2.目覚めと、なくした記憶。
恭ちゃんはそれから、三日後やっと目を覚ました。
一部の記憶をなくして。
病院で先生が言ってた。
きっと事故のショックで、記憶が混乱しているので
しょうって。ただ、その記憶が戻るかどうかは、
保証できませんって。
でも恭ちゃんは、意外にもケロッとしてた。
忘れてることがあっても、オレはオレだし。思い出
なんて、また作ればいいし。なんて、笑って言ってた。
恭ちゃんは、私たちの苦労なんて、ちっとも知らない。
そんな無邪気な笑顔。
それならそれでいいって、お母さんは苦笑した。
恭ちゃんが意識のなかった三日間、恭ちゃんは
眠ってるだけだったから、平気だったかもしれない。
だけど、私たちは違うんだよ?
いつ意識が戻るかだとか、いきなり容態が変化して
死んじゃったらどうしようとか、色々考えたんだから。
三日間って、すごく短いようでいて、気が遠くなる
ほどの長い時間。待っている私たちには、長すぎる
時間だった。
お母さんは泣いていたし、お父さんは口数が少なく
なった。
私は私で、恭ちゃんはもしかしたら、もう二度と目を
開けないんじゃないかって本気で心配して、夜も
眠れない日が続いた。恭ちゃんが起きたその後もずっと。
その時の状況と一緒。
恭ちゃんと一緒にいなかったことを、死ぬほど後悔した
あの時と。
だからもう、目を離さないって決めた。
恭ちゃんはいつも自分勝手に行動するから、私がしっかり
見守ってやらなきゃって、そう決めていたのに。
決めていたはずなのに、でも、多分、今の生活に慣れ
ちゃってて、その事をすっかり忘れてたんだ。
まだもっと、気遣っていなくちゃいけなかった。
──ぽた。
何かが、手の甲に落ちた。
何が落ちたと思って、下を見る。途端、目から
ポロポロと何が溢れてくる。
あ、涙──?
泣こうとか思っていないのに、ただショックだっただけ
なのに、涙って出るもんなの?
自覚すると、更に涙が溢れてくる。
嫌だ。嫌だ! 恭ちゃんが涙で見えない。
見えないと困るのに。
「恭ちゃん恭ちゃんっ!」
涙に負けないくらいの大声で、声を張り上げた。
だけど目の前の恭ちゃんは、動かない。
息を吸っているのに全然足りない。
必死に喘ぎながら息をして、それから必死になって
恭ちゃんを呼んだ。
「お母さん、お母さん、どうしよう。私、私のせいだ。
せっかくいい感じになってきたのに。恭ちゃん、やっと
やる気になってたのに」
拭っても拭っても、涙が溢れる。
だって、思い出して欲しかったの。小さい頃みんなで
遊んだあの公園を。それから咲良のこと。
あの時、何があったのか知りたいっていう気持ちも
あったけれど、でも私はただ、咲良の事を忘れて
しまった恭ちゃんが歯がゆくて、それを思い出して
欲しかっただけなのに。
ただ、それだけだったのに。
またあの時みたいに、みんなで笑いたかった。
恭ちゃんと楓ちゃん。それから咲良と私。
四人仲良かったあの時みたいに。
でも、……でも無理だ。
こんな恭ちゃんに、無理なんかさせられない……っ。
涙が止まらない。
どこにこんな水分あったんだろうって、そう思う
ほどに涙は溢れてくる。
バカだ私。
自分のことばっかり考えてた。
もっと恭ちゃんの事、考えれば良かった。
ずっと苦しんでた。
恭ちゃんも、ずっとずっと苦しんでいたのに……っ!
「乃維……」
お母さんは、そんな私を優しく包み込んでくれる。
「乃維? 心配しなくても大丈夫。ほら見てみて
恭太郎の方が驚いているみたいだから」
お母さんは困った表情で、私に微笑んでいる。
「え?」
驚いてる──?
見ると恭ちゃんはこっちの方を見て、薄く笑っていた。
「あ……恭ちゃ……」
瞬きをすると、ポロリと最後の涙が流れ落ちた。
「乃維」
言葉はハッキリしている。
良かった。
恭ちゃんは大丈夫だ。
「オレはヘーキだから。……少し、疲れただけ。
今まで忘れていた事を、一気に思い出すなんて
さすがに……無理。
でもオレは、大丈夫だから泣かない、で……」
言って手を伸ばす。
「良かった。
良かったよぅ、恭ちゃん。また倒れたから怖かった。
あの時みたいには、もうならないで──」
言って恭ちゃんの手を取った。恭ちゃんは力なく、
分かったって言ってくれた。
細い──手。
不健康な色の白さに、ひどく冷たい手。
あ、この手。
ふと思い出す。あの手と一緒。
この前、倒れた咲良の手と。
その手を握りしめると、恭ちゃんはホッとしたように
息を吐く。
「恭ちゃん、」
私はそんな恭ちゃんに語り掛ける。
「ん?」
「恭ちゃんはさ、咲良の事、ホントに全部思い出した?」
その言葉に恭ちゃんは黙り込む。
答えに困ったような微かな唸り声を聞いて、私は少し
可笑しくなる。
「ふふ。やっぱ、思い出してないんだ?」
「あ、うん。見た目だけ? って言うか、ほんの一部だけ。
小さい頃さ、ずっとオレたちの他にも誰かがいたって
のは感じてたんだ。
オレと乃維と楓真と、それから──誰か。
その誰かが、ずっと気になってた。
気になってたけど、分からなくって、思い出そうと
すると気持ち悪くなったから、だから思い出さない
ようにしてた。
それが乃維は嫌だったんだよな。ごめんな」
困ったように笑う。私は慌てて頭を振る。
そこまで思い出したくなかったなんて、知らなかった。
だから口を開く。
「お兄ちゃん──咲良のこと、」
──嫌い?
そう聞こうとして、言葉を呑む。
私ったら、恭ちゃんに何聞こうとしてんの?
恭ちゃん、たった今、倒れたばかりなんだよ?
それなのに『お兄ちゃん』なんて言って無理矢理答え
引き出そうとかするなんて、やっぱり私は意地悪だ。
「咲良は──」
私が黙り込んだのを見て、恭ちゃんが口を開く。
私はハッとして、恭ちゃんを見る。
恭ちゃんは大きく息を吐いて、まだ少し頭が痛むのか、
手で軽く押さえながら起き上がる。
「え、ちょ。まだ寝てたら──」
「だから、大丈夫だって。
咲良だろ? 咲良は嫌いじゃない、よ?」
「え……」
一瞬、心を読んだのかと思った。
私は目を見張る。
恭ちゃんは困ったようにそんな私を見て笑う。
「オレさ、色々忘れてるだろ? だから咲良のこととか
まだよくは思い出せていないけど、あいつ、今と違って
男らしかったのは覚えてる。
思い出した途端、モヤってなったけど、でも」
言って恭ちゃんは言葉を切る。
「嫌いじゃ──ないよ。
むしろ、好き。だから──」
ズキッ。
何故だか、その言葉に私の胸が痛んだ。
変な感じ。
なんだろ、これ。
私は、思わず胸元の服を掴んだ。




