15.紫の竜胆1
新たな聖女の可能性があった娘――カスガをむざむざと殺されてしまった。完全に自分の落ち度だ、とクロノは歯噛みする。
異世界人の特徴である黒髪は、彼女自身の血で酷く濡れている。同色だったはずの瞳は最早何も映さず、永遠に瞼を伏せたままだ。
第一発見者のセインと共に、遺体と室内を検分する。騒ぎを聞きつけたエドも加わった。
「……すまない。私が目を離さなければ」
「彼女……カスガはまだ我々を怖がっていたからね。仕方ない。セインは他に仕事があったし、ずっと貼り付いている訳にはいかなかった。まさか邸内で何かあると思わなかった。私の読みが甘かっただけだ。エドのせいじゃない」
クロノは肩を落とす従兄弟に気を遣う。エドの性格からして、か弱い乙女が非道な目に遭うのは耐え難いだろう。
「エドはずっと自分の客室にいたんだな?」
「ああ、少し仮眠を取っていた」
屋敷内を動き回る召使いも、巡回している私兵も、カスガの部屋で起きた異常には気づけなかった。
セインの見立て通り、刺し傷は一箇所のみで見事に急所を捉えている。室内に争った形跡もなく、カスガの服にも乱れはない。一瞬の所業だ。手を下したのは相当腕の立つ……暗殺の専門家か。
雨戸は開いていた。カスガの警戒を解くために格子のない部屋を用意してもらっていたのだが、完全に裏目に出た。どうやら暗殺者は窓際から外に逃げたらしい。部屋は三階とはいえ、訓練された者であれば怯む高さではない。
ひゅう、と風が室内に吹き込む。
夜が深くなり始め、空気は冷たさを増していた。
不意にクロノは部屋の片隅に目を留めた。
そこには備え付けの文机がある。筆が無造作に転げられ、数枚の紙の上に青銅の文鎮が置かれていた。
カスガは紙と筆記具を求めたと聞いた。特段不自然な点はない。
クロノは何気なくその紙を手に取る。
そして――次の瞬間に絶句した。
「これ、は……」
白地の中央に、オルフェン語ではない文字が並ぶ。当然にカスガの故郷で使われているものだ。
「どうした、クロノ?」
「クロノ様……その紙がどうかしたんですか?」
様子がおかしいクロノに気がつき、エドとセインが横から紙を覗き込んだ。
「……!」
本来であれば解せない異世界の文字――漢字。
異世界出身の現王妃の影響で、セインは多少触れたことがある。クロノとエドも同じ程度だった。読めと言われてすぐに訳せるほど、習熟してはいない。
ただ、その綴りには見覚えがあった。
『花蓮』
「やはり……彼女なのか?」
死んだ娘と同色の髪が、クロノの脳裏で大きく揺らめく。顔はよく見たことがないから朧気にしか浮かばない。
その文字は忘れようにも難しい、唯一の名を示していた。三年前に王宮を騒然とさせた王太子妃――トクサ離宮に幽閉できず、今も逃亡し続ける魔女の名を。
▼△▼△▼△
真夜中の静謐は、ルードルフとリンドが屋敷を抜け出す弊害にはならなかった。
カスガの一件があり賓客が滞在する母屋は兎も角、警護も監視も甘い使用人棟から出入りするのは比較的容易だと、ルードルフは嘯いた。その通りだった。
屋敷の外に出ると、ルードルフは迷うことなく街中に向かう。リンドは腕を縛られたうえ口に布を噛まされ、荷物のように担がれていた。どこをどう見られても、疑問の余地なく拐かしとその獲物だ。
日中出掛けた際に、ルードルフは何かの手配をしたと言っていた。今ならばそれがこの誘拐劇の準備だとわかる。
街の宿に旅支度と馬が用意されており、ルードルフはリンドを同乗させると、夜陰に紛れてすぐに出立した。
王都ヘ――。
ルグレイからは距離がある。
港からの流通のため街道は整備されているが、馬で駆けても何日掛かるか。単身ではなくリンドという荷物も抱えている。必ず隙は見い出せる。
ルードルフの目論見が不明である以上、リンドは最大限身の安全をはかって行動する必要があった。体力を温存し、時機を待つのも一計だ。
「大人しいな。逃げ出す算段でもしてるんだろうがな。ったく、逞しいこった」
お見通しだとルードルフが苦笑する。
馬上の不快さと相俟って腹立たしさが増し、リンドは怒りが爆発しそうなるのを抑えた。
ルグレイに行くときはクロノの馬に同乗した。散々憎まれ口を叩き合ったにも拘らず、彼はそれでも子どものリンドを気遣っていたのだろう。馬の速度も肢体を支える体勢も、現状とはまるで異なる。
(揺れるし、ぶつかるし、痛いし、最悪)
クロノの株を上げるのは業腹だが、あのときルードルフではなく彼の馬に乗せてもらったのは幸いだった。やはり王宮の超一流は乗馬ひとつとっても格が違う。
密着するにしても、暑苦しい大男よりキラキラした美形の方が何倍もマシだと思ってしまう。その点ではリンドも凡百と変わらない、一般的な女の感覚を持っている。
(クロノ様……気づいてるかな)
すぐに追手を寄越す可能性はある、とリンドは考えていた。期待だけではない。
不在にしていたルードルフが、いったんは戻ったものの、事件直後に失踪する。怪しまない道理はなかろう。そして彼が聖女殺しの犯人でないことを否定する論拠を問われれば、今この瞬間すらないのだ。
クロノはおそらく朝には手を打ってくる。
恐ろしいのはリンドも共犯と認識されている場合だった。最初からルードルフと親交があるリンドは、拉致されたというより一緒に逃げたと見做されるはずで、このままいけば冤罪を負わされる虞がある。
使用人部屋で暴れなかったのが悔やまれる。理性は時として最善手を選ばない。しかしルードルフの思惑通り王都に行くのも、捕まって罪を着せられるのもご免被りたい。
不安定な馬上では如何ともし難くとも、この闇の中だ。馬と違い人間は夜目が利かない。ルードルフが携帯している灯り程度では、広範囲には届くまい。
朽葉色の双眸を凝らして、リンドは周囲を把握するよう努めた。いつどこで機会が訪れてもいいように。無力なことは諦めを許容する理由にはならない。
リンドが希望を捨てずにいたためだろうか。
――運命の救い手はすぐに訪れた。
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進行方向から馬の蹄の音が近づいてくる。
リンドはルードルフよりも先に、それを察知した。自分たち以外に、こんな暗い街道を走る旅人がいるのは奇異だ。遅れて相手を視認したルードルフも、訝しんで馬を止めた。
音からして、人数はひとりと思われた。少し先も見えない夜闇に包まれているのに、全速力で疾走している。互いの小さな角灯では、すれ違う直前の距離まで相手の風貌はわからなかった。
「――リンド!」
「……っ」
聞き覚えのある声が響き、リンドは瞠目する。
(クロノ様!?)
僅かな光に照らし出されたのは、信じ難いが確かにクロノの姿だった。一瞬の判断を迫られたリンドは、迷う暇もなく行動を起こす。
何故ここにクロノ本人がいるのか、何故向かう先から逆走してきたのか。そんな疑問をぶつける余裕もない。
リンドは背後のルードルフの動揺を感じ取って、今だとばかりに全身を使って抵抗した。手綱を握るルードルフの腕を押しやり、無茶を承知で馬上から身を翻した。
「おいッ……!!」
焦り切ったルードルフの叫びに、馬が慄いて暴れ出す。衝撃と勢いでリンドの身体は宙に跳んだ。
(幻獣……!! そろそろ忌避剤が揮発して効果が薄れているはず。何でもいいから!!)
「リンド!」
「お嬢ちゃん……!」
二人がそれぞれにリンドを呼んだ。
空中からクロノが剣でルードルフを牽制したのが見えた。リンドは齎された奇跡を信じて強く念じる。
ふわり、と独特の空気が舞う。
と、そのとき――リンドの服の隙間から、何かが自由にならない腕の隙間を滑っていった。暗がりのなかでそれは突然光を放つ。
それは小さく折り畳まれた、一枚の紙――。
風で広がった白地の上には、独特の筆跡で、ある花の名前が書かれていた。




