22.緋色の恋情3
「ッ!!」
震源地はまさにリンドがいる場所の――地下に違いなかった。身体が宙に浮くほどの揺れは、王宮の建物に亀裂を生じさせる。
一度目とは比較にならない。単純に原因からの距離の近さもあろうが、耳に響く轟音が危険信号をリンドに伝える。
最初の地震はおそらく国王の死によって齎された。今回さらに魔獣の封印の箍が緩んだのだとしたら、王妃が原因だろう。
そう推測して、リンドは危機感を募らせる。
(これは……かなりマズイ!)
王宮が瓦礫になる前に避難するしかないと判断し、リンドは幻獣を喚ぼうとした。
靄が広間を覆い尽くす。
だが白煙は獣の形を作らず、幻影は実体化しなかった。代わりに、眩い光がどこからともなく発生し、周囲を照らす。
「え……!?」
光が一帯に降り注ぐのと同時に、リンドは全身の体温が急激に下がっていくのを自覚した。
段々と揺れが静まっていく。
安堵よりも恐怖の感情がリンドの背を走り抜けた。
今の光には覚えがある。
(いや……嘘、なんで)
凍てついたはずの記憶は、三年前に遡ってリンドの心を穿ち、古傷を刳り返す。
(あのときの、あの子と同じ力。異能。忘れてない。……ああ、でもあのひとなら、今ここで使うに決まってる)
リンドは耐え難く膝をついた。
最早この身を支えることはできない。
「リンド……?」
エドの驚愕に満ちた声が聞こえた。リンドはその視線から逃れるように、思わず顔を伏せた。
+++++
「リンド……なのか?」
「えっ……あれが? まさか……」
エドとセインは殆ど重なるように呟いていた。
漏れ出たのは驚愕だけではない。
再びの地揺れだけでも混乱しているのに、眼前の光景はもっと衝撃を与えるものだった。
先程まで臨戦態勢だった少女――否、おそらく少女であったはずの存在は両手を床について、荒い呼吸を繰り返していた。
「リンド……いや……」
違う、とエドは頭を振る。
何もかも違う。
身体の大きさも、髪の色も瞳の色も。
まるで入れ替わったかのように、まったくの別人がそこにいた。
強い意思を宿していた朽葉色の双眸が、今は漆黒に濡れている。乱れた髪も深淵の闇を纏っていた。
――黒髪黒瞳。
その身体的特徴が意味するところを知らぬエドではない。しかも目の前に現れた人物は、十代の少女でなく成人した若い女だった。誰何するより先に名は自然と口に出た。
「……カレン妃?」
かつて聖女に祀られた異世界人の女。
王太子妃。
幽閉先から消えた魔女。
己の名に反応してか、黒髪に覆われた華奢な肩がぴくりと揺れた。服はリンドが着ていたものだ。白い肌が見え隠れする。急に身体が大きくなったために規格が合わず破れてしまったのだろう。
「リンドが……カレン妃?」
「ちょっと待ってください、エド様。そんなまさか、あり得ないでしょう?」
「見たままだ」
「別人になれる能力なんて、聞いたことありませんよ」
当然ながらエド自身、納得し切れてはいない。セインの言う通り、他者に成りすます異能など初耳である。
それに彼女が真にカレンであるならば、そもそも能力が異なる。トクサの魔女が持っていた異能は、忌むべき魅了の力だったはずだ。
「ですが、それでは……あの方は、知って」
「――知っていたよ」
不意に――セインの言葉を遮って、落ち着いた声が割って入った。エドが背後を振り返ると、よく見知った従兄弟の姿がそこにあった。
「クロノ……」
いつの間にか、何の気配もなく謁見の間に入って来たクロノは、戸惑うエドとセインの脇をすり抜け、そのまま玉座の方へと足を進めた。
国王の遺体を目に留め、一瞬眉を顰める。
しかし視線はすぐにリンド――であった黒髪黒瞳の女に戻された。女――カレンもまた、クロノが近づくのに気づいて面を上げた。
「……ああ、やはり君だね」
クロノは警戒もせず、着ていた外套を脱いで女の肩に掛ける。一見淡々とした態度に思えたが、声音にも動作にも僅かな緊張が含まれているようだった。
「こうして顔をちゃんと見るのは、華燭の典以来だな」
「輪堂花蓮」
ゆっくりとクロノが呼び掛ける。
黒い瞳が大きく瞠かれた。
「……憶えてらしたんですか」
「そうだね。初めてあったときに一度聞いたきりだったが、忘れるほど薄情じゃあないよ」
「なるほど」
リンド――カレンの唇が震えた。
「ははは。……そうですか。光栄です」
半笑いが虚しく、悲しく宙に響く。
クロノの手がピシャリと払われた。
「……!」
「私もですよ」
「最初にうかがった本名、きちんと憶えてますよ。当時はわりとまあ、必死でしたから」
「リンド……いや、カレン」
「リンドで結構。いえ、今一度だけ再会のご挨拶をいたしましょうか? この姿でお会いするのはお久しぶりです。尤も仰られた通り、お互い明るい場所で顔を合わせたことなどついぞございませんが」
「エディアラード・クロノ・オルフェン殿下」
+++++
乾いた微笑を浮かべながら、輪堂花蓮は立ち上がった。大人の女性らしい身長と体躯は、朽葉色の瞳の少女と似ても似つかない。長い黒髪は少し荒れているが真っ直ぐに流れ、顔立ちも無論まるで異なる。
鏡があれば、輪堂花蓮は取り戻した自分の姿を見て何を思っただろう。十九歳から二十二歳になった。変化といえばそれだけだけだ。
逆に眼前の王太子は十六歳から、以前の輪堂花蓮と同じ十九歳に成長している。少年から青年に。時間の価値は万人に平等ではない。
たった三年、或いはもう三年、なのか。対峙する距離は近くとも、精神的な隔たりを取り払うのは難しく思えた。
「エディアラード殿下」
輪堂花蓮は淡々と、かつて夫だった相手に告げる。
「でも敢えてクロノ様とお呼びします。私はとっくにカレンであることを捨てたんです。リンドが会って話したのは、王太子殿下ではなく騎士のクロノ様ですから」
「わかった。では私もリンドと呼ぼう」
クロノの隠し名を使っていた王太子エディアラードもまた、何の感慨もないかのように、妻だった相手の言い分を受け入れた。
彼ならそうするだろうと予想していた輪堂花蓮――リンドは軽く頷き返した。
「どういうことだ……?」
「いやいやいや、何が何だか」
二人の様子を見て唖然としたのは、当然エドとセインである。リンドは彼らには敢えて、少女だったときと同じ笑みを見せつけた。
「エドヴァルト・マルズ・イシュラ公爵閣下」
「!」
「確か先王の庶子、降嫁された王妹リジーナ殿下のご子息ですよね。王宮にいた頃にお会いしたことはありませんでしたが」
「……ああ。お前、いや、貴女は表舞台に立ったことはなかろうに、よく知っていたな」
「公務もなく殆ど軟禁状態でしたからね。暇潰しで貴族名鑑を読んでいたんですよ。セイン・ユピティル・アークヴェイ様は、伯爵家のご子息でよろしかったですか? ルードルフ先生は三男か四男と仰っていましたが」
「えっ……あ、はい。末弟です。四男の」
「お二人に黙っていてごめんなさい。まあ別に、クロノ様にも自分から暴露した訳じゃないんですけどね」
素に近い話し方をしていても、容姿によって反応が変わるのは致し方ないことなのだろう。一抹の寂しさを覚えつつ、リンドは嘆息もせずそれを許容した。
むしろ殆ど態度に差異が見られなかったクロノが特殊なのだ。さすがに気づかれたこと自体はあの夜すぐに察したが、当初から怪しまれていたとは思いも寄らなかった。
そして腹心たちにも口外せずにいたことも。
「って……エディアラード殿下」
「リンドちゃん……の正体がトクサの魔女、いえ、カレン妃殿下だったのを、いつからご存知だったんですか……?」
「何故……黙っていた? クロノ」
「確信を持ったのは、ルグレイで君らと別れる直前だったんだよ。話す時間はなかった。……話す気もなかったのは、事実だけれど」
クロノは従兄弟と配下に向けて苦笑した。
「本当はね、最初から名前には引っ掛かってたんだ。それに三年前カレンに会ったなどと言うから、疑わざるを得なかったよ。しかしリンド、あれは……本当の話だね?」
「ええ、そうですよ」
尋ねられ、リンドは素直に肯定した。
「三年前、確かに私は皆さんがリンドの姿と認識していた朽葉色の瞳の――盲目の少女と出会いました」




