2話
「ほらほらみんな、8時になったらお風呂ですよー」
「はーい」
「早く行こーぜ」
そうして子供たちはワラワラと部屋から出ていく。
「洗い物、やるよ」
俺は文庫本を机に置くと、流しの方へ行く。袖をまくってたくさんの洗い物を前にしていた優依が僅かに右に詰め、俺の立つスペースを空けてくれる。
『私も、やる』
「あらあら、お二人共ありがとうございます。それじゃあにいさんは鍋や大皿を、ネムさんは濯ぎをお願いします。小さいものは私がやってしまいます」
「わかった」
『了解』
「あぁ、ネムさん、スケッチブックが濡れてしまいますよ、ほらこちらに。高さは大丈夫ですか?大丈夫そうですね。それでは」
そう言うと優依は慣れた手つきで洗剤をスポンジにつけ、食器を洗い出した。それを見て俺も固めのスポンジを手に鍋を擦る。大人数用の大鍋は重く、俺は力を込めて磨く。
「にいさん、テフロンが剥がれないように気をつけてください」
「はい」
「それとネムさん、まだここ、泡が付いてますよ?」
優依の鋭い指摘に項垂れる二人。
「……悪いな、いつも」
「いいですよ。にいさんだって大変でしょう?」
「テフロンの鍋を洗うより楽だよ、俺は」
本心だった。バカでかく重く、そして見た目以上にナイーブなこいつの機嫌をとるくらいなら、わけのわからん情報屋の使いっ走りの方が100倍楽な仕事に思えた。
「うし、終わった」
俺は鍋をネムの方へ寄せると、包丁やお玉、大皿なんかを洗い始める。流しには水を流す音だけが響いていた。
「ありがとうございました」
最後に残った皿を乾かし台に置いた優依はそう言ってクタクタになった足でまといに頭を下げた。
「……毎度なんかすいません」
『明日もやります……』
こちらこそと言わんばかりに頭を下げる俺たちを見て、優依はクスクスと笑った。
「えぇ。ぜひ明日もお手伝いしてくれたら嬉しいです」
「勿論やらせていただきます」
『むしろやらせて欲しい』
「……なんかちょっと怖いんですけど。まぁいいか」
やりがい搾取、という死語が一瞬頭に浮かんでは消えたのは黙っておく。もう死んだ世界の死んだ言葉だ。
「風呂、行ってこいよ」
「いえ、私は最後でいいですから。にいさんが先にどうぞ?」
「……悪いな」
俺は風呂場の方へと向かう。
「にいちゃん!風呂!?」
「おう」
「上がったら遊んで!」
「……ねーちゃんに怒られるからな。少しだけだぞ」
「やった!!」
チビたちとの他愛のない話をすると、俺は男風呂をの扉を開け、服を脱ぐ。くすんだシャツやジーンズを脱いだ順に洗濯カゴに詰める。
浴室の扉を開けると、ガキ達の暴れたであろうあとが見える。とりあえず奴らの散らかした椅子や洗面器を片付けてひとまとめにすると、所々にへばりついている泡を洗い流す。一応湯船を確認するが、やはり砂漠で生きるものの定めか、信じられない量の砂が沈んでおり、あの泡は一体なんだったのかと言う疑問に苛まれながら、俺は洗い場に戻り、シャワーのノズルを捻る。熱くなるまで洗面器に水を貯め、一気に頭の上から被る。そうして熱いシャワーで体をあらかた流すと、持ってきたタオルに石鹸をつけ、体を擦る。四番目の少年には悪いがやはり俺は風呂がないと死ぬな、と名作漫画の主人公へ謎の意思表明を終え、俺は風呂を出ようとする。そのタイミングで、あることに気づいた。
「……こっち、なんか綺麗だな」
実はこの男湯には浴槽が二つあり、一つがチビ用の温いもので、もう一つが熱いのが好きなやつなのだが、その熱い方がやけに綺麗なことに気づいたのだ。
「いや、ってか綺麗ってか砂の一粒も……」
俺は浴槽に身体を沈めると、チビたちと何で遊ぶのかを考えるのであった。
「勘弁してくれ」
風呂上がり、約束通りチビたちと遊んでいた俺だったが、身体にしがみついたチビが7人目、つまりこの家のチビ全員になった所で音を上げた。
「動けん。つーか、髪の毛を食うな。シャツを引っ張るな。目ん玉を握ろうとするのはマジでやめてくれ」
「ほらほら!みんなにいさんに無理をさせてはいけませんよ?にいさんはようやくお仕事から帰ってきて疲れてるんですから」
『その辺にしとく』
年長組の言葉を受け、いくら俺が言っても聞かなかったチビたちがはけてゆく。
「助かった……」
俺はぐしゃぐしゃにされた髪の毛で恩人二人にそう言った。
「あらあら、せっかくお風呂はいったのに……」
『入る前より酷い』
「面倒でしょうがもう一度入りましょう、にいさん」
「って言いたいところだけどもう水は洗濯機に移しちった」
風呂から上がる際に、綺麗な方の水は全て洗濯に再利用し、汚い方はもはや洗ってしまった。
「別に女湯はまだ私が入っていませんから、水があります。そちらで入りましょう」
ちなみにネムは俺の少しあとに入ったようで、その白髪にタオルを巻いていた。
「しゃーねーな。おい!お前ら!布団の準備しとけよ?」
「もちろん」
「にーちゃんに言われるまでもない!」
「さいですか……。それじゃ風呂行くわ」
「はい、行ってらっしゃい」
そう言うと再度風呂場へ。今気づいたけど別にシャワーだけでいいんだから、男湯でも良かったわ、と考えながら女湯でチャチャッとシャワーを浴びる。まぁどの道ヨダレまみれの服を洗ってくれる洗濯機は女湯の前にあるのでついでに男湯から洗濯カゴを持ってきて自分の分も入れたし、と思ったが、その時気づけよ、ともなった。人生とはままならないものである。
「はいりますよ、にいさん」
「えっと?はいりますよ、じゃないが?」
突如、女湯に(女だから当然ではあるが)優依が入ってきた。
「別にいいじゃないですか。妹なんだし」
「良くないが?嫁入り前の女のやることじゃないが?こちら血は繋がってないが?」
「もう、またにいさんはそんなこと言って。姉さんがいたらなんて言われるか」
「……なんも言わねーだろ、べつに。つーか、俺と同じこと言うわ、流石に」
「そうですかね……」
「そうだわ。絶対にそうだわ」
「でも、わたしはにいさんと」
「ゆい。だめだよ。それ以上は」
「……はい」
「本当に、だめだ。俺たちは兄妹だ。血なんて繋がってなくたって。だから、続きを言ったらダメだ」
「……はい」
「ごめんな、ダサい兄ちゃんで」
「ごめんなさい。私、にいさんをいつも困らせてばかりで」
「あやまってばっかりだな。俺たち」
「はい」
「俺、もう出るよ」
俺はそう言うと、冷えた体と赤い顔をした優依とすれ違いに風呂を出たのだった。
『お疲れ様』
半分以上電気の消えた食堂。何の気なしに小説を開いていた俺は、さし出されたプラカードを前に、文庫本を閉じる。
「おう、ありがとな。チビたちと遊んでくれたみたいで」
『うん。楽しかった』
「はは、そりゃよかった」
さっきチビに見せてもらったこいつの絵はとても滑稽で、そのグロテスクな愉快さを思い出した俺の口から笑みがこぼれる。それを見たネムの顔がなんとも言えないものになる。
「どした?そんな信じられないものでも見たような顔して。もしかして人参挟まってる?」
俺は慌てて舌で歯の裏をつつく。
『いや、その』
「その?」
『笑ったの、初めて見た』
「そうか?言われてみりゃたしかにな。まぁ砂漠で一人で笑ってたらイカれてるからな、そいつ。見かけても近づくなよ?」
ま、俺がイカれてないとは言わないけどな。俺はそう付け加えるとケラケラ笑う。それを見て、彼女も口を抑える。目を見るとどうやら笑っているようで、僅かに肩が震えていた。
『何読んでたの?邪魔だった?』
ひとしきり笑ったあと、彼女はまだ少し震える手で俺の手を指さした 。
「あぁ、これ?椎名誠。哀愁の街に霧が降りるのだ、って本」
『面白い?』
「ん?まぁな」
俺は唐突な問いに、擦り切れたその文庫本を眺めながら少し考える。
「……読むか?ほら、これ、貸してやるよ」
俺はボロボロのそれをネムに差し出す。
『……いいの?』
ネムは僅かに迷ったように恐る恐る手を伸ばし、本を手に取る。
「別にいいよ。まぁページとか取れそうで怖いから外では読まないで欲しいけど」
笑いながらそんなことを言うと、ネムは受け取ったそれを大事そうに胸の前に抱えると、深々とお辞儀をした。
「なんだよ、大袈裟だな」
『ううん、そんなことない。ありがと』
「へいへい。どういたしまして」
『あと、一ついい?』
「ん?」
『お顔。笑ってる方がずっと素敵』
「へいへい。そーですか。砂漠の真ん中でヘラヘラする御徒さんになりますよ、これから」
『真面目に。私は、その方がいい』
彼女はそう綴るとページをめくる。
『たしかに、砂漠の真ん中で笑う貴方は面白いけど』
『けど、笑ってる方がずっと、幸せそうだから』
「……ま、覚えとくよ」
『そうして』
「ほら、もう遅いから寝ろよ」
『うん。おやすみ』
「あぁ、おやすみ」
最後に見たネムの顔は確かに笑っていた。
「お風呂上がりました……。すいません、にいさん。洗濯機、水やら何やら全部やっていただいて」
「ん?別にいいよ。普段やらせちゃってるし。全部ついでだから」
そう言ってネムと入れ替わりで食堂に入ってきたのは、優依だった。
俺は手にしていた文庫本を閉じると机に置く。
「まぁそこは役割分担ですから。ありがとうございます」
「まー、たまにしかいないしな。力仕事くらいはやるよ」
「私はにいさんに家にいて欲しいです」
「あー……」
俺はそう言うと天井を見上げる。消したはずの蛍光灯が僅かにチラつく。
「最近はまた色々と物騒ですし……。ここは安全ですけど……」
「まぁな。それこそ役割分担だ。俺がここにい着いたら、それこそタダ飯食いの昼行灯だ」
「まぁ。けどそれもいいですね。なにもせず日がな一日あの窓台で昼寝したり本読んだりしてるにいさんも、素敵な気がします」
「やめてくれよ、ジジくさい」
「そうですか?私は素敵だと思いますけど」
「やれやれ、お前といいネムと言い、そんなに俺が素敵に見えるなんてそれこそ素敵な目ん玉してんな、俺のと変えてくんない?近眼なんだよ」
まあ、怖い怖い、と優依は笑いながらキッチンの方に歩いてゆく。その離席の意味を即座に悟った俺は、自分のバッグを手繰り寄せる。
「もう遅いので一杯だけですけど……」
「それじゃあみんなには秘密だな」
「まぁ!悪いことしてるみたいでワクワクしますね!」
「これで俺たちは共犯だ」
俺は優依の持ってきたポットにティーパックを入れる。カップは二つ。ずっと使い続けたやつだ。
「はい、どうぞ」
しばらくして、頃合いを見た優依がポットからティーパックを取り出し、二人分のカップに紅茶を注ぐ。
「でもさ、優依」
「はいはい?」
「俺が外でなけりゃこれだってお預けだぜ?それはやだろ?」
「あー、それは確かに嫌ですね……」
「だったら仕方ないだろ?」
「それは仕方ないですね……」
そう言って俺たちは顔を見合わせる。真面目な顔をできたのは僅かに数秒で、二人ともすぐに吹き出す。笑いながら手にしたカップが微かに震え、表面に綺麗な波紋を刻む。
「紅茶って育てられんのかな?自分ちの庭とかでさ」
「どうなんでしょう?種とかは見たことがないですけど……」
「そーゆー葉っぱを取るってことは、やっぱ紅茶の木、みたいなのがあんのかなぁ?」
「素敵ですね、その木。やっぱり紅茶の香りとかするのでしょうか?」
「やっぱりするんじゃないか?それこそ、山火事とか起きたらもう辺り一面紅茶の香りよ」
「まぁ、大変。でも、紅茶の木ってどこに生えるんでしょう?」
「んー、暖かいとこじゃないか、やっぱり」
「そうですか?私は結構涼しい山の上とかに植わってそうですけど……」
どうでもいい会話が続く。この時間は止まらない。
「今度試しに種とか探してみるかな。それでさ、芽が出たらちび共と世話してさ」
「いいですね。みんなでお水を上げたりして」
カップの中身が目減りする。
「紅茶をちゃんとこういう風にする道具とかも買わないとだな」
そうして、2人のカップが空にった。
「さて、もう遅いし寝るか」
「えぇ、そうしましょうか」
そうして俺たちは半分あかりの消えた食堂をあとにした。俺は広間に出ると窓台に腰掛ける。窓からは眩しいほどに大きな満月が見える。俺は毛布を被ると壁にもたれ掛かる。ポケットからウォークマンを取り出すとイヤホンを耳に突き刺す。再生ボタンを押し、もう何回聞いたかも分からない、何年も前の大して売れた訳でもないボカロが流れ出す。うるさいほどの旋律にうんざりしたまま、俺は固く目を閉じた。
「……。……い」
何時間経ったろう?何かの声が聞こえた気がして、俺は首に巻きついたイヤホンを解く。ウォークマンのボタンを適当に押し画面をつける。時刻は零時を少し回ったところで、液晶の光に照らされていたのは、優依だった。
「にーさん。ごめんなさい……、起こしてしまって」
「……いいよ。どした?」
「その、夢を見たんです」
「……」
俺はその先を促さない。俺はその先を知っている。
「昔の夢なんです。優にいさんも幽にいさんも、遥ねえさんも悠ねえさんも、みんながいる夢なんです」
「……優依。俺のせいだよ」
これは嘘だ。確かに全てが俺のせいだ。俺が全て悪い。
「にいさんはわるくないんです」
そしてそれ以上に、どうしようもなく優依のせいだ。
「私もう分からないんです」
「にいさんはきっとあぶかいことをしています」
「してないよ」
「それに幽兄さんだって、また会おうって言ったのに」
「そのうち帰ってくるよ」
「悠ねえさんは壊れてしまって」
「そんなことないよ」
「遥ねえさんは」
「優依」
「……」
「横になろう?そうしたら目をつぶって。ゆっくり息をするんだ」
俺はゆっくりと、俺に縋り付く優依と一緒に横になる。彼女と一緒に布団に包まる。
「大丈夫。きっと、大丈夫だから」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
シャツが僅かに濡れる。
そして、それ以上に、静か過ぎる世界の中で、俺は耳鳴りを聞いた気がした。
「」
その耳鳴りの甘い誘惑を、俺はいつも忘れてしまう。
これは、耳鳴りだ。俺は静かに目を閉じた。ポケットから滑り落ちた文庫本から零れ落ちたのは、古い新聞記事だった。
1月21日
〇〇県中部にて正体不明の高エネルギー反応を検知。国により推進されていた超能力開発中の事故か?現場の一部が砂化との情報も。
くだらない文字の羅列は、朝には俺のポケットには戻っていた。