20.緋色の恋情1
玉座は血濡れていた。
座っているのはオルフェン王国を統べる王、ファルフォード・サトゥヌ・オルフェン――ファルフォード三世の遺体だった。短剣で心臓を抉られている。血の乾き方からして、丁度地揺れが襲った頃だろう。
ルードルフ・ハディス・バッハマンは遺体の他に誰もいない謁見の間で、大きく舌打ちした。
「ったく、酷ぇ有様だな。自国の王よりも手前の保身か。だから嫌なんだよ、王宮の連中ってのは」
愚痴りつつも、ルードルフ自身が平然としている。そもそも貴族としては破天荒な部類に属する彼が、大して面識のない国王の死に感傷的になる理由はなかった。
ここに辿り着く前、ルードルフは王宮内各所で右往左往する官吏、侍従や女官を見た。すれ違いざまに尋ねても、口々に違うことを答えられた。
近衛は『両陛下はすでに王宮より避難されたはずだ』と言い、侍女は『高官の皆様を集めて議論されているのでは?』と言い、下男は『恐怖のあまり私室に籠もられているとか』と言い、事務官は『王宮騎士団を城下に派遣し、事態の収束に当たっていると聞いた』と言い、大臣は『人払いをして、謁見の間に入られるのを見た』と言う。誰しもバラバラで要領を得ない。
そのうえ自分たちは一刻も早く王宮から逃げ出さんとしている。主君の安否は気にならないのか、と突っ込みたくもなるが、本能に刻まれた恐怖は如何ともし難いのだろう。
ここはオルフェン王国の王都、それも魔獣の眠る真上に建った王宮だ。初めて経験する地揺れは天変地異にも等しい。誰もが生命の危険を察知し、少しでも早くその場から離れたいと願い、焦燥に駆られるのは当然だった。
「とは言え……この事態は予想外だろうな」
謁見の間の周辺は閑散としていた。
国王が周囲に誰一人置かず、孤独に息を引き取っているなど、非常を通り越して異常事態も極まれりだ。
ルードルフは国王の遺体をそのままに、その背後に回る。王宮でも限られた者しか知らないが、実は荘厳な玉座の背は隠し扉となっている。
「解錠されている、か。すでに誰か……」
引き手が簡単に動かせたことから、ルードルフは先客の存在に気づく。隠し扉を開けると床に空洞があり、狭い階段が地下へと続いていた。
ルードルフは手燭で灯を掲げ、階段を進む。
果てしなく遠く感じた。
王宮の地下が意味するところを、オルフェン国民であれば察しない訳がない。根源的な恐怖が緊張感を誘う。ルードルフは柄にもなく嫌な汗を掻いていた。
やがて階段は途切れ、空間が広がる。
生暖かい空気がルードルフの肌に触れた。
徐々に大きくなる地を這うような音――呻き声だろうか。
良好でない視界に、何やら白い大きな塊と、その傍らに佇むひとりの人物の後ろ姿が映った。
黒い髪を結い上げた、細身の女。
「あんたが……真の魔女って訳か?」
ルードルフは危険も顧みず声を掛ける。
黒髪の女はゆっくりと振り返った。
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都市部であれば幻獣使いはそれなりにいるので、リンドが上空を鷲獅子で駆けても、見咎められはしなかった。
それどころではない、ということだ。
城下町の至るところで、暴動めいた騒ぎになっている。民家の倒壊は少ないものの、二次被害の火災もある。さらには火事場泥棒のような輩も出てくるだろう。
現時点では地震自体の経験がない故の混乱が主なので、クロノが騎士団――軍を掌握し、国の中枢が未だ健在で機能していると伝われば、多少は住民を落ち着かせられる。
しかし諸悪の根源への対処も急を要する。
魔獣の封印が綻び、その完全な覚醒が近い。
地震の瞬間に、まさかと戦慄した。王都で何かが起こると言ったものの、ここまで事態が加速するのは、完全にリンドの予想の範疇を超えていた。
たとえ聖女殺しの最終目的が魔獣の復活にあり、その延長線上に王国の滅亡を見据えていたとしても、封印の要はまだ複数存在する。国王夫妻と王子が同時に倒れなければ猶予はあるはずだった。
(もしかして)
可能性は幾つもない。
誰が実行犯で、黒幕が何者なのか、リンドにはわかる気がした。或いは動機すらも。
(だとしたら、クロノ様の手にも負えない。でも)
暗澹たる気分を無理矢理払い退けて、リンドは幻獣の飛行速度を上げた。
王宮の建物は未だびくともしていない。
まだ間に合う。きっと間に合う――。
衝突するほどの勢いで、リンドの乗った鷲獅子は王宮の中央に突っ込んだ。
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王宮内はもっと宮仕えが走り回っていると思ったが、意外にも残っている人間は少なかった。
すでに避難した後なのか。そんなに統制が取れた連中だろうか、とリンドは首を傾げる。沈む船から逃げ出す足だけは早いというだけかもしれないが。
時折すれ違う人々も、リンドに構っている余裕はなさそうだった。何しろ豪奢な城に、如何にも不釣り合いな貧民の子どもがうろうろしている。平時であれば誰何され、拘束されそうだ。職務に忠実な者はいないらしい。
尤もすでに中枢機能を別の場所に移して、首都が麻痺しないよう動いているのかもしれない。国民のためにもそうであってほしい、とリンドは切に願った。
罪なき無辜の民が犠牲になるのは最小限に止めたい。そのために今、クロノが尽力しているのだから。
リンドは幻獣を還して王宮の中を走った。
中央広場から――謁見の間へ。
迷いようがない。
湧いて出る重圧が、空気の色さえ変えていた。地下で眠る、否、起きかけている魔獣のものなのだろう。
赤い絨毯に導かれ、リンドは重厚な扉を開いた。
「……!」
半信半疑だったとはいえ、実際に「現場」を見せつけられれば動揺は免れ得ない。リンドは一瞬、茫然とした。
鎮座する国王――の顔はリンドの記憶にはないが、玉座にいるのだから、おそらく国王だろう――は血に染まっていた。生気の欠片もない白面と弛緩した身体は、あからさまに死を感じさせる。
近づくと、死体であることがはっきりと窺えた。
装飾のある高価そうな短剣が胸に突き刺さっている。傷口が異様に変色しており、直接の死因は失血ではなく毒の可能性もある。
先刻の地震は、国王の死のせいに相違ない。封印の箍が緩み、魔獣の力の一端が漏れたのだ。それでも完全に解けていないのは、聖女の力を持つ異世界人の現王妃と、その血を継ぐ王子が残っているためか。
しかし綻んだ穴から何がどう作用するのかはわからない。弱点を刺激するやり方だってあるだろう。
(魔獣の眠る地下……は、玉座の裏側。隠し階段)
一般人が知るはずもない情報を、リンドはすでに聞いていた。一生使わなくて済んだ方がいい知識だが、躊躇ってもいられない。
リンドは床の血を避けながら、遺体の横を通り抜けた。
「――何をしている」
「!?」
そのとき、開きっ放しの扉から入って来た人物があった。
突然の声に驚き、リンドは動きを止めた。
「陛下から離れろ。リンド、お前がやったのか」
「……エド、様?」
「な、な……陛下? え、まさか……これはいったい」
「セイン様も……」
現れたのはエドだった。
一歩下がってセインが続く。
「どうして、ここに」
彼らはルグレイの街に取り残されたため、その後クロノを追って来たとしても、距離的にこんな早く王都まで辿り着くのは不可能だ。
「こちらの科白だ」
警戒心も露わに剣を抜いたエドが、今にも襲いかからんばかりの険しさでリンドを責める。
「市井の子どもが来れる場所ではない」
「それは、ですね……」
厄介なことになった、とリンドは内心で頭を抱えた。
客観的に見て、自身の置かれた状況が不審過ぎる。他殺体とまるで王宮に似つかわしくない貧相な子どもの組み合わせは、エドでなくとも声を上げたくなろうというものだ。
どんなに弱者に甘い側面があっても、エドの立場では見逃せる道理もない。ここにいないクロノの説明をして、聞いてもらえる余裕があるだろうか。何しろ死んでいるのは、彼らが頭上に戴く国王陛下なのである。
「お前は何者だ、リンド」
案の定、エドは完全にリンドを疑ってかかっている。後ろで控えるセインがうろたえるほどだ。
「ちょ、エド様。そんないきなり訊いたって、本当に怪しい輩が白状する訳ないでしょうが」
「腹芸は好かぬ」
「いや、そうでしょうけど……」
(うわぁ……聞く耳持ってなさそう)
もともと頑なな性格なだけに、その場限りの誤魔化しは通用しそうにない。時間が惜しい中で、面倒極まりない事態である。
それにしても、エドの敵意は極端に思えた。
リンドがルードルフに攫われたのも、クロノが独断で助けに赴いたのも、エドは承知しているはずだ。その後二人で王都に向かうことは、途中の街でクロノが報せを送っていた。尤もエドたちもルグレイから動いてしまっているので、すれ違って届いていないのかもしれないが。
「クロノは……どうした? まさか」
「いやいやいや、早まらないでください。クロノ様は騎士団のところです。住民の避難とか救護とかのために、一度そちらの指揮を優先したんですよ」
「……ほう」
慌ててリンドが弁明するも、エドは半信半疑で剣を構えたままだった。
「それで?」
「じき、王宮にいらっしゃいます。私は先に様子を見に来ただけです。そしたら……こんな惨状で」
「……どう思う? セイン」
ある程度理屈は通っていると思いながらも疑惑は払拭できないのか、エドはセインに考えを尋ねた。
「うーん? 確かにあの方なら、そうなさいますから違和感はないですよ。ですが、リンドちゃんをひとりで行動させますか?」
「尤もだ。リンドは部下ですらない」
「ええ。雇用関係はあっても、出会って幾許もない女の子をそこまで信用するようなお人柄ですかねぇ」
リンドはぐっと言葉を詰まらせた。
確かに彼らの言う通り、クロノが裁量を任せる相手と主張するには、リンド如きでは説得力に欠ける。すでに対価で動くような局面ではないため、金銭目当てでもあり得ない。
「やはり怪しい」
エドは殺気を纏いながら歩を進めた。
「あー……いや、しかしエド様、怪しいのは同意ですけど、相手は女児です。らしくないですよ。子どもの異能者なんて、言ってもせいぜい誰かに利用されているくらいが関の山でしょう」
「どうだかな」
セインが制止しても、エドは主張を変えなかった。さらに数歩、リンドとの間隔が縮まる。
「……さて、リンド。お前には恩もある。無体な真似はしたくない。正直に答えてくれ」
「そう仰られても、今の説明がすべてですよ」
「そうではない。そちらではなく……ルグレイの窃盗未遂の子どもが言っていた件だ」
「は……?」
「ケムビでのお前の知己という話だが」
「……ジャンとかいう子のことなら、私は憶えてませんよ」
いきなり話を変えられたかのように思い、リンドは困惑した。エドの意図がわからなかった。
スリの少年――ジャンが本当にリンドの顔を見知っていたとしても、昔のことだ。ケムビでたいした人付き合いもなく生きていた少女は、ほんの少し関わった程度の隣人などとうに忘れてしまっている。それで不自然はない。
「生憎と、あのジャンという子どもはお前のことをよく憶えていた。祖父と慎ましく暮らす、儚く弱々しく……不自由な少女だ」
エドは眼光鋭くリンドを睨みつけた。
「見た目は変わらないが、今のお前とは違う」
「何があった?」
「何って……」
「お前が変わったのには理由があったはず」
剣の先がリンドに向かう。
多少の距離があっても強引に届かせることは不可能でない。リンドは寒気を覚えて後退った。
「彼女……カレン妃と出会ったからなのだろう?」
「エド、様」
「三年前――」
「本当は……お前に何があった?」




