25.緋色の恋情6
リンドはナミの瞳の奥に虚ろを見い出す。
まるで壊れた人形のようだ。
聖女どころか国王――自らの夫を手に掛けたと責められても、彼女の心は微動だにしないのだろう。
その絶望に似た感覚を、リンドは知っている気がした。三年前のあの日にリンドが置き去りにしたのは、まさしく同じ種類の虚無ではあるまいか。
日本から不可抗力で異世界に渡り、現地で夫君と子を得てもなお、ナミが嘆き続けていたのだとしたら。
(いいや違う。嘆いていただけじゃない。ナミさんはきっと憎んでいたし、恨んでいた)
息子であるクロノも察したはずだ。
最も身近にいて、敏いクロノが実の親の有り様を知らぬとは思えない。リンドはナミと直に接する機会はなかったが、聖女でありながら主張せず、政にも口を出さず、奢侈を好まず、国王とも王子とも距離を置いているように見えた。
家臣の間でも王妃は「控えめで大人しく」「穏やかで強い情動を持たない」と評されていた。
そういう性格だと安易に決めつけていた訳ではない。俗世にはあまり関心がない質なのか、或いは達観しているのか、最早すべてを諦め割り切ったかもしれない、とリンドは同郷人として彼女の胸中を想像したことはあった。
今となってはどれも的外れだとわかる。
セインはどこか儚げで危ういナミの傍らに、ただ寄り添っている。その理由について、今や誰も説明を求めなかった。緋色に染まる恋情は、セインの佇まいや表情を見れば明らかである。
ルグレイでセインがナミの名を出したとき、不覚にもリンドは思い至らなかった。
幼少時に教わったからといって、普通は異世界の難解な文字をスラスラと書けるはずがない。しかし思い入れがあれば別だ。セインにとって『諫早那美』は特別だった。直属の主君たる王太子よりも、国を治める国王よりもずっと。
(迂闊過ぎる。実行役が身近にいるなんて当たり前だ。少し考えれば誰だかもわかったはず)
ケムビ近くの辺境の森で騎士団が襲われたのも、ルグレイの港町でカスガの乗せられた船が燃えたのも、保護されたカスガが容易く殺されたのも、撹乱のため『花蓮』の文字を残したのも――すべてセインが裏で手を引き、場合によっては自ら手を下したとすれば説明がつく。
「母上、貴女は……己を慕う人間の手を汚させて、満足なのか。そうまでして得たものがあったのか」
「申し訳ないですが、殿下、僕は自分の意思でこうしています。ナミ様に利用されたのではありませんよ」
糾弾するクロノに対して、ナミに代わりセインが真っ向から反論してみせた。
「僕はナミ様を愛しているんです。ああ、誤解なきように言っておきますが、不貞を働いてはおりません。飽くまでも僕の、一方的な想いです」
熱い告白にも拘わらず、セインの口調は仄暗さを感じさせる。彼が見ているのが未来ではなく破滅だからなのだろう。
「ナミ様の願いは、すべて僕が叶えて差し上げる」
「……国を滅ぼし民を損なう行為であってもか」
「ええ、それこそがナミ様のお望みなんですよ」
やはり、とリンドには合点がいった。
(――復讐)
言葉にすると現実感が薄くなるが、決してあり得ない話ではなかった。ただオルフェン王国の人間には納得し難いだろう。
聖女として崇め奉り、国主の伴侶として迎え、国母として厚遇し、贅も財も思うままの立場を与えた。何の不満もあるものか、とこの世界の価値観だけで断定した。ある日唐突に今までの人生を奪われた女性の胸中を、誰も慮ってはこなかったのだ。
「何故……そこまで。母上」
「駄目です、クロノ様。貴方の疑問は尤もだけど、意味のないことです。このひとには……ナミさんには」
「ああ、やっぱりカレンさんはわかってくれるのね」
ナミはふわりと柔らかい笑みを浮かべた。
十代半ばで異世界に転移して二十歳に近い子がいるなら、少なくとも四十歳前後のはずだが、うら若き乙女のような無垢を内包している。
「セインは昔からわたしを心配しててね、色々手伝ってくれた。でも、あの男だけはわたしの手で殺したの」
「それは……国王、ですか」
「そう。カレンさんは何故か王子が嫌いではないみたいだけれど、わたしはずっと、ずぅっと嫌で嫌で仕方なかった。好きでもない男の妻なんて、最悪でしょう?」
激昂もせず、抑揚のない口調でナミは本心を吐露した。
「あなたもね、わたしの王子」
闇の縁を垣間見るような視線が、クロノに向けられる。親子の溝はどうしようもないほど深く抉れていた。
「あの男の子どもなんて、わたしには悍しい存在でしかなかった。ごめんなさいね。あなたのせいじゃないけれど」
母親に疎まれていたことをはっきりと告げられ、クロノは傷ついたに違いない。しかし眉を顰めただけで動揺を押し殺し、上に立つ者として胆力を見せた。
「隠していたの。それでも我が子だから、あなたには罪はないから。我慢してきた。三年前のあのときまでは」
ナミはちらりとリンドを一瞥した後、ゆっくりとクロノに視線を戻した。
「あなたはカレンさんを無慈悲に切り捨てた。結局、あの男の子どもなんだと思いました」
(え……まさか、三年前のことが!?)
三年前の一件がナミにひとつの決断を与えたと知り、リンドは驚いた。確かに当時は散々に振り回された。自ら聖女を名乗った覚えもないのに騙りを責められ、幽閉先から逃げ出す程度には追い詰められていた。
だが当事者であるリンド自身は、頭では理解している。許す許さないは兎も角、クロノの立場的に仕方のない側面はあった。
一方で――国のため大義のためにと、娶った妻すら守らない息子の非情さを、ナミは看過できなかった。夫に重ね己に重ね、眠っていた怨嗟を蘇らせてしまったのだ。
「あなたがサユさんと再婚して子どもが生まれたら、きっと同じ。また将来、日本から来た誰かが犠牲になるでしょう。この国が続く限り、永遠にそう。ぞっとする。どうして平気なの」
「……それが貴女の言い分か」
底冷えのする低い声で、クロノは反論した。
「罪のないサユやカスガに手を掛けて、主張できると本当に思っているのか」
「その通りね」
すでに良心や罪悪感を通り越したところにいるナミに、クロノの言葉は少しも響いてはいないようだった。
「そうね、サユさんやカスガさんという娘には申し訳ないと思ってる。でも聖女の血や力を次世代に遺せないの。この国は救われてはいけない。絶対に」
「国が滅びれば、無関係な民こそ犠牲になる」
「笑わせないで。国民だって散々聖女の力とやらの恩恵に与ってきたのに、関係ないと言い切れるとでも?」
ある意味では正論を語られ、クロノは反駁できず、ぐっと押し黙った。
ナミの復讐心は国王や王家だけでなく、聖女に拠って立つオルフェン王国とその国民すべてに向かう。その執念が狂気じみていたとしても、最早後戻りができない段階に進んでしまった。理屈ではナミを止められない。
積年に渡る鬱屈を国の代表であるクロノにぶつけられたせいか、ナミは満足そうだった。
「オルフェン王国が栄えたのが聖女のおかげなら、滅びるのも聖女が原因。公平でいいじゃないの。ねえ、カレンさんもそう思うでしょう?」
「え……」
意味あり気に問われ、リンドは怪訝そうに眉根を寄せた。
「私は……そんなこと」
「あなたは聖女じゃないから、生き残っても問題ない。丁度いい。一緒にこの国が滅びていく様子を鑑賞しましょう。きっとすぅっとすると思うの」
「……馬鹿じゃないですか」
差し伸ばされた手を、リンドは一言で切って捨てることで払いのけた。
同情するのもされるのも業腹だ。置かれた境遇がどうであろうと、リンドは己の倫理に基づき、ナミの行為を認めようとは思わなかった。
「確かにろくな目に遭わされてはいないですけどね、ナミさん、私はそんな悪趣味な意趣返しするほど落ちぶれてはいませんよ」
「カレンさん……?」
「その名は捨てました」
リンドはきっぱりと言い切った。
「不可抗力とはいえ、私は三年間、この世界の人間として、ひとりの子どもとして生活したんです。辺境の街で貧しかったし、楽じゃなかったし、周囲だって別に優しくも何でもなかったですけど」
説得する気はさらさらなかった。ただ憤りだけは感じる。精神的に行き着いてしまったナミを咎めるのは無駄だろう。しかしリンドにも譲れない矜持がある。
「片隅で精一杯生きてる人間の方が多いんですよ。恨みつらみで勝手に滅びろとか言われちゃあ困ります」
「――……っ」
「ナミ様!」
強く否定され、ナミは怯む動作で身体を強張らせた。横に立つセインが心配そうに支える。リンドの何かが彼女の心を乱したらしい。
「何故……」
「ナミ様、お手を」
「大丈夫……セイン」
それでも互いの平行線が交わる未来はない。
暖簾に腕押しだった問答は、決着がつかぬまま終わりを迎えようとしていた。
「残念ながら、カレンさんとは仲良くできないみたいだけれど、結果は同じだもの」
「魔獣が目覚めれば――全部お終いだから」
<緋色の恋情〜了>
次話より「真白の未来図」




