30.真白の未来図5
(私が殺した。殺させた)
重なり合う男女の身体は無惨にも事切れていた。近寄る必要もまでもなく、誰の目にも明らかだった。
永遠に沈黙する骸と大人しくなった魔獣を、リンドは表情もなく見つめる。目を逸らしてはいけない気がした。
少しでも気を抜けば魔獣は従属から逃れ、元の木阿弥になってしまうだろう。今はまだ後悔も自責も邪魔だ。
「カレン……リンド!」
「……クロノ様、まだ、駄目です」
リンドは何とか動揺を抑え、極力冷静さを保ちながらクロノを制した。離れた位置にいるため、状況は端的にしか伝えられない。
ナミとセインを容易く葬った白龍は、今のところ唸りも身動きも止め、ただじっとしている。
魅了の効果はある。不可視の操り糸が、確かに魔獣の精神を絡め取っていた。幻獣使いとして力を揮ったときと同じ、慣れた感覚だった。だからと言って安全は保証はできないのだ。
「私の魅了も完璧じゃないですから」
「しかし……!」
「近づかないで。刺激するのは危険です」
否を告げながら、リンドは両腕を交差させる。距離的にも声より動作の方が切実さがはかれるのか、クロノは押し黙った。
「エド様も……いったんクロノ様のところへ戻った方がいいかもしれません」
「……いや」
リンドが水を向けると、遺体を検分していたエドが僅かに首を振る。神経を張り詰めたままのせいか、眉間には大きな皺が寄っていた。
戦闘から解放されても、未だ警戒は続いている。髪も服も乱れ切っていながら、エドは気を緩める暇もなくリンドの護りに戻る。その精神力は驚嘆に値した。
「危うい均衡であれば、まだ離れるのは悪手だろう。強化の異能が効かなくなる。それに」
「クロノを危険に晒すのは迷うところだが、魅了がいつまで保つか不明と言うなら、今のうちに封印にかかるべきではないのか?」
「どう……でしょう」
エドの意見は尤もである。しかしリンドは頷くことができず、曖昧に否定した。
「また封印するだけじゃあ……駄目、な気がします。多分。根本的な解決にならない。また問題を未来に先送りにするだけですよ」
「……では何とする?」
「どれほど魅了の力が強かろうが、永続的ではない。抑えられるうちに封じる以外に方法があるか?」
「方法……」
当然に問われたリンドは、振り返ってクロノとルードルフを見遣った。両者ともすでに切り替えた様子でこちらを窺っている。そしておそらく、専門家であるルードルフはリンドの考えを察しているだろう。
(ルードルフ先生が早くに魔獣の本質や私の能力に気づいてたなら、最初からこの先の展望もあったはず)
魔獣は今のところ静かに呼吸をしている。
常識外れで圧倒的な存在感とはいえ、幻獣使いの延長線上にあるリンドに従っているのだ。つまり幻獣と同種、或いは亜種、近似種であるのは間違いないだろう。ただ、そう仮定すると、逆に奇妙な光景に思えた。
(何故――消えない?)
幻獣使いが使役する異形は、もともと現世の存在とは異なる。一般的な幻獣でも、魅了を餌に召喚し、顕現させるには時間的限界があった。
リンドの力量があれば強力な幻獣でも多少長く扱えるが、眼前にいる対象は――国土を瞬く間に滅ぼせるほど兇悪な魔獣だ。たとえ一時抑えることができたとしても、永遠にとはいかない。
況してや魔獣の召喚者はリンドではなく、大昔の人間である。聖女や血を汲む王家の力で封印されていた間であればいざしらず、未だ現世に姿を留めていられるのは不可思議だった。
「……ルードルフ先生!」
リンドはルードルフに向けて声を上げた。戦闘中はクロノの傍らに控えていたルードルフだが、呼び掛けを受けてリンドの方へと足を向ける。
「お嬢ちゃんよ、こっちも状況はそれなりにわかっているつもりだがな。一応訊いておく」
魔獣から目を離さず、ルードルフはゆっくりと歩みを進めた。冷静な対応に、リンドはやや安堵する。
「魔獣はお嬢ちゃんの支配下にある」
「ええ、先生」
「今のところ従属に抗う気配はないな?」
「感覚的には普通の幻獣のときと変わりません。私の意思を汲んで動きます。だから……」
惨殺された遺体を一瞥すると、リンドは思わず唇を噛み、拳を握った。表面上は兎も角、事実が操り手の深層心理を暴いている。あの二人が邪魔で排除したかったのは、紛れもなくリンドの本心だったのだ。
「だが――」
「どれだけ願っても、魔獣は消える気配がない。お嬢ちゃんが憂いているのはその点だな?」
「……! はい」
的を射た結論に、リンドは大きく頷いた。
さすがと言うべきか、魔獣に関する知識は、専門家であるルードルフには一日の長がある。
「お嬢ちゃんは今も魔獣をこの現世から追い払おうとしている。召喚した幻獣を還すとき同様に」
「その通りです、先生。ただ……この魔獣は私自身が召喚した訳じゃない。勝手が違うのはきっとそのせいです」
「召喚者は……」
ルードルフは魔獣を見上げながら、ふむ、と顎を擦った。そのまま、臆することなく触れる位置まで近づいていく。
「建国王の時代の人間だ。お嬢ちゃんと同等かそれ以上の魅了の持ち主だろうな。界を渡った乙女かもしれん」
「まあ、可能性は高いですね」
リンドは皮肉気に口端を上げた。因果を考えると、運命の悪戯に弄ばれているような気分にもなる。
「でも未だ魔獣が還らない理由にはなりません。たとえ建国王時代に強力な異能者がいたとしても、当然とっくに死んでる。死しても継続する能力? 聖女や王族の封じの力にも消されずに?」
「なるほど、不自然だ。魔獣を現世に縛り付けるものが、何かあるな」
早々に推量から結論に至ったルードルフは、手掛かりを探すつもりなのか、ぐるりと周囲を見渡した。
この場は広大とは言え、つまるところ地下に掘った空洞に過ぎない。隠された何かがあったとしても、発見できる余地はあった。
「王太子殿下!」
ルードルフは振り返りながら、声を張りクロノを呼んだ。
「殿下が一番ここに詳しい。王家が魔獣以外で、地下に納めたものに心当たりはねぇのか? そうだな、お宝とか」
「……宝物の類いがあるとは聞いていない」
クロノは頭を振った。
「幼少期から父に連れられて出入りはしていたが、眠る魔獣のほかに見たことは……いや、待てよ」
「最奥に、小さな祭壇のようなものが――」
不意に思い出したクロノの発言を受けて、ルードルフがまさにそれだと言わんばかりに手を打つ。
奥へと走り出したルードルフの背を、リンドも追った。更にその後ろにエドが続く。
「ルードルフ先生!」
「見ろ、お嬢ちゃん」
ルードルフは壁際を指差した。
その先には見逃してしまいそうなほどの、こじんまりとした地味な祭壇……のような飾り棚があった。
「あ……多分ですけど、地中、かも」
現在進行形で魔獣と繋がっているリンドは、瞬時に力の流れを見抜いた。か細く薄い力の糸が、しかし紛れもなく続いている。
「掘り起こせるか? エド殿……いや、公爵閣下」
「承知した。呼び名など今更気にするな」
迷う素振りも見せず、エドは剣を柄に収めた。汚れるのも厭わず、それを土を削る道具にする。
時間はかからなかった。
柄はすぐ硬い障害物に当たった。
がつん、と鈍い音が響く。
(埋まってる。この大きさと形って)
「柩……?」
三人が同時に同じ単語を口にした。
土の下から姿を現した無機物は誤解のしようもなく、この世界の死葬に用いる棺桶の一部に見えたからだ。
「あれ? でも確か、ケムビみたいな田舎は兎も角、都市部は火葬が主流って聞いたことがありますけど。柩なんか埋めます……?」
「そりゃ今はな。建国時代みたいな昔はみんな土葬だろ」
「そっか、なるほど」
「もう少し掘って……開けて構わないか?」
「ああ、エドヴァルト殿」
やがて柩全体が掘り起こされた。
古びてはいるが、保存状態は悪くなかった。異臭もない。埋葬した人間が丁寧に処置したのだろう。それを墓荒らしよろしく無闇に暴くのは憚れた。
しかしエドとルードルフは視線を交わし、意を決した様子で頷き合いながら、二人で棺桶の蓋に手を掛ける。
「……!」
ガタガタッ、と建付けの悪い音がして、蓋がズレた。密閉されていた空気は目に見えないにも拘らず、濃く、暗く、重苦しく感じられた。
柩の中身は――。
(ミイラ……だよね?)
当然のごとく、棺桶に納められているのは誰かの遺体だった。干涸らび切った顔も四肢も、すでに生前の姿は留めていない。ただ長い黒髪だけが、かつての面影を彷彿とさせる。
「これは……聖女、なのか? ルードルフ殿」
「いや、違うな。お嬢ちゃんと一緒だろ」
「ええ、当時の……幻獣使い。魅了の異能者です」
簡単に悍ましいとも言い切れない遺体を直視し、リンドは唇を引き結んだ。
境遇はまた異なるだろうが、彼女がいつしかの自分であった可能性は否めない。国に利用されたか、己から身を捧げたか。いずれにせよ、死後も縛り付けられたのは――決して魔獣だけではなかったのだ。
「エド様、ルードルフ先生」
「ああ」
「わかってるさ、お嬢ちゃん」
死者の眠りを妨げ、遺体を無下に扱うのは気が引ける。けれど彼女が媒体そのものである以上、非情な選択をせざるを得ない。
「……このひとを、木乃伊を壊してください」
リンドが言い終わらないうちに、無慈悲な刃が沈黙する古い骸に突き立てられた。
<真白の未来図〜了>
ラスト3話エピローグ




