31.後日譚1
説明回なので地の文が多いです
魔獣の眠る国――オルフェン王国。
王国歴580年、国王ファルフォード三世の御世に、歴代で最も強大な力を持つ聖女が異世界より降臨した。彼女は災いの象徴である魔獣を支配し、永遠に滅ぼしたと伝えられる。
ファルフォード三世の息子エディアラードは彼女を妻に娶り、魔獣により荒れた国土を復興し、王国は再び栄華を取り戻した。
これは、かの聖女の軌跡を描いた物語である。
そんな語り口で始まる逸話の殆どが、後世の偽書に基づくものに過ぎず、荒唐無稽で根拠の薄いものと評されている。
何故なら歴史的事実として、エディアラード王の在位は短く、当時のオルフェン王国が栄華を誇ったとは到底言えないからだ。逆に気候変動による不作と経済の低迷が国力に大きな打撃を与えた。
尤も、建国以来最悪とされる不遇な環境下で民を統率し、致命的な失態を犯さなかったという意味では、エディアラード王は評価されてしかるべきかもしれない。
そして――魔獣の存在と聖女なる異邦人の奇跡は、流言飛語の類いと混じり、今はもう夢想家の戯言として伝え聞くのみである。
◇◇◇◇◇
後片付け、と呼ぶには忙しなく、余裕のない日々は長く続いた。過酷な未来に直面しなければならない人々にとっては、逆に救いであったかもしれない。
リンドはこの国に対して、そこまでの義務感は持ち合わせていなかった。魔獣の脅威を取り除いただけでも、充分な貢献を果たしたと自負している。
だからと言って困っている人々を前に、自分ひとり安穏と過ごすのは気が咎める。魅了の力も大分制御できるようになっていたので、幻獣使いとして出来得る限りは王都の復興に尽力した。
地震の経験が皆無に近かったオルフェン王国の、混乱と被害は軽くなかった。
それどころか一時的に地上にも魔獣の眷属が現れたため、動揺の色は今もなお濃い。クロノの麾下だった騎士団の動きが早かったおかげで大事には到らなかったが、未だ事態の全容を聞かされていない王都の民は恐れている。
(あのとき――)
王宮の地下で、最終的に何が起こったのか。
きっとクロノは当面の間、国民にも詳しくは語らないだろう。統治者が民衆に真実を隠匿するのが良いか悪いか――いや、もちろん一般的には推奨されないに違いないが――は、現時点では判断がつかない。
ただ王都がまだ混乱から立ち直っていないうちは、何も知らず生きてきた人々では受け止め切れまい。何せ政治の中枢にあっても、動揺から抜け出せない者が殆どなのだ。
それもそのはず、国王の突然の崩御、しかも手を下したのが王妃で、さらに魔獣覚醒による国土崩壊を狙っていた……などと、いきなり告げられても信じ難い話である。
王妃は自分と同じ立場の次期聖女や候補はおろか、実の息子をも殺そうとしていた。
原因となる積もった怨恨は、同じ異世界人にしか理解できない。この世界に生まれた人間にしてみれば、何が何やら、突如王妃の気が触れたとしか思えないだろう。
おまけに、最終的に目覚めかけた魔獣を退けた(誇張表現)のが、過去に追放された王太子妃である。
三年前、王宮は魅了の異能を持つ女に、魔女の烙印を押した。異端として忌避し弾劾した記憶は、彼らの中でも古くなっていないはずだ。
(正直、色々言われる覚悟はしてたんだけど)
リンド自身、最初からカレンであることを隠し通せるとは考えていなかった。
アルテの虚像は三年間も、リンドを守ってくれた。歳月は異能を使いこなせず、閉じ込められていただけの女を強くした。
誰に責められても厭われても、無言で従ったりはしない。そう気構えていたが、幸いと言うべきか、今更リンドを糾弾する者はいなかった。
一因としては、王宮の主力が、緊急時に右往左往して役に立たなかった高位貴族の老人連中から、クロノ麾下で活躍した騎士団に移ったためである。彼らは若く柔軟で、クロノに忠実だった。また過去の騒動もよく知らない。
黒髪黒瞳の異世界人は、未だ彼らの主君の妃であり、魔獣復活を阻止した立役者であり、今も惜しみなく復興支援に携わっている。嫌悪するどころか、好意的に見られている節すらあった。
リンドからすれば拍子抜けである。
地下での活躍をクロノが大袈裟に吹聴しているせいもあろうが、正直なところ勘弁してくれと言いたくなる。
(だってあのとき、私は別に何か特別なことをした訳じゃない。いや、多少はしたというか)
現代日本人の倫理観が重くのしかかる。
正当性はいくらでも弁明はできるが、理屈では罪悪感はなくならない。他者を殺めた罪は、裁かれなくともリンドが負っていく十字架だった。
(地獄行きかなあ。でも、この世界には神様もいないんだっけ。ねえ、ナミさん)
あの日。
あの地下で、魔獣を世に留める媒体となっていた木乃伊を、エドとルードルフが粉々に粉砕した。
拘束を逃れた魔獣は、再び凶暴化することもなかった。リンドの意思に従うというより、枷が無効化すると同時に実体化を続けるだけの力は失われたのだろう。
魔獣はあるべき虚空へと還る。
きっと、もう現に戻って来ることはない。
かつての召喚者のような能力は、強力な魅了の力を持つリンドでも望めない。もちろん未来に何があるか――どんな異能者が界を渡って出現するかは保証の限りではないが、可能性は極めて低いと推測している。
何故、建国時代に危険な魔獣をわざわざ飼ったのか。向き合って理解できた。一部の専門家が唱えていた説で間違いない。
当時、建国王はその圧倒的な熱量を利用したのだ。
もともとのオルフェン王国の気候や環境は非常に厳しいものだった。豊かさを手に入れるため、かつての為政者たちは手を講じた。
『今後はゆっくりと、地表の温度が下がっていくだろうな。穀倉地帯は狭まり、王都の寒冷化も進む。何十年も先の話かもしれんが』
いずれ生産が人口を支え切れない日が来る、とルードルフは試算の結果を無情に口にした。
ある程度予想していたクロノですら絶句したが、最早後戻りはできない。国として方針を定め、いつか情報統制を解き国民に事実をつまびらかにする必要は出てくるだろう。
聖女も魔女も魔獣も幻獣も、本来はこの世界にはいなかった存在である。奇しくも王妃ナミが主張した通り、利益を甘受していたツケは、国全体で負わねばならない。待ち受ける未来は酷く厳しいものに思えた。
『どうにか民への影響が最小限で済むよう考えるしかない。おそらく早い時期に、温暖な地域に遷都する準備が必要となる。生産も流通も変化に対応しなければならない……山積みだな』
達観した風情でクロノは言ったが、苦悩は隠し切れていなかった。生まれたときから地位が決まっているということは、立場に応じた責務が付いて回る。
細かい政治の話はリンドにはわからない。気候の変動が著しければ、起こる災害や流行る病気もまた、違ってくるだろう。前例のない事態に対して、後手に回らずすべて対処するのは困難だ。
クロノの行く道は険しい。
しかしリンドには何もできない……否、今はもう、何かをするべき関係ではなかった。
――好きなひと……か。いるよ。いたかな
王都に赴く前、二人だけで明かした夜を思い出すと、リンドはやる瀬ない気分になる。
カコラ湖のほとりで、無駄話をした。
その会話の意味を察せないほど、リンドは鈍くもない。クロノも同様に、リンドが振り切れずにいる本音を、とうに知っている気がした。
――どうしてプシュケーは
(忘れてしまわなかったんだろう)
▼△▼△▼△
その後――リンドが多忙を極めるクロノとじっくり話す機会を得たのは、偶然と外野の勝手さの混ざった結果の、要するに成り行きだった。
地震自体が史上初に等しい王都は、長期間復旧の目処が立たないでいた。
もちろん住民の多くは騎士団に助けられながら、何とか生き延びてはいる。しかし地震のなかった国での家屋の損害は尋常でなく、王宮すら居住区の殆どは使い物にならないままだ。
執政のための最小限を除いては今もなお手をつけられておらず、使えそうでも倒壊の危険から立入禁止となっている場所も多い。
寝泊まりは軍の夜営に近い状態だった。
贅に慣れた老貴族たちがしゃしゃり出てこない理由のひとつかもしれない。そう考えれば、不便も悪いことではなかった。
国の中枢は悪環境にもめげない騎士団員や官吏で保っている。一方で早々に国から逃げ出した貴族も少なくない。
逆に若い世代では、国を憂いて進んで助力をしようする地方貴族や、災害を機会と捉えて外からやって来る商人や技術者もいた。王都に身内や親しい友人がいる者もまた、危険を顧みず駆けつけた。
その中に――なんとエドの妻がいた。
クロノからちらりと聞いた、別居中の相手だ。
繊細な内容なので、リンドが直接にエドに尋ねたことはない。離縁までには至ってないらしい、という曖昧な情報だけで、訊く必要があるとも思ってはいなかった。何にしろ貴族のお嬢様育ちらしい奥方が、この局面で荒れた王都に戻って来るとは、想像の外にあった。
奥方のエドに対する愛情は健在だった。従兄弟であり主君であるクロノ仕えるエドを、彼女なりに支えたいと真摯に願い、周囲の反対を押し切って夫のもとに帰って来た。
かなり後で耳にした話では、もともと容姿と身分から王太子の代理ないし影武者を務めることが多かったエドは、長く聖女サユの護衛を任に就いていたらしい。
ところが不幸にもエドの子が病気で斃れ、その隙をつかれた。そう、セインがサユを殺害したのだ。
家庭と職務と両方の責任に追われたエドと、幼子を喪った妻は当然にすれ違った。エドが子の死を悼まず伴侶の悲しみに寄り添わなかったことを責めて、妻は離れていった。
完全な誤解、或いは絶望した妻が行き場のない感情をぶつけただけだったのかもしれない。
だから彼女は王都の危機を知り、再び夫と向き合うことを決めたのだろう。大事なものを二度と失わないために。
何はともあれ夫婦仲が戻ったのは幸いである。
……には違いないだが、無論リンドから見ても胸を撫で下ろす出来事ではあったのだが、ひとつだけ問題が生じた。
これまでクロノとエドが一緒の天幕で寝泊まりしていた。身分的にも職務的にも都合がよく無難だったからだ。
しかしエドの妻が現れたとなれば話が変わる。
ただでさえ高貴な女性には向かない場所で、慣れない彼女をひとりにする訳にはいかない。夫であるエドと共にいるのがいいだろう。理屈はリンドでも容易に納得できた。
(だからって……)
どうしてエドの代わりに、リンドがクロノと寝泊まりしろというのか。半ば強引に自分の天幕を追い出され、エド――イシュラ公爵夫妻に譲り渡すことを余儀なくされたリンドは、嘆息をすぐには止められなかった。




