も行きたいかなあ。世界一周とか憧れます」
「国外はちょっと難しい土地もあるよ。まあ行ける限りで試してみるのも面白いか。先の話というなら」
遥か遠い未来の夢でも、描かれた光景はとても輝いているように思えた。二人で歩く道のりを想像すると、国王の心は弾む。
「その際には……またこの名を使えばいいんですよ、クロノ様。あったじゃないですか、使い途」
妙案を得たとばかりに王妃が手を打つ。
簡単なようで思いもつかなかった国王は、意外そうに瞳を瞬かせた。
「確かに。旅に出るならその方が自由でいい。ははは、凄いな。またリンドと一緒に旅ができるかもしれないなんて」
「できますよ、いつか。そのためにもしばらくは真面目に王様とお妃様をやるんです」
悪戯っぽく口端を綻ばせた妻が言う。冗談めかしていながらも、容赦なく叱咤激励してくるのだから恐れ入る。
国王は為政者として歩み出して未だ僅かではあったが、今は素直に信じられた。その笑顔で乗り切れる未来の場面が、この先いくつもあることを。
「そうだね。では……お茶を飲んだら再開といこうか。今日やるべきことは、まだまだたくさんある――」
二人の会話に遠慮して待機していた侍女が、合図を受けてお茶の準備を始める。麗らかな午後はすぐに終わり、次は夜が更けるまで仕事に明け暮れることになる。
単なる日常の情景は、おそらく後世には何ひとつ伝わらず書物にも綴られないだろう。けれど誰が知らなくとも、日々は紡がれ未来へと続いていくのだ。
忘れられた歴史の一幕――時の彼方に埋もれた物語は、例えばこんな話だったのかもしれない。
<完>
ありがとうございました
最後までお読みいただいた皆様に感謝いたします
ブクマ、評価を入れてくださいました方々には
重ねて御礼申し上げます。とても嬉しかったです
誤字報告も大変助かりました
ラスト少し駆け足になりましたが
書きたいことは概ね書けたので良しとしました
では、また他の作品でお会いできれば幸いです




