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29.真白の未来図4

 背中の後ろから追い風を感じて、リンドは我知れず黒瞳を瞠いた。共に闘おうとする意思が、間違いなく近くにある。


「カレン!」


 打ち捨てたはずの名が、懐かしく響く。

 この世界に――オルフェン王国に来てから、個人名を呼ぶ相手は夫となった彼以外、殆どいなかった。


(クロノ様……エディアラード王子)


 リンドは今更、クロノに対する複雑な感情を言語化する気はなかった。別れたときも、再会してからも、簡単に吐露することもできない想いが胸奥にある。


(でもね……私はこの世界に来た頃には、今の貴方くらいには大人の年齢だったからね、こう見えて結構わかってるんだと思うよ)


 元の世界の輪堂花蓮はしがない学生に過ぎなかったが、大学に行く程度の一般教養があれば、為政者の義務や責任、政治が民草に及ぼす影響は何となく想像できるものだ。


 三年前も――今も。


 だからこそ、現時点で優先すべきが()であるのか理解している。リンドは最も多くの者が助かる未来を掴み取るために、恐怖を制して正面から魔獣と対峙する。


 避けて逃げる道もあったのだとは思う。

 責任はない。義理もない。負い目なら逆にオルフェン王国側にあるだろう。ナミの言うように、意趣返しする理由すらある。

 世のため人のためと、自己犠牲に陶酔する趣味はもちろんなかった。無辜の民が被害を受けるのは後味が悪かろうが、すでに個人がどうにかできる範疇から逸脱している。


(王太子殿下はそういう言い訳もできないんだよね)


 出会った頃からクロノは王国の将来をその双肩に負っていた。当時の輪堂花蓮の感覚からしたら、精々が中学を卒業したての少年の年齢にも拘らず。

 王宮に跋扈する身勝手な有象無象や、権力に群がるだけの魑魅魍魎に対してなら、リンドはいくらでも冷然と足蹴にしてやれた。

 無論、自分の価値基準を他者に強いるという点では、クロノも同じだ。傲慢と評されても致し方あるまい。


(けど私は、そういうの全部引っくるめて、貴方がどういうひとか知ってた。見てたから)


 リンドは苦笑する。化け物の視線を眼前で受ける者としては、間抜けな感慨だったかもしれない。


 魔獣は迫り来る。

 そのまま捨て置けば王妃ナミの復讐は成就される。


「知らないでしょう、ナミさん」


 独り言ちながら、リンドは真顔になった。


貴方の息子(クロノさま)はいつだって、自分の責任(こと)だけを考えてはいませんでしたよ」


 元の世界の輪堂花蓮は、特別な教育を受けたこともないただの一般市民だ。王権にも政治にも縁遠く、突出した才能も持たない。


(だからって、自分よりも若い()()()が課せられた仕事を全うしようと頑張ってる場面で、何にも思わないほど鈍感じゃあない)


 年上ぶって、と自嘲しないではなかったが、リンドは本心からクロノの性質を擁護し、味方になると決めていた。


 母であるナミが嘆き悲しんでいる間に、時は動き、世代は変わった。憐れは覚えるが、今を生きるすべての者に恨み辛みを受け入れろという主張に、何の正当性もない。

 クロノとリンドはその象徴であるべき存在だった。負けられない。リンドは純粋な意思を強く抱く。


 気がつけば、魔獣――幻獣特有の真白に彩られた龍の巨体が、誘われるかのようにリンドを凝視していた。



 +++++



 刹那の時、とでも表現すべきだろうか。

 瞬きするほど短く僅かな間ではあったが、体感だけはやけに緩やかで鈍い。


 ――無音。


 続いていた微震がぴたりと止まった。

 魔獣もその眷属も動かない。


 しかし、静寂は即座に破られた。



「……どうして」



 劈くような悲鳴ではなく、掠れて消え入りそうな女性の声が、何故か空気に乗って響き渡る。


「どうして邪魔をするの」


 荒らげもせず、ゆっくりと呟いたのはナミだった。

 見れば悲愴な表情で、ただリンドを凝視していた。


「ナミ、さん……」

「この世界に、救いなんて要らないのに。だって祈っても助けてくれる神様すらいない世界なんだから」


 ナミは返答を待っていない。

 絶望が淡々と伝わってくる。


「ずっとね、わたしだけが不幸なんだって……悲しかった。だからただ、この世界に生きるすべてのひとに、同じだけ絶望してほしかっただけ。それっていけないこと? 平等だし公平でしょう? ねえ?」



「わたし、頑張ったのに……」



「神様も人も……誰も助けてくれないから、自分の手でやったのに。今更邪魔なんてさせない。セイン、お願い」

「ええ、ナミ様。お任せあれ」

「……!!」


 リンドがナミの妄言に気を取られた隙に、セインが動いた。煽るように笑いながら、尋常ではあり得ない速さで距離を縮める。

 気がつけば、セインはリンドの眼前に肉迫していた。

「っっ!」

「貴様ッ!」

 紙一重でエドが割り込む。

 セインの剣がエドの頬の皮を掠っていった。

「エド様!」


「ちッ……」


 らしくもなく、セインが苛立たし気に舌打ちする。ナミから離れて攻撃に転じたのだから当然だ。あれだけ執着している対象を庇護せず放置するのは、苦渋の選択に違いない。

 鬼気迫る形相を向けられ、リンドは焦る。

 狙われているのはエドではない。明らかにセインはリンドを殺そうとしていた。


(……怖い)


 鼻先まで相手の剣が届きそうになり、心臓が跳ねた。このままでは集中を欠き、魔獣に向けた魅了の力がナミに押し負け兼ねない。

 ナミは白龍をその両腕に抱くように触れ、リンドの気が逸れた瞬間を狙って封印を解こうとしている。まずい、とリンドは危機感を募らせた。


「お願い……!」



 ――()()()()()()()()



 唸りを上げる魔獣に向かって、リンドは叫んだ。巨大な龍の頭部が高い位置からこちらを見下ろしている。

 眼球と思しき楕円の凹凸が、ぎょろりとリンドを一瞥する。目が合った。魔獣に限らず異形の存在に感情があるかはわからない。果たして自分の声が届いているのか。今まで幻獣を召喚した際に感じていた手応えがまるでなかった。


 失敗――という恐ろしい可能性が脳裏をよぎる。

 やはり魔獣は幻獣とは異なるのだろうか。或いは一般的な幻獣より強大であるが故に、人間に使役できる範疇を超えているのかもしれない。だとしたらリンドは賭けに負けたことになる。


 最早、打つ手はない。

 最悪の想像の中で、猛り狂う白龍が怒りの矛先を向けてくる場面すら浮かんだ。もしそうなれば、待っているのは絶望の未来図だ。


 壮絶な咆哮が響き渡る。

 リンドはその瞬間、死を覚悟した。



「――ッ!!」



 衝撃が音となって轟く。

 身動きもできず、リンドはただ瞠目した。

 眼前に赤い色が広がる。

 何が起こったのか。


 まるで状況を把握できず、リンドは息を呑んだ。

 

 自分は……無事だ。

 おそらく傷ひとつ負っていない。


 近くにいるエドも無事のようだった。

 振り返れば、クロノとルードルフも普通に立っている。否――或いは茫然と立ち尽くしていると言うべきか。


(え……)


「……あ」


 リンドは我に返って状況を把握した。

 少し離れた位置で、流れる血が地に川を作っている。赤い飛沫は龍の白い身体にも広範囲に付着しており、出血量の多さが窺えた。

 そう、倒れているのは――。

 


「ナミ様……ッ!!」



 セインの呼びが虚しく宙に飛ぶ。

「ナミ様! ナミ様ナミ様ナミ様ナミ様ナミ様ナミさまナミさまナミさまナミさまッ」

 血に染まったナミのもとへ駆け寄りながら、セインは狂ったように愛する女性の名を繰り返していた。


 足を竦ませたままのリンドは、声も上げられず身を震わせた。眼前でゆっくりと場面が移ろう。

 数十秒前、まったく同じ光景を見た。

 再コマ送りのようだ。

 上から白い影が高速で下りてくる。


(魔獣の……爪?)



「っ!!」


 面を伏せる余裕もなく、リンドは二度目の虐殺――としか言いようがない――を目撃した。

 もし手を下したのが人間(ひと)であったなら、()()は残酷に過ぎる仕打ちに違いなかった。

 当然の帰結ではあったが、無慈悲なる異形はちっぽけな人間の事情など、いちいち忖度したりはしない。死を免れ得ぬ哀れな女も、恋情に殉じる男も、きっとどうでもいい存在だったろう。

 白龍は鋭利な刃物よりも研ぎ澄まされた爪を、一息に打ち下ろしたのだ。最初はナミに、続けてナミを庇って覆い被さったセインごと。


「あ……あ、あ」


 即死だと思った。

 と同時に、リンドは己の業を知る。

 負い切れない責任を悟る。


「私、が……」


 信じ難い事実が、人の生命という重さとなって、リンドの背に伸し掛かる。わかっている。感覚では理解している。


 瀬戸際でリンドの願いは聞き遂げられたのだ。力比べで僅かにリンドが勝り、魔獣は魅了に支配された。

 つまり――彼らに殺意を向け死に至らしめたのは、間違いなくリンド自身に他ならなかった。

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