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主は来たれり  作者: 久元
2/2

その2


 重く濡れた足音はどんどん近づいてくる。強烈な異臭が満ちた空気は蠅の大群で覆い尽くされている。

 黒い小さな羽虫がぶうんぶうんと耳障りな音を立てて、ダグラスの手に、耳に、首に、顔に、ひっきりなしに止まってはまた飛び立つ。そのむずがゆい感覚に気が狂いそうになるが、動けない。


 ランタンの明かりがすぐそこまで近づいている。あと十数秒で、あの何かは彼の横に来るだろう。

 もう何年も切ったことのない神のみしるしを胸の前で素早く刻み、ダグラスは目を閉じた。


 もうできることは何もなかった。


 ふと、唸る蠅の羽音に混じって甲高いささやきが聞こえた気がした。

 ――近づいてくる人影からか? 

 重い足音のせいでよく聞き取れない。まるで幼児のような、舌ったらずの――

 それもひとつではない。何十ものブレて重なる高く幼い声が、【それ】の表面で何かをわんわんと異口同音に叫びつづけて、


 (何を言っている? 何を、……)






 「主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり! 主は来たれり!」


 「主は来たれり!」

 「主は来たれり!」

 「主は来たれり!」






 ダグラスは目を開けた。

 ランタンの光は失うせ、周囲には路地裏の暗闇が戻っていた。

 不気味な足音も奇怪な子供の合唱も聞こえず、蠅の大群はどこかに去っている。

 心臓がいまにも破れんばかりに激しく脈打っていた。汗の粒が冷たい感触となって首筋を伝わり落ちる。


 ――助かったのか。


 彼は大きく息を吐いた。

 周囲は静まり返り、まるでつい先ほどの体験がすべて夢だったかのようだ。


 ――何がなんだかわからんが、とりあえず、助かったのなら。


 壁際に張りついたまま、ひとり安堵の苦笑を漏らす。気持ちを落ち着かせようと数回深呼吸をして――

 そこでダグラスは、胃からせり上がってきた強烈な吐き気に口を押さえる。


 匂いが。

 日なたに放置された魚の内臓を大量にかき集めたような刺激臭が、先ほどとは比べものにならないほど、強く、……


 ――そんな馬鹿な、だって音はもう聞こえないし、明かりだって、蠅だって、……


 ダグラスは震える手で口元を押さえたまま、ゆっくりと横に目を向けた。


 そうして彼は見る。

 彼のいる隙間の入り口、腕を伸ばせば届く距離に、【それ】が立っているのを。

 その顔の表面に、びっしりと羽虫の群れがひしめいているのを。

 蠅どもは空中を舞うのをやめ、かわりに、小刻みにわななく無数の薄い羽の下で何千何万の虫の腹を蠢めかせている。

 眉もなく目もなく髪もない――あったかもしれないが、すべては蠅に覆われて見えもしない――その人影の口の部分が、頭の半分まで刃物で切り裂かれたようにぱくんと横に割れた。

 奥から円柱状の長いものが、ぬ、ぬ、と突き出ると、ダグラスの顔に向かって伸びてくる。暗く青い夜の光の下で、その表面が桃色に濡れて光る。

 舌だ。

 長い、長い舌。

 微細な白い粒粒――(うじ)――が、ぽろぽろと割れ目からこぼれ落ちる。むっと強まる刺激臭が、もう耐えがたい程度まで、……


 その舌はダグラスの顔にまさに触れんばかりの位置で動きを止めた。大量の粘液を滴らせる先端に、嬰児(えいじ)の顔を思わせる皺が刻まれているのを彼は見た。まだ目の開かぬその嬰児は、限界まで伸びきった身体をまだ伸ばそうとするように、二、三度のたうってから、ぱくりとその口を開いて一言、叫んだ。

 

 「主は来たれり!」




 * * * * *




 「そこで記憶が飛んでる」

 そう言って、ダグラスは杯の酒を舐めた。酒精の強さと悪酔いで悪名高い【鉱夫の火酒】である。


「地底の大王の名にかけて!」

 テーブルの向かいの席で話を聞いていた黒髪の青年が、はーっと息を吐き、火酒の瓶の横にある水差しに手を伸ばす。

「なんて話だ……、よく帰ってきたなあ、おまえ」


 彼はダグラスの友人のひとりで、名をデューラムという。市壁のそばの村に住んでいるが、野菜や(かご)などを売りにしょっちゅう街までやってきては、ダグラスたちと一緒に酒を飲んでいく。今日も、おまえ悪魔に出くわしたらしいじゃないか、詳しく聞かせろよ–– そんなことを言って、酒瓶片手に家に押しかけてきたのだ。


「あまりスマートな帰り方ではなかったがな」

 ダグラスの隣に座る金髪の男が言う。2、3年前からのダグラスの同居人で、名をツァランという。下町に住みついてはいるが、一応、王立図書館で働く学士だ。

 ツァランは自分の杯に火酒を注ぎつつ、

「次の朝方、表通りでひっくり返って吐瀉物にまみれてるところを、親切な仕事仲間らが助けてくれた。おかげでここ最近、【ゲロ丸太】とかいう(はなは)だ不名誉なあだ名で呼ばれているのだぜ、こいつは」


 あいも変わらず口が悪い。ようやっと生還した友人にその言葉かと、ダグラスはツァランを睨にらみつけ、

「生まれたときから頭の中にゲロしか詰まってない奴が何をえらそうに」と言ってから、肩をすくめた。

「それにしても、この街にゃ変な場所がいくつもあるとは聞いてたし、おれも気味の悪い経験をいくつかしてきたが、今回のはさすがに肝が冷えたぜ。しばらく近道はしないと決めた」


「まあ、それが安全かもしれない」

 ツァランが言う。「街の路地のつくりにおどろおどろしい謎があるのは本当らしい。たしかに地図で見ると、意図のまったくわからない構造になっている場所がいくつもある。あの二つの通りの間にいったい何があるのか、大いに興味をそそられるが、一度首を突っ込むとそれこそ帰ってこられなくなるかもしれないな」


 デューラムが酒のつまみの薫製干し鹿肉に手を伸ばしながら、ふうんと唸る。

「しかし、そんな化けもんでも人殺しの追いはぎよりゃましなのかもしれないぜ。じっさい、そういう怖い話をする奴ってのは、たいてい生きて帰ってきてるじゃないか」


「――おい青年。ひとつ言っておくが」

ツァランが片方の眉を持ち上げる。


「ぼくらが耳にできるのは、たった一握りの運のよかった者どもの話だけかもしれんのだぜ。二度と帰ってこなかった無数の人間たちの物語を、どうしてぼくらが知りえるというんだ?」



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