16.紫の竜胆2
『竜胆』
黒い墨で書かれたはずの文字は、光の中で紫がかって浮かび上がっていた。
カスガが生前に書いたリンドの名前だ。
紙から放たれた光がリンドの周囲で円を描き、薄い膜となり球体を作る。投げ出された位置で、リンドの身体は落下を止めた。
(何……? 守護!?)
気配だけで、リンドは自分が守られている事実を悟る。下方ではクロノとルードルフがただただ驚愕していた。
(呆けてたら駄目だ!)
何が起こったかは判然としない。
だがリンドは困惑を振り切って集中力を取り戻した。
確信があった。きっと今なら幻獣を喚べるはずだ。
(来て――)
慣れた感覚で、リンドは虚空の彼方に想いを託した。
漆黒を切り裂き、純白の咆哮が具現化する。
異形が巨大な鳥の形を作る。孔雀に似て非なる巨大で優美な姿は、鳳凰とでも呼ぶべきか。
鳥の幻獣は空を飛翔しながら、宙に留まるリンドを背に拾い上げた。
(……クロノ様も!)
リンドの意思が幻獣を動かし、低空へと向かう。
「リンド、無事か……!」
ルードルフと睨み合いながらリンドの様子を窺っていたクロノは、機敏に反応して馬から幻鳥へと跳び移った。
「チッ」
舌打ちしながらルードルフも後を追うが、もう間に合わない。どんな駿馬でも、幻獣の速さには敵うはずがなかった。
白い鳳凰は空高く舞い上がる。星が空を流れるように、光の尾は瞬く間に、遥か遠くへとかき消えた。
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リンドとクロノを乗せた鳳凰の幻獣は、相当の距離を飛んだ。速度も高度も通常人間が耐え得る限界を超えている。無事なのは幻獣使いの力もあるが、謎の守護の力がずっと維持されているせいでもあった。
紫を帯びた光が、ずっとリンドの周囲を覆ったままだ。傍にいるクロノにも効力が及んでいる。
やがて幻鳥は地上に下りた。
大きな湖の畔だった。
「カコラ湖だな。王国最大の湖」
空から湖の形状を確認していたクロノが言った。
幻獣が消えると同時に、リンドの守る力もなくなり、辺りは再び夜の静寂を取り戻す。
クロノの持つ携帯用の角灯だけが、ぼんやりと狭い範囲を照らしていた。
「おいで、リンド。拘束を解こう」
ようやくリンドの手が解放され、口から布が外された。はあっ、と大きく息を吐いたリンドは、疲労感で最早立つこともできなかった。
「……ありがと、ございました。クロノ様」
「私は何もしていないと思うけどね」
クロノはリンドが落とした紙を手にしていた。あの混乱の中、いつの間に拾い上げていたのだろう。
「それ、カスガ……様が、書いた」
「この字を?」
「私の……リンドって名前を日本語の、漢字で書くと、これだって。花の名前で」
「なるほど、合点がいった。異能だな」
今はもうただの紙でしかない四方型の奇跡を、クロノはそう分析した。
「遠隔にも作用できる守護の力だ。おそらく文字が媒体になるんだろうね。名前を書くことで、対象を指向して力を発現できる」
「文字が……違くても?」
「カスガが文字と人物を結びつけて認識していれば、実際とは異なっていても構わないんじゃないかな。飽くまで自分の力をどこに向けるかを決める目印だから」
「あのひと、そんな感じなかったけど……実は意図して書いてたんでしょうか」
「どうかな。聞いている限りでは、カスガは異能を自覚していた様子はなさそうだったから、無意識の可能性が高い。死してなお持続する異能は少なくないよ」
「でも……自分の名前だって、書いてました。私の守護ができるくらいなら、なんで」
言いながら、リンドは正答を知る。
花の名前を書いた紙はたまたま譲渡されたが、それ以外はすべて今後の調査目的でセインの手により回収されたのだ。
何という皮肉だ。リンドはやる瀬なさでいっぱいになる。他人を助けられた能力で、何故自分自身の身を守れなかったのか。無自覚にしても運がなさ過ぎる。
さらにもうひとつ、カスガの能力は否定できない事実を含んでいる。
「それじゃあ……カスガ、様は」
異世界人は何らかの異能を有する。クロノの推察はきっと正しい。複雑な感情がリンドの胸中から溢れ出る。
「聖女じゃなかった」
リンドの結論に、クロノは無言で頷いた。
単純な話だ。オルフェン王国において聖女に求められる異能は、他者を守護する力でなく、魔獣を封印する力である。カスガの異能は異世界人特有の、界渡りの代償で生じたものであっても、それだけでは聖女たり得えない。
もしカスガが聖女候補だからという理由で殺されたのだとしたら、まったくの無駄死にだった。もちろん刺客を送りつけてきた相手は、本物か否かはどうでもよく、可能性だけでも邪魔な存在と見做したのだろうが。
「犯人は……ルードルフ先生だったんでしょうか。クロノ様は気づいてたんですか? だから追って来れた? むしろ先回りなんて、どうやって」
「落ち着いて、リンド」
「あれ……私、冷静じゃないです?」
「……君が常に冷静であろうとしているのは知っているよ。多分、ずっとそうやって生きてきたことも」
クロノは跪いてリンドと目線を合わせた。鮮やかな碧眼が朽葉色の瞳と交差する。リンドがこんな至近距離でクロノの顔を見るのは初めてだった。
「大丈夫、と言って安心させてあげられればいいんだろうけどね。残念ながら、我々は未だ渦中にある」
ゆっくりと、クロノの指先がリンドの頬に触れた。
「君に負担をかけてすまない。後手に回ってしまったのは確かだ。情けないよ。だが、いつまでも不逞の輩の好きにはさせたくはないんだ」
「何……殊勝なこと仰ってるんですか。らしくない」
リンドはぷいと顔を逸らした。
何やら妙に気恥ずかしくて赤面してしまったからだ。クロノが無駄に整った容姿をしているせいで、真剣な目を向けられると直視できなくなる。
「火を起こしましょう。朝まではまだ時間があります。野生動物は敏感なので、幻獣の気配があるところにはおいそれと寄ってきませんが、万一があっても困るので」
「ああ、そうしよう。どうせ眠れるものでもない。夜が明けるまで話をしようか」
敢えて事務的に提案するリンドに対して、クロノは少し愉しげだった。夜の帳は互いの顔を隠してしまうが、気楽な側面もある。リンドはすぐに火を点けるべきかどうか、しばし迷った。
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落ち着いたところで、クロノは経緯を話し始めた。
ルードルフがリンドを攫ってルグレイを出た――その報がクロノの耳に届くまで、実はさして時間はかからなかったらしい。
「例の……ジャン少年たちにね、ルグレイの街中を見張らせていたんだよ。カスガの件があったから」
「ああ、そっか。不審者情報を集めていたんですね」
「まさかルードルフ殿があんな行動に出るとはね。さすがに予想だにしていなかったよ」
言いつつも特に落胆した様子もなく、クロノは淡々と事実だけを語った。
「報告を受け、方向から王都方面と判断した。実はこんなときにために、ルグレイに来てから現地の幻獣召喚士を雇っていたんだ。以前、リンドが地の幻獣を喚んだだろう。幸運にも似たような手段が取れる使い手がいてね」
そこまで聞けばリンドにも理解できた。
クロノは手をこまねいていた訳でなく、それなりに不測の事態に備えていたのだ。
「馬の脚から時間と距離を計算して、リンドたちの近くまで運んでもらった」
「よく単独行動が許されましたね」
「独断専行だよ。エドは兎も角、セインが知ったら絶対に止められるからね」
残された現場を想像して、戻ったらさぞかし嘆かれるだろう、とクロノは苦笑した。
「エドだったら、自分が行くと言っただろうな。本当に女性や子どもが犠牲になるのを嫌がるんだよ。なのに、あの通り無愛想だから、よく冷たい男と勘違いされて」
「クロノ様とは真逆ですよねぇ……」
「どちらの方が生き難いか、疑問だけどね」
外面だけで優しくない男と皮肉られたにも拘らず、クロノはあっさりと認めた。
彼は彼で様々なものを取り繕って生きているのだろうが、そう簡単に表には出さない。
ただ同年の従兄弟に対しては、親しいながらも好悪とはまた別の感情を抱いているようだった。
「エドの性格は……まあ、きっと罪悪感のせいもあるんだろうな。本当に守りたいものを守れなかったから」
「?」
「エドは自分の子を亡くしているから……それだけが原因ではないが、奥方も離れていってしまった。今もエドはずっと悔いているんだ」




