お嬢様の逆鱗
「ちょっと、何をしているのっ!」
一瞬で背筋が凍った。
心臓が止まるかと思うほど驚きながら、ばっと振り返ると、険しい顔をしたお嬢様が大股でこちらに向かってきていた。
「お、お嬢様っ」
「最近様子がおかしいと思っていたら、やっぱり勝手に行動していたのね!」
激怒したお嬢様が両手で私を突き飛ばした。そして、小さく悲鳴をあげて尻餅をついた私の髪の毛をすごい力で掴んできた。
「痛っ!」
「しかも竃山なんかと! お前、私の忠告を聞いていなかったのっ!」
甲高い声が耳に突き刺さる。何度も「申し訳ございませんっ」と謝るけど、髪を掴むお嬢様の力が緩むことはなかった。
髪を捕まれたまま、何度も頭を揺さぶられる。
髪の付け根がそのたびに悲鳴をあげていた。
「お、お嬢様」
「黙れっ! 命令も理解できない奴隷が、喋るんじゃないわよっ!」
顔を真っ赤にして激怒しているお嬢様に、私の言葉なんか届くはずがなかった。
この激情が落ち着くまで耐えるしかないと覚悟したときだった。
「乙霧」
さっきまでベンチに座っていた竃山さんがいつの間にかお嬢様の後ろに立っていて、その肩に手を乗せた。
お嬢様がその竃山さんをキッと睨み付けた。
「今は取り込み中よ。見たらわか――」
「うるさいから静かにしなさい。大声で喚くなんて、品のない女ね、お前は」
お嬢様の言葉を遮って、竃山さんはいつもの調子でバッサリとそう切り捨てた。
竃山さんの目には、怒っているお嬢様も、みっともない私も入っていないような、いつも通りの態度に、私もお嬢様も閉口してしまう。
ただ、すぐにお嬢様が正気に返った。
「なんですってっ!」
お嬢様は私の髪を放すと、竃山さんの方を振り向いて、さっきの私みたいに彼女を両手で突き飛ばした。
竃山さんがそのまま倒れると、お嬢様が追撃しようとした。
ダメだ、止めないと――。
そう思ったけど、腰を浮かす勇気が出てこなかった。今、お嬢様を止めたら、また攻撃されてしまうと思うと、勇気どころか、声さえ湧いてこなかった。
私と同じように尻餅をついた竃山さんに、お嬢様が手を振り上げた。
「何の騒ぎですかっ!」
急に飛び込んできた声の方を振り向くと、切羽詰まった顔をした染井さんがいた。彼女は私やお嬢様、そして竃山さんを見ると、大きく目を見開いた。
そんな染井さんの登場に、お嬢様は舌打ちをしてから、手を下ろした。
「乙霧さん、何をしているんですか!」
「うるさいわね、あなたなんかに関係ないわよ」
怒気を含んだ声で染井さんがお嬢様に迫るけど、お嬢様は彼女とは目も合わそうとしない。
「暴力行為ですよ! わかっているんですか!」
「私は暴力なんてしてないわ。そこの二人が勝手に転んだだけよ、ねえ?」
お嬢様が鋭い視線で私に同意を求めてきた。染井さんもこちらを見て、二人とも私の返事を待っていた。
自然と汗が噴き出てくる。違うと言いたいけど、お嬢様に刃向かうことなんて、私にはできない……。
「さっさと答えなさい!」
返事をしない私に痺れを切らしたお嬢様が怒鳴った。
「そ……その通りです」
申し訳なさから逃げるために目をぎゅっと閉じて、そう返事をした。
それにお嬢様が満足して「ほら見なさい」と胸を張った。
「竃山さん、あなたは」
「染井、あなたもうるさいわ。どうでもいいことでしょう」
私が頼りにならないと判断した染井さんが竃山さんから証言をとろうとしたけど、彼女もなぜか事実は言わなかった。
「決まりね。二度と決めつけで喋るんじゃないわよ、下民が」
お嬢様は染井さんを馬鹿にするように鼻で笑うと、そのまま中庭から出ていった。
「乙霧さん、話はまだ終わっていませんよ!」
その背中を追って染井さんも中庭から姿を消した。
残ったのは私と竃山さん。私は尻餅をついたまま俯いて動けなかったけど、竃山さんは早々に立ち上がると、制服についた土を払った。
「まったく、騒々しい」
中庭から出ていった二人を、呆れたように腰に手をあてながら見送っていた。
「あなたも、早く立ちなさい」
「……すいませんでした」
消え去りそうな声で謝ると、竃山さんは首を傾げた。
「何を謝っているの?」
「……私、嘘を、つきました」
お嬢様に強要されたとはいえ、竃山さんが暴力を振るわれた事実をなかったことにする嘘をついてしまった。
そのことが胸を締め付けていた。
「か、竃山さんに、ひどいことを……」
「馬鹿を言いなさい」
「え」
「あなたはあれの従者なのでしょう? なら、当然のことをしただけよ」
素っ気ない、だけど優しい言葉に、締め付けられていた胸が解放されたような気がした。
「あれはあなたを頼った染井が迂闊だったわね」
わかってないわねと、竃山さんはため息をついた。
「許して、くださるんですか?」
「くだらないわ。あなたは仕事を果たした。誇りなさい」
気に病む私を見下ろしながら、竃山さんは自分がされたことなんか気にするどころか、私がしてしまった不誠実なことを、誇れとまで言ってくれた。
胸や喉の奥が熱くなっていく。
そんな私をよそに、彼女は汚れてしまった自分の掌を見つめていた。そして、私を一瞥すると、小さく笑った。
「でもそうね、悪いと思っているなら、付き合いなさい」
「……つ、付き合う?」
「ええ」
彼女はまた汚れた掌を見て、きっぱりと言った。
「お風呂に」
久しぶりに登場したと思ったらこのヒールっぷり。
書いてる身としては、彼女も憎めないやつなんですけどね。




