2.諦め。
──『橘 咲良』
それが入学式の朝、あの桜並木道で見たあの子の
名前だった。
初めて聞いたはずなのに、なぜかすんなり頭の中に
入ってくる。まるで、どこかで聞いたような名前だな
って思った。けど『さくら』なんて名前、日本には
たくさんいる。
現に母さんの名前は『櫻子』だ。
厳密に言うと、さくら……じゃないけれど、似たような
ものだろ? だから、すんなり頭の中に入ってきたん
だろうか?
でも、その名前を聞いた時から、胸の中のモヤモヤが
何かのカタチになろうとしている。あと少し……喉まで
出かかっているのに、口から出そうとすると消えて
いく。
なにか思い出せそうなのに、でも思い出せない。
掴めそうなのに、掴めない。
そんな、もどかしさ。
「……」
それがなんなのかハッキリとは分からなくって余計に
気持ちが悪い。
なんなんだろう? この気持ち。
溢れ出しそうな、胸の中のモヤモヤに、オレは
イラつきながら、楓真を見る。
「お前と小学校が同じってことはだよ……」
出てきた声は、あからさまに不快の色を出していた。
あ、嫌な声。
思わずそう感じてしまう。
こんなんじゃ、楓真だってムカつくに違いない。
だけど予想に反して楓真は嬉しそうで、にこやかに
頷いた。
「そ。意外と、俺たちとご近所さん。あ、でも家は
キョータロん家とは離れているから、バッタリ会う
なんて事はなかったんだろーけど、俺ん家とは近く
だから、よく一緒に遊んだんだ」
そう、さらっと言ってのけた。
近所だったのか……、ふーん。とか言いながらオレは
楓真からまた視線を逸らし、胸のモヤモヤを必死に
抑える。でも、楓真の声が柔らかだったせいか、
さっきよりかはずっとマシになる。
……オレって、ホント現金。
楓真とオレが、同じ学校に通うようになったのは
中学校の頃だけど、オレたちはその前から面識が
あった。
本当ならオレだって、楓真と同じ小学校へ行くところ
だったんだ。でも、状況が変化した。あともう少しで
就学って時に、母さんが突然『折角だから、そのまま
進学させる』って言い出した。
ほらまた出たよ、母さんの思いつきがって、オレは
その時思った。
母さんは言い出したら聞かない。
結構、融通は利く方だとは思うよ? でも本当に
こう! と決めたことは、テコでも動かない。
だからあの時のオレも、『あぁこれって、嫌って
言ってもダメなやつだ』って思ってた。
──まぁ『イヤ』って言ったけんだどね。実際は。
オレ、あの時はまだ子どもだった。抗ってもムダだって
分かってはいても、体は言う事なんか聞いてくれない。
思考回路は単純だったし、幼稚園児だったから、思った
まんまを口に出してた。
楓真と一緒の学校に憧れてたから、かなり食い下がった
のを覚えてる。
だけどダメだった。
もしかしたら、幼稚園の先生に勧められたのかも
しれない。確かにここって進学校だから、ずっと
いれば将来は安泰かもしれない。だけどオレが
あんなに嫌がったのに、それを握りつぶすとか、
親としてどうなの? 有り得ないよね? 毒親まっしぐら
じゃん。
経緯は分からなかったけど、乃維は嫌がらなかったし、
父さんだって反対しなかった。だからオレ一人が
『嫌だ!』って叫んで抗ったところで、それは単なる
我がままにしか見えない。
必然、ずるずるずるずると、この学校に居座ることに
なる。
学校は違ったけれど、でも楓真とはご近所さん。
家はちょっと離れてるけど、遊ぶ時間帯も場所も
だいたい同じ。外ではあまり遊ばなくって、楓真が
よくウチに遊びに来てくれた。
でも、仲良くなった一番の理由は、うちの母さんと
楓真の母親が友だちだったからかもしれない。
母さんたちの実家がある場所は、実はここじゃない。
結構遠く離れていて、まさかのお隣の県。
だけどなんの偶然か、就職と結婚先が二人とも
この宮原市。で、結婚後に運良く再開して
意気投合。そこからの交流。
だからそれこそオレと楓真は、産まれる前からの
幼なじみ。変な話、産まれた病院だって同じだ。
楓真とは好きな遊びが一緒だったから、自然、会うと
よく一緒に遊んでた。もちろん、乃維も一緒。
楓真の家に行ったことだって、当然一回や二回じゃない。
だけど学校かぁ。
もしあの時、オレが楓真と同じ小学校へ行って
いたのなら、橘ともそのとき出会えたって事になる。
そう考えると、何だか複雑だ。
ちょっとした進路の違いで、知り合える人間が
ゴロッと変わるのかと思うと、妙な気持ちになる。
「咲良……ホントは人前で泣く程、弱いやつじゃないん
だけどね。よっぽど気を張ってたのかなぁ。
あ、そっか。もしかしたらあれのせいか──」
ポツリと楓真が呟いて、意味ありげにこっちを
見た。
あれ?
「……」
疑問に思ったけれど、あえて聞かなかった。
聞いても多分、分からないし。そして多分、そのわけの
分からない理由に、またわけの分からないイラつきを
感じて、翻弄されるだけなんだろうから。




