その1
虫の知らせがなかったわけではない。
あのとき、どうしようかと悩んだ瞬間に、首の後ろあたりにちりりと妙なかゆみが走ったではないか。
石造りの壁と壁の間にぽっかり縦に開いたあの空間が、やけに暗く見えるなと、そう思ったではないか。
だが予兆などというものはいつだって、何かが起こってしまってから気まぐれのように記憶に浮かび上がるにすぎない。ああそうか、あれが予兆だったのか、と。
無意識に拳をきつく握りしめていたことも。
ごくかすかな耳鳴りも。
そのときには気に止めやしないのだ。
何かを避けえたときも避けえなかったときも、いずれすべてが起こってしまってから、彼は予兆があったことを思い出す。
おかしな話だと彼は思う。予兆の方が後なのだ。
わけがわからない。
けれども、ダグラスにとっての虫の知らせは、いつもそんなふうだった。
今日もまたしかり、である。
ダグラスは急いでいた。だからこそ慎重になるべきだったのだ。たとえずいぶん効率のいい近道に見えたからと言って、どこに通じているかもわからない裏道に足を踏み入れるべきではなかった。
だがもう遅い。人生を決する重要な岐路を、彼はいつもそうと知れずに歩み越えているのだ。
生死にかかわる選択ですら。
建物と建物の間の暗い隙間に身をひそめ、大きな身体を壁にぴったりと張り付かせながら、ダグラスは息を殺し、目をつむり、ただ願っていた。
【それ】が通りすぎてくれることを。
* * * *
ことの起こりは、一刻ほど前にさかのぼる。
その日、用心棒の仕事が早くに終わったダグラスは、都の南にある行きつけの酒場【まだらの竜】亭でエールのジョッキを傾けていた。
ここヘプタルク王国の市壁に囲まれた首都の中でもごちゃごちゃした界隈にある酒場で、お世辞にも上品とは言いがたい店である。だが、けして高級品ではないにしても、こだわりのある酒やいい味の料理を出すので、ダグラスも仲間たちも、気に入ってよく利用していた。
その酒場で、しばらく彼は、つるみ仲間がいつものようにやってくるのを待っていた。ところが飲み仲間のひとりである竪琴弾きの赤毛娘が加わってほどなくして、ダグラスはほかに用事があったことを思い出したのだ。
数日前に借りた金を返しに行くと仕事仲間のクレイグに伝えていたことを、ダグラスはすっかり忘れていたのだった。クレイグは今日は大ヤルミラ通りの酒場にいるはずだと言ったから、そこにおれが返しに行くよと、そう言ってあったのである。
ほかの飲み仲間はまだ誰も来ていない。やってきたばかりの友人を放り出してクレイグのもとに行くのは気がひけた。それでも、いっぺんこの日に返すと約束した金だ。たいした額ではないが、友達同士の信頼関係の問題である。
大ヤルミラ通りはこの酒場からさほど遠くない。だからダグラスは飲み仲間の娘に、行かなきゃならない用事を思い出した、すぐ戻る、と言い残して酒場を出てきたのだ。
ところが、いざ大ヤルミラ通りに行ってみると、まだ早い時間だというのにクレイグはべろんべろんに酔いつぶれていた。もともと酒癖の悪い男である。
そんな状態で借りた金を渡したところで、家に帰り着くまでに財布ごとスラれるのは目に見えていた。加えて、立ち上がれもしないほど前後不覚になったクレイグに酒場の店主もほとほと困り果てていたものだから、ダグラスは仕方なく彼を担ぎ上げて家まで送って行ったのだ。
ドア・ノッカーの音に迎え出たクレイグの奥方は、亭主の醜態を目にするなり怒髪天を衝かんばかりの剣幕を見せた。玄関先に突っ立ったままの奥方のすきまからクレイグを家の中に押しこむ事もままならず、ダグラスは場を辞する機会を逸して途方にくれた。
結局、たっぷり半刻もろくでなしの夫についての愚痴を聞かされたのち、ダグラスは借りていた金を奥方の手に押しつけ、ほうほうの体ていでその場を逃げ出したのだった。
(ひとりきりにされて、怒っているだろうな)
飲み仲間の娘の不機嫌な顔が目に浮かぶ。すぐに戻ると言って出てきたが、もうずいぶん時間が経っている。行きにはうっすら明るかった西の空も今ではすっかり暗くなり、遠目に見える寺院の鐘楼の横で星がちかちかとまたたいていた。
先ほどの酒場に戻る道を、ダグラスは早足に歩んだ。クレイグの住む地区と酒場の間には直接つながる通りがなく、いったん正反対の方向に向かうようにして、ぐるりと大きく迂回しなくてはならない。
(この家をひょいと飛び越えられたらなあ)
壁と壁を接し、途切れる様子もなく何十軒も立ち並ぶ下町の住居群を恨めしい思いで眺めていたダグラスは、ふと立ち止まった。道に沿って伸びている建物の壁のあいだに、大きく開いた陰を認めたからだ。
そんな場所に道があった記憶はない。だが近づいてみるとたしかに路地だ。向こう側まで突き抜けているとしたら、表通りを行くより何倍も近道だ。
(行ってみるか?)
ダグラスは思いきってその路地に足を踏み入れた。
* * * *
人気のない道だった。高い壁に両側を囲まれた道は暗く、時おり建物と建物のあいだの隙間が袋小路のように左右に開いている。
しばらく歩いていると、ぶうんと一匹の蠅が頭の回りを飛んだ。暖かい季節になってきたから、虫が出てきているのだ。
わずらわしい羽音を響かせるその蠅を手で払いつつ、思ったより長い路地だな、とダグラスは考える。向こう側の通りの明かりも喧噪も、まだ感じられない。加えれば、誰も後ろからはやって来ず、誰一人としてすれ違いもしない。
あまりに静まり返った雰囲気をダグラスが奇妙に思い始めたころ、前方から近づいてくる明かりが見えた。ランタンか何かを手にした人影だろうか。
また一匹、頬のあたりをうるさく飛んだ蠅を手で払いながらも、ダグラスは人の気配にほっとした。すれ違うときに声でもかけてやろうかと、そんなことを思いながら足を進める。
周囲の建物は変化もなく延々と続いている。もうずいぶんと長いこと歩いているような、……
そこまで考えて、ダグラスは立ち止まった。
おかしい。
肩に止まった蠅を追い払い、前方の明かりを見つめる。
人影はこちらに向かっていて、ダグラスはあちら側に向かって歩いている。もうとうにすれ違っていいころだ。なぜいっこうに距離が近づかない?
そしてこの蠅は一体なんなのだ。
ダグラスは新たに腕に止まろうとした蠅を、周囲を飛び回る四・五匹ごと、いらいらと手で払った。この道の蠅の多さは尋常でない。前に進めば進むほど数がどんどん増えていく。まるで前方に何かがあるような、
――たとえば、巨大な死体でも横たわっているような。
明かりをもつ前方の影はたしかに少しずつ大きくなっている。だがその速度はまるで亀が這いずるかのように遅い。いまだにその影が男か女かすらダグラスには判別できなかった。ランタンの明かりの中にシルエットが黒くぼんやりと浮かび上がっているだけで、その輪郭しか、
――いや。
突如としてダグラスは悟った。同時に、すぐ右に開けた建物の隙間にとっさに飛び込んでいた。人ひとりがぎりぎり嵌まれる程度の空間の、その壁に背をぴったりと押しつけ、ぜいぜいと荒くなりそうな息を必死に押し殺す。
何を考えるひまもなかった。こちらに向かってくる影に対する本能的恐怖が、ただ彼の身体を動かしたのだ。
あれは何かのシルエットなどではない。
近づいてくるあれ自体が真っ黒なのだ。
その真っ黒な身体からひっきりなしに無数のごま粒のようなものが空中に飛び散り、また表面に吸い付いている。隙間に飛び込む寸前に、ダグラスはそのことを認識したのだった。
蠅だ。
おびただしい数の蠅が手から足から顔から、つま先から頭の先にいたるまで全身をびっしりと覆いつくしている。だから、あれは真っ黒なのだ。
前方からこちらへ向かってくるのは、人の形をした蠅の塊なのだ。
どっと汗が噴き出した。
その蠅の塊がなんなのか、ダグラスにはわからなかった。人かもしれなかったし、彼の想像を超えた何かかもしれなかった。いずれにせよ――たとえ人であったにせよ――見てはならない何かであると、彼の内部の声が叫んでいた。
それは少しずつ近づいてくる。いまや、一歩石畳に足が踏み出されるごとに濡れた音が響くのまでもが聞こえてきた。
まるで、剥いだばかりの動物の生皮を地面に叩きつけるような、重みと粘りけのある音。その足音に蠅の唸りがぶうんぶうんと絡みつく。
腐敗が進んだ何かの刺激臭が鼻をついた。
このまま行けば、あの何かはダグラスが身を隠している隙間のすぐ横を通り過ぎていくだろう。
もしかしたら全速力で表通りまで逃げるべきだったのかもしれない。だが、あのときはとっさにもう遅いと感じたのだ。回れ右をして逃げて間に合うものではないと、身体のどこかが伝えた。だからこの隙間に逃げ込んだ。
不快な脂汗が背中を幾筋も流れ落ちる。握りしめた手のひらがやけに滑る。
あれはこちらに気づいているだろうか?
気づかれたらどうなるのか?
いや、気づく気づかないなどという、人のけちな思惑の領分ですらなく、あれは、……
ともすればがちがちと鳴り出しそうな奥歯を、ダグラスは顎が痛くなるほど噛みしめる。
ーーそうだ、あそこに路地など開けているはずがなかった。
何度も通った道なのだ。いつでもぐるりと大きく通りを迂回しなければならないから、近道を探したけれども見つからず、……
そもそも考えてみるがいい。
微細な血管のように路地が複雑に分岐したこの下町で、なぜ直線距離にしてみればごくわずかでしかないあの二つの通りの間だけ、いっさいの路地が存在しないのか。
なぜ、大小を問わずあらゆる道が、この場所を避けて作られているのか。
なぜ、この場所の周囲に立ち並ぶすべての建物は、扉も窓も外側に向かって――つまりこの場所に背を向けるようにして建てられているのか。
まるで内側にある何かからことごとく目を背けているかのように。
それが目にしてはならないものであるかのように。
――ここは一体なんなんだ。