26.真白の未来図1
アークヴェイ伯爵の四男セイン・ユピティルがその女性と知り合ったのは、まだ少年と呼ばれる時分である。
自分よりもさらに幼い王子の護衛兼遊び相手として、貴族の子弟から家柄や評判が良い者が幾人か選抜された。セインは運良くそのうちのひとりとなった。
いずれ次期国王の側近に取り立てられる可能性も高い。才覚に反して燻っていた末息子の立場が覆り、両親からの期待は大きかった。
優秀で快活と評される王子は、時折妙なところで我を通すこともあるが、基本的には手が掛からない子どもだった。
セインは末弟に生まれたために培った処世術で、他の子弟とも上手くやりつつ、突出はしないまでも失敗もせず、無難な立ち位置を保持していた。
……つまらなかった。
当時はいつも無感動に過ごしていた。適当に話し、適当に笑い、適当に学び、適当に仕える。必死さや生真面目さなど愚かしい。
昔から大抵のことは概ねこなせてしまうセインは、そんな風に斜に構えて生きていた。
王子の母親である異世界の女性に興味を抱いたのは、成人する少し前の頃だろうか。
実年齢よりもずっと若く見える王妃ナミは、温和な人柄と言えば聞こえがいいが、どこか感情の起伏に乏しく、謎めいた雰囲気を持っていた。
夫である国王や、我が子である王子に対しても心を開いてはいない。
傍から観察するのが得意なセインは気がついた。
故郷の話をしているときだけ、僅かに本音が垣間見える。過去に戻りたいというより、現状を否定したいのだと後に知った。
『ここがお嫌ですか? この国が』
ある日、無礼とは思いつつも不意に尋ねたくなった。見透かされるのは初めてなのか、ナミは酷く驚いていた。
『この国には貴女のお心を慰めるものは何もないのですね。エディアラード殿下にすら、身構えておいでだ』
指摘され、ナミの美しい面に不可視の亀裂が生じる。ぞくりとした。セインは彼女の傷ついた様子に、この上なく興奮を覚えていた。
『ああ……ずっと耐えておられたのですか』
『そうなのですね。お可哀想に。誰も貴女を気にかけず、誰も貴女を救ってはくれなかった』
憐れまれて初めて、ナミはようやく自分の境遇が凄惨なものだと自覚したらしい。逆に不幸だと、セインは深く同情した。
彼女はきっと幾度も自制してきた。
だからこそ追い詰めたい――自分の言葉により、動揺する顔が見たかった。生来嗜虐癖があった訳ではない。なのに、どうしようもない愉悦の感情が胸中を支配する。
『大丈夫。貴女は悪くない。誰も気づいてはおりません。僕以外には』
寄り添えば、ナミは堪え切れず涙した。
なんとか弱く憐れな女性だろう。
鼓動が早鐘を打つ。
自分の腕の中でもっと苦しみ、もっと悲しみ、もっと泣き喚いてほしい。狂った欲望と自覚しつつも、セインは抑え切れなかった。
『お力になりましょう。僕は味方です』
その後、セインはナミの孤独と苦渋につけ込み、距離を縮めていった。限界まで辿り着いたとき、彼女は何を選ぶのか興味があった。依存に陥ればいい。或いは破滅を求めればいい。退屈で狭苦しいセインの世界を悉く壊してくれたらいいのだ。
器用だと、賢しいと、幸運だと周囲から評されてきたセインだが、強く何かを望んだことはなかった。未知の体験はかつてない情動となって心をかき乱す。溺れる。いや、沼の底に堕ちる感覚に近い。
濁った水の奥にあるのはただの好奇心か、それとも執着なのか。否、奇怪に捻れた恋心だと自覚するのに時間はかからなかった。
やがて赤毛の少年は青年に成長し、王宮騎士団に入った。仕えるべき主君は本来であれば国王であり、後継たる王太子である。
けれどセインが忠誠を捧げたのは彼女だけ。
生命も精神も肉体も――未来すら、ただひとり歪んだ恋の相手に譲り渡したのだ。
◇◇◇◇◇
威勢のいいことを言ってはみたものの、リンドはナミが何をしでかしても止められない自分に苛立っていた。
負傷したクロノも、応急処置にあたるルードルフも同じ様子である。エドはセインと睨み合う。拮抗する、或いは上位の実力者に対して隙は見せられない。
魔獣の目覚めさせる――封印を解き放つと豪語したナミは、宣言通り行動した。
細い指が純白際立つ異形に触れる。
龍型の巨体がどくんと大きく脈打った。
「……っ」
クロノが呻き声を上げた。
「止……めろ」
「知ってた? わたしたちの異能はね、解除するときは対象に触れる必要があるの」
つまらなそうにナミが説明する。
「本当は別に殺さなくても、やろうと思えば他人の封印だって解ける。どちらの力が強いか、それだけ」
そのままナミは魔獣に添えた手に力を込めた。
「手負いのあなたじゃ、封印を保てない」
「させるものか……」
クロノの身体が光を纏う。
無理をしているのは明らかだった。
「退け、セイン……!!」
「冗談でしょう、エド様」
さすがにクロノの窮状を見てエドが動いた。当然ながらセインが受けて立つ。
「斬ってでも王妃を止める!」
「僕が許すとでも?」
両者が本気の殺し合いをしているうちにも、ナミは魔獣の封印に手を入れ、クロノの力を押しやっていく。完全に分が悪かった。
さらに魔獣の脈動が活発になるにつれ、体表からぽこりぽこりと泡が湧き出るように何かが発生した。
「何だ、あれは……?」
「魔獣が生み出す眷属だ。古い文献に記述がある。ちッ、やべぇな。小型でも攻撃性は高い。確か剣でも滅ぼせるはずだが、気をつけろ」
クロノの疑問にルードルフが答える。
その間にも異形は次々と分身を宙に放った。しかも数体は地上へと向かって行った。
「王宮……いや、王都の人間が……!」
「それどころじゃねぇよ、王太子殿下」
他人の心配をしている余裕はない。そう諭すとルードルフは幻獣の忌避剤を周囲にぶちまけ、襲ってくる魔獣の眷属を牽制した。
地下に残った眷属龍は、忌避剤の匂いが充満する場所を避けて飛び交う。リンドはまだクロノの近くにいたから無事だが、エドやセイン、封印を解いているナミさえも例外なく、獰猛な牙と爪の餌食にしようとしていた。
「セイン! 今お前自身も王妃も危険に身を置いている。魔獣が目覚めればもっと酷い状況になる。いいのか、このままでは心中に等しい」
「それが何か?」
未だ諦めず説得を試みるエドに、セインは投げ遣りに言い放つ。厭世的とも諦念とも違う。理解できずにエドは混乱していた。
「……! 共に滅びるつもりか!?」
「甘美ですね――」
「国を、世界中を道連れにして、惚れた相手と一緒に死ねるなんて、最高です」
「お前のような者は……生かしてはおけぬ」
「ふ……はは。何を仰いますか」
歪み過ぎた破滅主義を突き付けられ、さすがのエドも説得の無駄を悟る。殺気を真正面から受けたセインは、しかし平然と相手を蔑むような嘲笑を浮かべた。
「エド様だって、一度は考えたことがあるんじゃないですか? 愛する者と生きられないなら、滅びの方が幾分かマシでしょう」
「貴様……っ!」
一瞬動揺したエドの剣を、セインは滑らかな動きで打ち払った。技量の差は大きくはないが、セインに軍配が上がる。エドは数歩後退った。
「くっ……」
「まだまだですね」
経験ではセインに一日の長があるのだろう。腕力ではエドが優るが、器用さは劣っている。
巧妙に間合いを取りながら、セインは言った。
「それに僕にばかり構ってもいられませんよ」
(マズイ……)
リンドは焦った。
斬り合いではセインが優勢のうえ、眷属龍も増え続けている。いや、むしろエドも徐々に人間同士の戦闘より、異形相手の対処だけで手一杯になりつつある。エドが剣で斬れば実態を保てず消える存在ではあったが、如何せん数が多い。
ナミを守りながら動くセインも同様の状況だ。戦線は膠着する。無論、時間の問題でこちらが不利だった。
(でも……魔獣の眷属とやらにルードルフ先生の忌避剤が効くなら、可能性はある)
「クロノ様……!」
「お願いがあります、クロノ様」
ナミと根比べ続けるクロノに、リンドは覚悟を決めて話し掛けた。無闇に集中を切らすのは得策ではない。それでもリンドは敢えて至近距離まで寄って、自身の考えを伝えた。
「私に作用している封じの力を解いてください」
「何……?」
「ご存知かもしれませんが、実は――かつてサユさんが私に掛けた封印は、不完全なものでした」
「……それは」
「だから幻獣を操る程度はできたんです。今はクロノ様が封じの力を重ね掛けした状態なので、何もできません」
リンドは極力声を抑え、ナミやセインに漏れないよう、クロノの耳元で要請した。
「私の本来の力を、解放してください」
それだけで充分だった。
クロノであれば、意図を察するのは容易いはずだ。聞かれてはマズイということは、逆に言えば相手にとって邪魔となる――対抗手段になり得ると。
「君の……力」
クロノの横顔が僅かに翳る。おそらくは思い起こしているだろう。リンドがまだカレンであった頃に持っていた異能は、災禍とされ忌み嫌われた。
(けれど――聖女でさえも封じ切れなかった力だから)
そう、その能力自体は盲目の少女アルテに取り込まれた後も、消失してはいないのだ。
「説明は後です。猶予がありません」
「――わかった」
深く頷くと、クロノは端正な顔を真っ直ぐとリンドに向けた。そこでたじろぐリンドではないが、真摯な眼差しを受けて構えずにはいられなかった。
封じの異能を解くには、対象に直に触れる必要がある。
先程ナミが語った通りだ。
見つめ合う二人の間に距離はなくなる――。
(クロノ……様?)
リンドは瞼を閉じもせず、近づくクロノの瞳を見つめた。確かに封印を解けと言ったが、あまりにも近過ぎる。
戸惑うリンドを余所に、クロノは淡々と行動する。
唇と唇が……重なった。




