24.緋色の恋情5
地下に足を踏み入れた瞬間、リンドの背筋は見えざる冷たい手によって撫でられた。
恐ろしい何かがそこにいる。
今まで幻獣使いとして喚び出してきた異形と似ているが、質量と熱量は比較にならない。微かに脈動する純白の巨体は、禍々しくも優美に見えた。
圧倒される。形状は龍――だろうか。光が乏し過ぎて、全体像は把握できない。
(封じられた魔獣……)
初めてそれを目にしたリンドは、畏れとともに純粋な興味を抱く。幻獣と同じ超次元の存在なら、そもそもオルフェン王国建国時代より実体化しているのが不可解である。開闢の王がどういう経緯で封印に挑んだのかも、今の時代には細かくは伝わっておらず、定かではない。
研究者であるルードルフは、現在の状況をどこまで予想してたのか。ルグレイでは、どんな意図でリンドを連れ去ろうとしたのか。
(それに……そこに倒れている女性は)
「……ルードルフ先生、貴方は」
「やっぱりお嬢ちゃんか」
「私のこと、いつから知ってたんです?」
「さぁて」
ルードルフは空惚けた。疲れた様子で座り込むのを止め、徐に立ち上がる。
「!!」
その瞬間、ルードルフに斬りかかった者があった。
リンドの背後から躍り出て、凄まじい速さで剣先を運ぶ。それも二方向から、だ。
「エド!! セイン!!」
「えっ……ちょ、ルードルフ先生!!」
クロノは攻撃する側を、リンドはされる側の名をそれぞれ口にした。常識的に考えて、学者のルードルフが戦いの専門家である騎士相手に逃れる術はない。血を見るのは明らかである。
反射的に、リンドは眼を閉じた。
理不尽な目に遭わされたとはいえ、知己が傷つく姿を直に見るのは抵抗があった。
「ちっ、あっぶねぇな!」
斬撃を受けるかと思われたルードルフは、紙一重で交わしたようだ。リンドが眼を開けると、少し距離を取ってエドとセインに対峙していた。
「貴様!」
エドが殺気立って、怒号を浴びせる。
「王家に、王国に仇なす不届き者めが!」
「待て、エド。下がれ」
「殿下こそ危険です! 前に出ないでください。僕とエド様でこの男を成敗しますから」
「駄目だ、セイン」
配下を制止したいクロノは、敢えてルードルフに近づく。命令があっては、エドもセインも従わざるを得ない。
「何故です、殿下! 僕は絶対この男を許せません。あの方に……何をしたのか」
セインは倒れてる女性を気にしていた。
「事情も知らず責められてもな」
やれやれ、とルードルフは肩を竦める。
「なあ、王太子殿下?」
意味あり気に同意を求められても、クロノは表情を変えなかった。動揺はあれども、まだ自制心が上回っている。如何なる場面でも理性に重きを置くのは、王の継嗣として生を受けたクロノには当然の選択だった。
リンドは見捨てられたかつての経緯から、それを知っている。側仕えの騎士も頭では理解しているだろう。
「クロノ……」
「エディアラード殿下」
「お前たちは口を挟むな。ルードルフ殿は私と話がしたいようだ」
「さすが王太子殿下。話が早い」
茶化す意図は含まれていなくとも、ルードルフの口調は総じて軽い。それでもクロノの神経を逆撫でするまでには至らなかった。
「訊こう、ルードルフ殿。何があった? もっと直截的に言った方がいいか。……その女を、殺したのか」
「……いや、死んではいない」
渋い顔でルードルフは答えた。
「大人しくしてもらうために、ちょっと手荒な真似はしたがな。不可抗力ってヤツだ」
(……生きてる)
リンドは仰向けのまま動かない女性を凝視した。パッと見では生死はわからない。ルードルフが言うのが正しければ、気絶しているだけらしい。
上等の絹に包まれた細い肢体は、男の腕力ならあっさりと無力化できただろう。おおよそ戦闘には縁のなさそうな人種だ。
普段はかっちりと結っているであろう黒髪が、乱れて解けかけている。項の白さが妙に艶かしかった。
「ナミ様……」
女性の名を呟いたのはセインだった。
もちろん誰もが最初から彼女が誰かを知っていた。王宮にいる黒髪の女人など、ひとりしかいない。
国王の妻であり、王子の母であり、異世界から降臨した正真正銘の――今となっては唯一の聖女でもある。
名を呼ばれて反応したのか、女性の肩が微かに震えた。皆一斉にそちらを見遣る。
(え――)
違和感を覚えたのは、リンドがたまたま男たちの後ろにいて、場を俯瞰していたからだった。
王妃ナミはおそらく意識を取り戻した。ようやく起き上がろうとするその緩慢な動作を、それぞれが固唾を飲んで見守っている。
注目は別の視野からの隙を生む。
気がついたとき、リンドは殆ど無意識に前方へ手を伸ばしていた。赤い色が映像の一画面を切り取ったかのように鮮明になる。
「っ!!」
不自然に真紅の髪が揺れる直前、リンドの指先が服に届いた。引いた勢いで剣の軌道がズレる。
しかし――完全には防げない。
「!」
(嘘……)
気がつけば視界の真ん中で、赤い雫がぽたりぽたりと地に垂れていた。何が起こったかを悟り、リンドは青褪める。
染まっているのはクロノの背だった。
セインの剣先が衣服を裂き、肌を刺したのだ。
「ク、ロノ、様」
「く……っ」
愕然としながら、リンドはクロノに刃を向けた人物を見上げた。服の裾をまだ握ったままだった。直感で不審を抱き、咄嗟に止めようとしたのは事実だ。
だが認識が追いつかない。
何故――どうして彼がクロノの背中を襲わなければならないのだろう。まったく意味がわからない。
「離してくださいよ、異世界人のお嬢さん」
「セイン様……」
+++++
何も言えず立ち尽くしていると、セインは舌打ちしてリンドを突き飛ばした。
「離せ!」
「痛っ」
リンドは尻もちをついた。
斬られなかっただけ運が良かったのかもしれない。セインは殺気の塊を纏っている。丸腰のリンドが臆さずに立ち向かえる相手ではなかった。
「セイン、貴様ッ!?」
いち早く動揺から立ち直ったのはエドで、行動は迅速だった。剣を打ち合う金属音が響く。
「……!」
セインはエドの気迫に押された。否、正確にはそう見せかけていた。後退し続けながら、巧妙に立ち位置を移動する。
見ているだけのリンドは察した。
彼の目的がどこにあるのかを。
(王妃……!)
手練であるはずのエドと剣を交えつつ、いつの間にかセインは王妃ナミの前に立っていた。なんという技倆だろう。
王妃ナミはすでに立ち上がっていた。
リンドの記憶の中では印象の薄い相手だが、日本人にしては彫りの深い顔立ちで、やや感情には乏しい。今も能面のような無表情である。
「……やはり貴女か、母上」
「クロノ!」
「クロノ様……!」
「大事ない。掠っただけだ」
「無理すんな、王太子殿下。ちょっとじっとしてろ」
意外にも、クロノに手を貸し身を支えたのはルードルフである。彼は手持ちの布に何かの液体を染み込ませると、クロノの背に当てた。
「く……!」
「止血薬兼消毒液だ。染みても我慢してくれ」
「ああ……すまない、ルードルフ殿」
背の痛みを堪えているのは瞭然ながらも、クロノの声音は存外にしっかりとしていた。リンドはほぅと息を吐く。
その様子を気に留めたのか、王妃ナミは小首を傾げた。
「生きていたのね、カレンさん。離宮から逃げて行方知れずと聞いたから、てっきり……」
「ナミ、さん」
突然言葉を掛けられ、リンドは戸惑った。
「貴女……が」
「日本人が後ろ盾もなくこの世界で暮らすのは大変だったでしょう。カレンさん、折角苦労して逃れられたのに、何故わざわざ王宮に戻って来たの? ここがどんなに無慈悲な場所か、知っているでしょうに」
あまりに淡々と言われて、リンドは王妃の真意をはかり兼ねた。気遣われているのか、皮肉の類いか。彼女の口振りからわかるのは、王宮を疎んでいるという一点だけだ。
「不思議ね、カレンさん。あなたが追い出されたときも、王子と仲が良いようには見えなかったけれど。ずっと可哀想な娘だと思っていたのに」
「……気に掛けていただいたのは恐縮ですけど、別に仲が良いも悪いもありませんよ。それよりナミさん、訊いてもいいですか」
「どうぞ?」
「聖女サユを……いえ、敢えて言います。美杉さゆさんを殺したんですか、貴女が」
ナミの返答はなかった。
代わりに口端が僅かに上がる。沈黙がむしろ肯定と言わんばかりの微笑みだった。
「……っ。じゃあ、カスガさんも貴女が? いえ、実際にルグレイで手を下したのは、セイン様だったんですね?」
「カスガさん……というのね。その気の毒な娘は」
「後藤春日さんです。まだ高校生くらいの女の子だったんですよ。私たちと同じで、何もわからずこの世界に来てしまっただけなのに……」
「そうね。わたしもそのくらいの年齢だった」
ナミの表情は崩れない。
何を言ってもまるで暖簾に腕押しのような手応えのなさを感じて、リンドは歯噛みした。
「あの子たちが、何をしたって言うんですか」
「あなたはサユさんを恨んでいないの?」
煽るつもりはないのだろうが、ナミは簡単にリンドの古傷を抉る問い掛けをした。
「サユさんが現れなければ魔女なんて言われず、無下に扱われることもなかったでしょう。全然恨まなかったの?」
「さて……どうでしょう。関係ありませんよね、それ」
「別に気にしないで。カレンさんがサユさんの死を悼む理由があるのかと思っただけ。カスガさんという娘だって、知らない相手でしょう。何を怒るの? 正義感?」
「いつになく饒舌だ、母上」
遮ったのはクロノだった。
苦痛に顔を歪めながらも、眼光は鋭く実の母親を射抜く。身内ではなく敵として見据えている。
「信じたくはなかった。貴女が同郷の娘である聖女サユ、また聖女の可能性があったカスガを殺した……など」
「そう? 気づいてはいたくせに」
王妃もまた、実の子に対するには冷た過ぎる眼差しをクロノに向けていた。
「さらに父上を……オルフェン国王を弑したのも、母上、貴女なのですね」




