5.忘れていたモノ。
『お兄ちゃん、見てみて。あそこに栗の実がある!』
夢の中で、小さな乃維が言う。
オレは笑う。
「それは栗じゃない。ほらよく見て。違うだろ?」
『えー。栗の木だよ。
ほら、イガイガもそんなに痛くなさそう。まだ赤ちゃん
栗なんだよ』
「だーかーら、違うって。栗じゃないの」
『もう、だったら取ってみれば分かるよ。
乃維、お兄ちゃんの為に取ってあげる!』
そう言って小さな乃維は無邪気に駆け出した。
止めろ! ダメだって! 取ったらダメだ!
オレは乃維を止めようとする。でも、なぜだか体が
思うように動かない。
「乃維! ダメだって! 戻ってこい」
必死に言ったけれど、乃維にはその言葉が届かない。
まるで水の中にいるかのように、音がどこかへ霧散する。
『ふふふ。了解です。お兄ちゃん! 乃維、取ってきマース』
なんて、おどけて言っている。
だから、違うって。それは取っちゃダメなんだ!
必死に叫んだ。
忘れていた記憶。
でも、心の中ではちゃんと覚えてた。
絶対に忘れられない記憶。
どんなに後悔しても、叫んでも、小さいあの乃維には
届かない。
だってこれは、過去の出来事だから。
それでも叫んでしまう。
だって、あの時の後悔が、今でもオレを捕まえて
離さない。
どうにかして逃れたい。
そんな事ばかり思ってたから……。
だから忘れた。
自分の事故と一緒くたにして、オレは自分の記憶から
なかった事にしたんだ。
叫んで気づく。
あぁ、叫んでも無理なんだって。
いくら忘れようとしても、忘れたとしても、起こって
しまった過去は変わらない。
そう。乃維に『取りに行け』って言ったのは、
紛れもなくこのオレ。
走り去る乃維を追いかけようとするのに、体が動かない。
これは夢。
夢だけど現実。
過去に起こった、オレの過ち。
だからどんなに叫んでも、変わることは無い。
漠然とそう思う。
オレの過ちをまた、見せる気なのか。
忘れちゃダメなやつだろって。
ちゃんと後悔しろって。
無邪気な小さな乃維は、必死に背伸びをして、栗だと
思い込んでいる、その木の実を取ろうとする。
──ダメだっ!
ダメだダメだダメだ!
夢でも過去でもダメなんだ。
だって乃維は落ちてしまうから……!
落ちてしまうんだ、乃維。
オレは知ってる。
乃維は落ちる。
あの木の先にある、見えない崖下に。
オレが命令した。
オレが悪い。
オレと乃維とであの時流行ってた兄妹ごっこ。
オレが乃維に命令して、乃維が『はいっ!』って
言って従う遊び。
あの時もそうだ。
乃維はおどけて『分かりました!』なんて言ってた。
あの当時、お兄ちゃんとか妹とか、オレたちはそんなの
よく分かっていなかった。
気づいたら一緒にいた。
一緒にいるのが当たり前だったふたごの乃維。
でも咲良の兄ちゃん達見て、兄ちゃんってのを知った。
カッコイイって思った。
だからオレは、乃維と兄妹ごっこをした。
乃維は嫌がらなかった。
『お兄ちゃん』って言うのを面白がって使ってた
気配すらある。
……多分、乃維も面白かったんだと思う。
カッコイイ兄ちゃんに、乃維も憧れていたのかも
しれない。
そしてオレはその事を漠然と、分かっていたんだと
思う。
乃維の想いに漬け込んだ、オレのワガママな遊び。
だけどオレは、乃維に『お兄ちゃん』って呼ばれると
嬉しくなった。本当にカッコイイお兄ちゃんになれた
気がした。
だから代わりに何でも、乃維の言う事を聞いていた。
『お兄ちゃん』のオレは、乃維に命令する代わりに、
乃維のお願いを聞いていた。ちょっとチグハグな兄と妹。
だけど──
──乃維……!
一度だけ、失敗した命令。
手を伸ばしたけれど、掴めなかった。
目の前の乃維は、崖下に落ちてしまって、足を捻挫
してしまった。
今でも時々古傷が疼く。
急に走り出せないから、体育は基本苦手。
小さい頃の乃維は、すごく足が速かった。
でも、もう走れない。
走れはするけれど、前ほどじゃない。
オレの記憶からは、綺麗さっぱりなくなった出来事
だったのに、罪悪感だけはしっかり残った。
何が起こったのか覚えていないけれど、とにかく
乃維のあのケガは、オレのせいだって。
謝ってもいない。
うやむやになった、あの日の出来事。
あの時俺が、栗の実だとはしゃがなかったら、あんな
ことには、ならなかった。
『お兄ちゃんらしくない!』
そうだ。あの時、咲良がそう言って怒ったんだ。
『くそガキ!』って、咲良がオレにそう言った。
オレはオレで、お前もくそガキだろって思ったけれど
言い返せない。
咲良の怒りはおさまらない。
『恭太郎のチビっ!
そんなに小さくて、足も遅くて、それから栗の木の
区別も出来ないうえに栗の木栗の木ってバカみたいに
喜んでるから、乃維が怪我をしたんだぞ!
何が『兄ちゃん』だよ、笑わせるなっ! お前のは
ただのワガママだろ!?』
勢いに押されて、オレはぐうの音も出ない。
……全くその通りだったから。
『咲が、乃維の兄ちゃんになる!』
あの時、咲良はそう言った。
笑えない冗談。
でも、ホントにその通りうだと思った。
カッコイイ咲良。
オレよりもずっと乃維を見守っていて優しくて、兄ちゃん
らしい咲良。
だからオレは、悔しくて悔しくて駆け出した。
分かってる。
だけど、それだけは認める訳には行かない。
だってオレが、オレだけが乃維の兄貴だから……!
誰にも譲れない! 譲りたくない!
悔しくて、どうしようもなかった。
オレだって、頑張ってるんだぞって言いたかった。
でも言い返せない。
自分がやってしまった罪。
いくら頑張っても追いつけない。
その負い目から。
小さかったオレでも、ちゃんと努力はしていた。
たくさん牛乳だって飲んだし、運動だってしてた。
勉強だって頑張ったし、いい兄ちゃんになるように
努力した。
でも、足りなかった。
だから取りこぼした。
小さな乃維の手。
するりと抜けてしまったあの時の喪失感。
だから逃げた。
記憶を封じ込めて、忘れようとした。
けれど……。
やっと捕まえた。
捕まえだんだ。
今度は取りこぼさずに、しっかり掴めた。
乃維じゃなくて、咲良だったけど。
でもどっちだって一緒だ。
オレは、足も早くなったし、力も強くなった。
背だって伸びたし、危ないものもちゃんと感知できる。
な、咲良。オレはちゃんと、兄ちゃんになっただろ?
だから、もう離さない。
オレの『妹』は、オレがちゃんと守るから。
だから、だから……これからも──




