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17.紫の竜胆3

「え、子……って。エド様って結婚してたんですか? まだお若いでしょう?」

 普通に吃驚して、リンドは声を上げてしまった。

十九歳(じゅうく)だよ。私と同じ」

「はあ、クロノ様もお若いですね」

「君に言われると……なんだかな」


 十五歳で成人する国では、結婚していても子どもがいてもおかしくはない年齢である。況してや貴族であれば、幼少時より決められた政略結婚が殆どだろう。

 所帯じみたところがひとつもないので、妻帯者だとは思いも寄らなかった。特にエドはあの仏頂面では、家族団欒の絵を想像するのは難しい。


「子に不幸があった原因は彼ではないが、奥方とは上手くいかず別居している。エドも器用とは程遠い性格だから、一時期、公務との板挟みでどっちつかずの状況になってしまったんだ」

 まるで自分のことのように、クロノは辛そうに語る。従兄弟にして幼馴染という立ち位置は、思った以上に近しい関係性らしい。

「確かに……エド様でしたら、私情で仕事を放り出すのは無理でしょうね。でもご家庭だって大切にしていたはず」

「うん。でも表面上は普通にしていたよ。ただ心は妻子に向いていたんだろうね。だから……と言うのか」

「?」

「エドはそのせいで、聖女サユが殺されたと自分を責めている。彼女を護るべき立場にありながら、注意を欠いたと」

「……それは」


 道理が違うのではないか、と口にしようとして、リンドは言い淀んだ。事情を知らぬ部外者が容易に断定できるものではない。


「私には、正直わかりませんけど」

「そうだね。ただエドにとって、個人としてサユが大事だった訳ではないからね」

「疎かにしたかもと?」

「手を抜ける男じゃない。間が悪かったんだよ。愛した相手と義務で接する相手とでは、比べられないだろう?」


 身内贔屓なのか、事実なのか。

 リンドにはクロノの心情もエドの真実もよくわからなかった。そもそも妻子や家庭など想像の彼方にある。

 小さな街で、老人に対する責任だけで生きていたリンドに、いったい彼らの何が知れるだろう。


 エドは聖女より妻子を想っていた。

 当然だ。国のため家のために尽くしたとて、自らの基盤が揺らげば意味がない。


「でもクロノ様だったら、義務の方を優先するんじゃ……あ、いえ、すみません」


 無意味な質問をしそうになり、リンドは慌てて口を噤む。今更訊いても詮のないことだ。


「私だったら?」

 しかしクロノは急に真顔になった。

「いえ……その、ええっと」

 リンドは苦笑いする。あまりにも藪蛇で、尋ねるにも無神経が過ぎた。慌てて両手を上げて否定したが、残念ながらクロノは見逃さなかった。


「愛情よりも仕事を択る人間に見える訳かな?」

「いや、えーと、だってクロノ様はなんていうか、絶対に惚れた腫れたでは生きてないでしょう。たとえ奥さんとか好きなひととかが……いたとしても」

「好きなひと……か」

 クロノは僅かに口端を上げた。

「いるよ。いたかな。……気になる?」

「え。いえ?」

「もう諦めてるけど、本当はね」

「いや、だから別に」

「そのひとと、一緒に生きていきたかったよ」

「……え」

「色々あって、嫌われてしまったんだ。それに立場的にも無理なのはわかっていたから」

「ど、して」


 寂しげに語るクロノは、どこか遠い目をしていた。映っているのは憧憬か悲痛か後悔か。


(どうして……なんて)


 自分にそれを告げるクロノの心情が理解できず、リンドは疑問をぶつけることができなかった。

 自分が思うより、リンドはクロノを未だよく知らないままなのかもしれない。

 地位があり、付随する責任と義務を負い、自由に生きるのが難しい立場にある男。下手をすれば国家の存亡に関わる事件を追いながら、彼は何を考えているのだろう。


 関係ない、と言い切るには関わりが深くなっている。すでにリンドには自覚があった。

 本当は逃げようと思えば、一切合切を捨て去ってクロノの前から消えようと思えば、おそらく何とでもなったのだ。脅されたから仕方ないなど、自分自身に対する言い訳に過ぎない。

 心の奥底では興味があったから、同行を続けた。聖女や魔女、国の行く末もさることながら、ずっとクロノのことが気になっていた。認めるのは悔しいが、でなければ異能を駆使してとうに去っている。


(簡単に()()()()()()()なら……楽だったんだろうね)



「……プシュケーは」



「プシュケーはどうして忘れてしまわなかったんだろう……って、前に私が言ったの、憶えています?」

「え……」

 唐突に――前後の脈絡なく問われて、クロノはやや面喰らったかのように首を傾げた。

「それは……ルグレイに着く前に言っていた?」

「はい」

「……カレン、王太子妃の」

「はい、魔女の」


 三年前の魔女の科白は、リンドであっても一言一句思い出せる訳ではない。暗い気持ちになるのを抑えて、リンドは再び曖昧な記憶を呼び起こした。


「異世界の……神話、だったか」

「そうですね。お伽噺で」


「プシュケーというのは登場人物の名前なんです。美しいお姫様だけど、お告げがあって、泣く泣く怪物のもとへ嫁がされる」

 リンドは落ちていた木の枝で、地面に下手な絵を描いた。言葉だけで物語を巧く伝える技倆はないため、視覚で補助をしている。

「でも怪物と思っていた夫の正体は神様……人智を超えた超越的存在でした。プシュケー自身は途中まで知らなかったんですけどね。実際は優しくて贅沢もさせてくれて妻にべた惚れで、プシュケーは幸せに暮らしました」

「いい話……なのか?」

「前段と後段があるんですよ」


 ガリガリと音を立てて、細い枝が土の表面を削る。男の姿の横に加えられたのは、弓と矢の絵だった。

「言った通り夫は怪物じゃなくて……まあ人外ではあるんですが、絶世の美少年だか美青年だかで、恋心を操る道具を持ってるんです」

「この……弓矢が?」

「ええ。刺された相手は直後に見た相手を好きになってしまうという、鬼畜な力のある弓矢です」

「えげつないな」

 意外にもまっとうな感想が返ってきて、リンドは少し笑ってしまう。


 いや、かつての魔女――魅了の力への反発からして、この国では心を操ることを厭う傾向が強いのかもしれない。お伽噺でなく現実で異能者が跋扈する世界においては、他者を脅かす存在は排除して然るべき。そういう価値観が生じても無理からぬことだった。


「物語はもっとえげつないんですよ。夫……クピドというんですけど、その母親は美の女神……世界一と讃えられる美女でした。なのに世間でプシュケーの方が美しいかもって評判になると、忌々しく思い、貶めようとするんです」

 リンドはもうひとり、女の絵を描いた。

「母親は息子のクピドに、プシュケーに矢を刺して、ろくでもない男に惚れさせるよう命じました。クピドはこっそり、眠るプシュケーに近づいて」

「理不尽な話じゃないか、それは」

「まったくですよ。尤も因果応報とでも言うんですかね。クピドは誤って矢を自分に刺してしまうんです。そしてプシュケーに恋をする。これが前段です」


 ここで男の絵に文字が添えられる。

 怪物、と。


「クピドは怪物に扮して、プシュケーの国にお告げして、彼女を自分に嫁がせます」

「正体を隠したかった?」

「そうです。本当は人間の娘を娶ったら駄目な立場だったとか、母親にバレたら困るとか、理由は忘れましたけど」

「嫁がされた側は気の毒に。そもそもプシュケー本人には与り知らないところで事が起こって、得体の知れない相手に身を捧げたのか」

「ええ。プシュケーは王女様で、お告げには逆らえなくて、最初は泣く泣くですよ」

「ああ……でも結果としては幸せになったんだろう。あまり納得いかないけどね」

「クピドは豪勢な住まいや至れり尽せりな環境を調えて、プシュケーを迎えました。プシュケーは怪物に喰われると思っていたのに、むしろ快適な暮らしを与えられ、夫は彼女をこよなく愛してくれた。ただ……」


 不意にリンドは地面から視線を上げて、クロノをじっと見つめた。僅かに乱れた金の髪が、夜の帳の中で淡く輝く。

「リンド?」

「いえ……ただ、プシュケーは夫の姿を見ることが許されませんでした。夜の暗闇の中でしか会えなかったんです」

「……それは」

 クロノは片手で口元を押さえた。無意識の動作のようだった。


「なんで見ちゃいけなかったのかとか、そのへんの理由も忘れました。なんか異類婚の意味不明なしきたりなのかも」

「オチはわかるよ。プシュケーは見てしまうんだね」

「ええ。プシュケーの幸せを妬んだ姉の口車に乗って、プシュケーは寝ている夫の顔を覗いてしまう。それがバレたので夫は去りました」


「そのときの、クピドの言い分がまた酷くて」

 リンドは面白くなさそうに続けた。

「自分より姉を信じたプシュケーを責めるんですよ。疑いと愛は共存できない……とか何とか。いやいやいやいや、最初から怪物の触れ込みで、姿も見せないような相手をどうやって無条件に信じろって言うんですかね」

 架空の存在に悪態を吐きながら、リンドは苛々と、木の枝を男の絵の上に突き刺した。

「なるほど。で、後段もあるんだよね」

「はい。プシュケーは消えたクピドを探して、諸悪の根源の母親のもとに行きます。そこでまあ、凄絶な嫁イビリというか厄介な仕事を散々押し付けられます。何しろ最初から疎まれていますからね」


 乱暴に扱ったせいか、ボキッと音がして、木の枝の先が折れる。リンドは無造作に、火の中に枝を投げ入れた。


「途中で失敗しそうになりながらも、クピドが裏で手助けして、プシュケーは姑に言いつけられた仕事を何とかこなします。結局、最終的には周囲の取りなしとか何とかで元鞘、みたいな」

「雑だなあ」

「すみません、わりと端折りました。ですが大筋はこんなものですよ」


 クロノは微かに笑った。長い睫毛が瞬いている。

 話を聞いて彼がどう感じたのか、リンドは知りたかった。相手の素顔を見たいと願うのは、きっと神話のプシュケーと同じだ。


「だからカレンは……忘れてしまわなかったんだろう、と言ったんだね。忘れてしまえば良かったのに、という意味で」

「クロノ様」

「自分を責める夫なんか見切りをつければ、と」

「多分」

「どうして……の答えは出たのかな」

「さあ、どうでしょう」


 リンドは(かぶり)を振った。


「……わかりません」

ギリシャ神話は当事者主観

曖昧な記憶から参照しています

詳しく知りたい方は適当にお調べください

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