23.緋色の恋情4
少女の本当の名はアルテといった。
ルグレイのジャン少年が知っていたのは、当然にリンドではなくアルテの方だ。
視力を持たず、貧しい環境で暮らしていた彼女が、あの年齢まで生き延びたこと自体が奇跡だったのだろう。リンド出会った時点で、すでにアルテの生命は風前の灯に近かった。
病身の祖父と盲目の孫娘が暮らす小さな家に、リンドは偶然入り込んだ。
アルテとは、ほんの数日間だけ共にいた。
リンドが渡した小銭は飢えを凌ぐ多少の手助けにはなったが、アルテの衰弱はとうに回復できる段階を過ぎていた。
無情な瞬間は、すぐに訪れた――。
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「……あの子が死ぬ間際、私の腕を掴んだんです。そうしたら気を失って、目が覚めたときに私は彼女の姿になっていたました」
「それは……その子の、アルテの異能、だったのか?」
「吸収とか、同化とか……名称はわかりませんが、多分、相手の生命力やら何やらを奪うものだと感じました」
今となっては確認する術はない、とリンドは曖昧に嘲笑った。死から逃れたい願望が、異能となって顕現したのかもしれない。リンドはそう想像するが、真相は藪の中だ。
「私を取り込んで延命できたなら、それも良かったんじゃないかと思いますけどね」
これはリンドの本心だった。
身を寄せ合った哀れな少女が自分を利用して助かるなら、リンドは本当に構わなかった。当時は絶望とまでいかなくとも、生きることはとても虚しかった。
故郷を遠く離れ、誰にも必要とされず、むしろ害悪だと批難された。そんな環境で、誰が前向きに生きられるというのか。
「だけど……残ったのは私でした」
自分を救う能力が開花したにも拘わらず、アルテはあっさりと亡くなった。何故かアルテの身体に乗り移ったかのようになったリンドは、意識を取り戻すや否や、幼い自我がもうこの世のどこにも存在しないことを知覚した。
「死してなお、持続する異能はある。以前そう仰ってましたね、クロノ様」
まさしく盲目の少女の異能がそれだった。ずっと目の前にいた幼い姿が証拠なのだから、細かい説明の必要もなく誰もが納得できるだろう、とリンドは多くを語らなかった。
「結果として、その子の肉体だけが君と合わさってこの世に残ったと、そういう訳か」
「ええ。まあ先程の光……クロノ様の異能で、その残滓も消えてなくなりましたけれど」
力を行使したクロノは当然に把握していたようだが、エドとセインは聞いて初めて気がついたのか、「あ!」と声を上げた。
聖女の血を継ぐ王家の直系――王太子エディアラードの持つ異能は明白である。現時点でこの国において最も有用な能力だ。
魔獣はもとより、ありとあらゆる異能を封じる力。封印の異能とも呼ばれる、建国王と同じ種類の力。
(聖女が以前、魅了を封じたのと同じ――)
思い返すほどに苦い記憶だった。
黒髪黒瞳の異世界人だからと奉られたのは、端からリンドの望みではなかった。知らぬ間に得た魅了の力も、殆ど自覚なく揮っていた。
なのに――この国の人間が勝手に聖女と思い込んだだけにも拘わらず、本物が現れた途端、魔女だの騙りだのと罵られた。
恨んではいない。そこまでの強い怒りはない。
幼い少女が不遇の中でも他人を憐れんでくれたときに、リンドは嘆くのを止めたのだ。
それに自分を追い落とし弾劾した聖女サユすら、すでにこの世にいない。
当時リンドの処遇を決定した最高責任者は国王だが、彼もまた殺されている。どうしても行き場のない感情をぶつけるとしたら、残った唯一の相手は王太子エディアラード、つまりクロノになる。
(それも何か違う)
ボロボロだった三年前ならいざ知らず、少女の姿で生きた時間を経て、リンドの精神状態は落ち着いている。これはもともとの性格によるものが大きい。
(私は耐えられたし、結果的には大丈夫だった。でも)
「クロノ様、魔獣は今、クロノ様の力で抑えているのですよね。その前は、国王様と王妃様のお二人が封じていた……で合ってます?」
「その通りだね」
リンドが尋ねると、クロノは首肯した。
「魔獣の封印は基本的にその代の王と妃の仕事だ。ひとりでも可能だが、封印が緩いと地上に影響が出る場合もある。万一のことも考えて歴代、王家の者が二名で取り組む」
つまり、とリンドのみならず、エドとセインも緊張で息を呑んだ。時を置いて齎された二度の地震が、いったい何を意味するのか。示唆されなくとも理解するのは難しくない。
「幸いにも、両親より私の方が異能の力が強かった。これまであまり使ってこなかったしね。当面は問題ないよ」
「だがクロノ……顔色が悪い」
いつにも増して曇った表情のエドが、不安を煽る意図でもなく、純粋にクロノを気遣う。
「……問題ない」
言い切ったクロノの声は、しかし真逆の感情を乗せて響いた。理性に何もかもを押し付けて、不安や後悔を先送りにしている。少なくともリンドにはそう聞こえた。
「地下に、行きましょう」
未だ事態が終息していないことを悟り、リンドはクロノに促した。無論、最初からその腹積もりだったには違いない。
「わかっているよ、リンド」
達観するにはまだクロノは若過ぎる。
怨嗟の楔を穿ったのは、悲劇の生みの親は誰なのか。予想しながらも苦渋を隠し切れない様子を見て、リンドは対岸にあり続けることができなくなっていた。
「クロノ様」
「ああ、行こうか」
「……クロノ様、私はそうはならなかったけれど、気持ちはわかるんです。だから」
「うん、そうだね……それでも」
リンドの曖昧な言い回しも、クロノには通じていた。覚悟の片鱗が碧眼に宿っている。
「国も人も、やってきたことの責は負うべきなのだと、私はそう思っているよ」
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地下の薄汚れた床には、ひとりの女が倒れ臥していた。傍らには男がひとり、ぐったりと脱力して座り込む。
女が暴れたのか、男の肌には引っかかれた跡があった。精悍な面に傷が増えている。
「ったく、無駄に抵抗しやがって」
男――ルードルフは、乱暴に舌打ちした。
彼は見た通り決してひ弱な研究者ではないが、戦闘やら暴力やらは門外漢である。
「あんたもまあ……可哀想とは思うけどな」
反応しない女に、ルードルフはなけなしの憐憫を込めて語りかける。尤も、理解するには遠い立場の相手だ。心の奥底から同情している訳ではなかった。
「さて、魔獣の封印は――王太子殿下か」
ルードルフは女から視線を動かし、巨大な地下空間の多くを占拠する物体を見遣った。
白い巨体は幻獣に酷似しているが、桁違いに大きい。少しでも身動きすれば地揺れが起こるのも当然だった。その存在感は魔獣の名に相応しく禍々しかった。
魔獣は一時、目を覚ましかけていた。しかし即座に謎の光が地下まで届き、その後は再び鎮まっている。危ういところで間一髪、王太子エディアラードが間に合ったということだろう。
「皮肉な話だ。王太子殿下があんなに動き回るとは、俺も思ってなかったぜ。計算違いだったな」
封印が相当強力なのか魔獣はピクリともせず、無機物のように鎮座するだけだった。
何代にも渡り王家が封じてきた災厄は、再び眠りを得た。果たして次は幾とせを数えるだろう。いつまでオルフェン王国は護られるだろう。またいつか異世界の聖女が現れれば、奇跡は続いていくのか。それとも……。
「まだ終わってはいない、か。……なあ?」
独白のはずの言葉は、言い終わらぬうちに聞く相手を見つけた。しゃがんで足を放り投げた姿勢のまま、ルードルフは不敵に告げた。
自分が下りてきた地下に至る階段に、複数の足音と気配を確認したからである。
揺れる空気に用心と緊張が伝わる。
ルードルフの前に現れたのは、想定通りの面子だった。
「遅かったじゃねぇか、クロノ殿」
「……ルードルフ殿」
薄灯りの中でも見間違いのないほど、相手は特徴的な容姿をしている。
金髪碧眼は王家の血に現れる特徴だ。聖女の――異世界人の黒の色彩はこちらの世界の血が交じると殆ど遺伝せず、王の直系は大抵父親の色を受け継ぐ。研究者の間では周知の事実である。
「待ってたぜ。エディアラード殿下」
悪びれもしないで、ルードルフはヒラヒラと手を振った。顔を合わせるのはリンド誘拐から奪還の一幕以来である。あのときクロノに邪魔をされたのは業腹には違いなかったが、今更根に持つのは馬鹿らしいと思っていた。
さらに、ルードルフはクロノの傍らにいる黒髪の成人女性の姿を認めて、如何にも可笑しそうに、ククッと笑った。
「あー……そうか。戻っちまったんだな。子どものフリも大変だったろ。見てる分には愉快だったが」
「災難だったな……お嬢ちゃん」




