6.過去の汚点。
あの日あの時、太郎ちゃんが事故に遭うその直前。
わたしは確かに、太郎ちゃんに逢っていた。
あれはちょうど、夏の終わりの夕暮れ時だったと思う。
その日はよく晴れていて、夕焼けがとても綺麗だった
のを覚えている。
あの頃みんなまだちっちゃくて可愛くて……そうそう
楓ちゃんなんてまだ『ボク』って言ってて、あんな悪魔
みたいな考え方なんて、これっぽっちもして
いなかった。
純粋に太郎ちゃんと遊ぶのを楽しんでるって感じで
二人を見ていると子犬がじゃれているような、そんな
気分になった。
太郎ちゃんはどちらかっていうと小柄な方で、ふたごの
妹の乃維と並んでいると、よく見間違えられてた。
本人にはそれがとても嫌だったみたいで、乃維と区別
する為に自分のことを早くから『オレ』って呼んで
いた。
妙にお兄ちゃんぶっていて、オレが兄貴なんだから
乃維はオレの事お兄ちゃんって呼ぶんだぞ! なんて
強要してたっけ。ふふ。懐かしいな。
今思うと滑稽なんだけどね。
当時はそれが、なんだか鼻についた。
それは、単なる子どもの自己主張の一つで、当たり前の
事だったんだけど、太郎ちゃんと同い年のわたしも、
当時は当然子どもで、それを許せるような包容力なんて
ものはなくて、太郎ちゃんのやる事なす事に、いちいち
ムカついていた。
なんて自分勝手で、ワガママなんだろうって。
乃維が可哀想。
乃維を救ってやるんだって。
逆に乃維は乃維で、おおらかな性格だったから
太郎ちゃんのそんな態度も笑って許せていて
ついでにわたしのイライラもニコニコ笑顔で吹き
飛ばしてくれた。
乃維はそんな暖かい存在だった。
わたしにとっては唯一の憩いの場で、その乃維に何かを
強要する太郎ちゃんは、わたしにとって敵だった。
乃維の手を煩わせる太郎ちゃんが、どうしても
許せなかった。
──乃維より小さいのに、お兄ちゃんなんて変だろ!
あの頃わたしはとにかく強がってて、乃維にわがままな
態度をとる太郎ちゃんに、嫌気がさしてた。
自分じゃ何も出来ないくせに! なに威張ってんの!
って。
だからわたしはたまに、太郎ちゃんに突っかかって
ケンカもしてた。
殴り合いのケンカ……なんてのはしなかったと思うけど
口喧嘩は良くしてた。
太郎ちゃんに対しては、『兄ちゃんらしくない』って
言う言葉がかなり効果的で、言うと必ず太郎ちゃんは
黙り込んだから、それがわたしの最終手段になってた。
相手が傷つくとか、どう思うとか、あの頃は全然気に
してなくて、とにかく勝てればいいって思ってた。
だけど太郎ちゃん、ホントはすごく傷ついていた。
乃維のお兄ちゃんでいたかった太郎ちゃん。誰よりも
背伸びして、お兄ちゃんでいるんだって頑張ってた。
そんな太郎ちゃんのコンプレックスのひとつが、
自分の身長が乃維よりも低い事。
今でこそ身長は太郎ちゃんの方が大きいけど、あの当時
乃維の方が断然背が高かった。バカやってケガして、
結局守られていたのは太郎ちゃんの方で、どちらかと
言うと包容力のある乃維の方がお姉ちゃんに見えた。
知らない人が来ると必ず『お姉ちゃんは偉いね、
弟くんのお世話が上手なのね』って言われてたから。
それが、太郎ちゃんにはショックだったに違いない。
だけどわたしがその事を知ったのは、事故の後。
二人に逢えなくなってから。
『乃維に逢いたい』
そう言ったわたしに、楓ちゃんは冷たく言った。
『嫌だ。乃維の近くにはキョータロがいる。
お前、キョータロ嫌いだろ? 兄ちゃんらしくないって
言って、いつもキョータロ傷つけてる』
『そんなつもりない!』
本心で言った。でも楓ちゃんはムッとした顔をこっちに
向ける。
『言ってるだろ? キョータロは乃維ちゃんのお兄ちゃん
に相応しくない! ってさ。
あれでそーとーキョータロ参ってた。だからお前には
キョータロに近づいて欲しくない。だからダメ!』
穏やかだと思ってた楓ちゃんが、いきなり牙を剥いた。
怖いって思った。
楓ちゃんの本性が見えた瞬間だった。
挽回の余地なんてない。
だってもう手遅れでしょ?
わたしは太郎ちゃんを、たくさん傷つけた。
気づかないうちにたくさん。
謝ろうにも逢うことすら出来ない。
だって家を知らないもの。教えてくれないもの。
その前に、当の太郎ちゃんは記憶を失くしたらしい。
わたしとの記憶だけ──。
その事実がわたしの心を抉った。
「ああぁ……。もう、消えちゃいたい……」
何でこんなとこに来ちゃったかなぁ。
中学受験で抜け駆けした楓ちゃんを、羨ましいって
思いはした。思いはしたよ? でも自分も同じこと
するとかバカみたい。
人は人。わたしはわたしって、ちゃんと割り切ってた
つもりだった。
そのつもり、だったのに……。
「なに、……やってんの?」
「──っ!」
不意に声が降ってきた。
ここが図書館だって事を忘れて、わたしは思いっきり
飛び上がる。
──ガタン!
座ってた椅子が大きく傾き、あっと思った時には
遅かった。
ものすごく大きな音を立てて椅子は倒れた。
近くの人が一斉にこっちを見る。
……しまった。やってしまった。
肩を竦め真っ赤になりながら、わたしはペコペコ頭を
下げつつ椅子を持ち上げる。──と、それを手伝って
くれる──太郎ちゃんっ!?
思わず手を離した。
「おっと……」
再び落ちようとする椅子を、太郎ちゃんがすんでの
ところで支えてくれる。
「っ、あ……太郎、ちゃん……」
一歩後ろに下がろうとするわたしを、太郎ちゃんは
上目遣いでそっと見て、それから優しくフッと笑った。
「なに、動揺してんの? なんか悪巧みでもしてた?」
そんなわけない。
わたしはフルフルと頭を振る。
いや、ちょっと待って。そんな事より、いつからいた?
「……」
わたしは思わず太郎ちゃんを睨む。
そしたら太郎ちゃん、困ったように微笑んだ。
「あ。……っとごめん。なんか深刻な顔して図書館の
方に行ってたから、大丈夫かなーって思って後つけ
ちゃった。
ほら昼間、笑っちゃったから。気にしてる
かなって……」
「大丈夫、気にはして──ない」
わけじゃないけど、一応そう言う。
ってことは、最初っからいたんじゃん! 太郎ちゃん。
あちゃー……と心の中で頭を抱える。
なにか妙な事とか、口走ってないよね?
必死に頭をフル回転して考えた。
うん。大丈夫、変なことなんて言ってな──
「──『消えたい』」
「え」
太郎ちゃんの言葉にわたしは青くなる。
あー……そういや言いましたねわたし。『消えちゃい
たい』って。
ごくりと唾を飲む。
様子を窺うように、太郎ちゃんはわたしの顔を覗き
込む。わたしより背の高い太郎ちゃんが下から覗いて
るって変な感じがする。──てか、圧力半端ないん
ですけど。
わたしは後ずさる。
太郎ちゃんは、そんなわたしのことは気にもかけず
倒れそうになった椅子を立て直す。
きちんと立つと、太郎ちゃんはわたしよりも頭一つ分
くらい高かった。
う。……こんなに伸びたんだ。太郎ちゃん。
一気に血の気が引く。
「咲良、なんで『消えちゃいたい』って思ったの?」
笑みを完全に消したその顔で、しかも今度は上の
方から太郎ちゃんに見つめられ、わたしはどう
切り抜けようかと、必死で頭を働かせた。




