これは決定事項です
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逃げた。
その罪悪感は思っていた以上に、私の心を蝕んでいた。
そんなことしてもどうにもならないのに、ギュッと自分の右胸を抑える。
『あなたの意見を言いなさい』
昨日、竃山さんに言われた言葉が、頭の中でずっとリピートされていた。振り払おうとしても、ちっとも消えない。
今まで、そんな機会がなかったからかもしれない。
でも、それでいい。そういう存在なんだから。
お嬢様には昨日のことは秘密にした。また竃山さんと関わったことがばれたら、ひどい目にあうに決まっている。自分の意思でなかったとしても、容赦はしてくれないはずだ。
そして昨日と同様、私は逃げていた。
放課後、いつものように教室にいたら、また昨日の五人組が来そうで怖かったので、今日は潜伏場所を変えていた。
図書室の隅で、目立たないように文庫本を広げていた。
何人かいる生徒はみな自習していて、各所で鉛筆がカリカリという音をたてていた。
お嬢様学校とはいえ、大学の付属高校じゃないから受験生も当然いる。
ただ、中流家庭出身の生徒はそうだけど、出自がしっかりしていると、そういうところも保証されていることが多い。お嬢様なんて特にそうで、もう入学する大学は決まっている。
受験も受けるけど、あくまで形式上だ。この高校だってそうやって入学した。
「ま、私には関係ないか」
受験も進学も関係なかった。だから受験生たちの殺伐とした精神とも無縁で、そこは良かったかもしれない。
文庫本に視線を戻したときだった。
「何が関係ないの」
頭の中でリピートしていた声と、同じ声が飛んできた。
びっくりして顔を上げると、向かい側の席に竃山さんが気怠そうに座っていた。
「え、あ、え」
「うるさいわ」
驚かしてるのはそっちのくせに。
「ど、どうして」
「あの五人だけじゃないのよ、弓道部は」
竃山さんは自習していた一人の生徒を指さした。その彼女はこちらを向いて、はにかんでペコリと頭を下げると、口パクで「ごめんね」と謝ってきた。
「あれは受験組でね。部活に来るか来ないかは自由にさせてるの。あなたがここに来たこと、知らせてくれたわ」
つまり、私は竃山さんの手先がいる中にまんまと入っていってしまったということだ。
自分の思慮の浅さに絶望する。生徒会のメンバーに入るくらいの実力者である竃山さんから逃げ切れるなんて考えるのが駄目だった。
「返事」
「は、はい?」
「返事をまだ聞いていないわ」
それが何に対する返事かわからないほど、のろまじゃない。ただ、口に出すのはやっぱり憚られて、膝の上で手を遊ばせてしまう。
竃山さんは昨日の怒りなんて忘れたみたいに余裕で、私を睨み付けるどころか、気怠げに頬をついていた。
「……どうして、ですか?」
「うん?」
「どうして、私なんですか? 染井さんも、理由は教えてくれなくて」
「…………」
生徒会のバックアップメンバーは私じゃないと駄目ってことはないはずで、どうして彼女たちが私に拘るのか、それがわからない。
染井さんは理由を教えてくれなかった。竃山さんはもしかしたら理由を聞いてるかもしれない。
彼女はしばらく黙っていたけど、首を小さく傾けた。
「さあ?」
まるで悪びれた様子もなく、彼女はその答えを持っていなかった。
いやいや、それはあんまりだ。
「じゃあ、私じゃなくても、いいじゃないですか」
何かどうしても私じゃないといけないなら、再考しないといけないけど、明確な理由もないなら、他の人を当たって欲しい。
竃山さんは表情を変えず、あろうことか「それもそうね」なんて同意までしてきた。
本当にマイペース。
じゃなくて。
「だったら、私はできません」
ここまで言えば、諦めてくれるかもしれない。非は私じゃなくて、竃山さんと染井さんにあるんだってことにしちゃえばいい。
竃山さんは「そうね」と、相変わらず自分のペースを崩していなかった。
むしろ、どこか上の空。
「あ、あの、聞いてます?」
彼女はその言葉に反応せず、自分の髪の毛をくるくると指に巻き付けていた。
細い人差し指に、金色の毛糸が絡まっているみたいで、思わず目を奪われる。
「……やっぱりだめね」
「え?」
「今日は自分でやってみたのだけど、やはり落ち着かないわ」
竃山さんはあの日と同じように、ポケットからヘアブラシを取り出しすと、それを私に渡してきた。
「お願いできる?」
さっきまでの話はどこに行ってしまったんだと不機嫌になりそうになるのに、そのブラシを受け取ってしまうところが、自分でも悲しかった。
彼女の背中に回り、この間と同様にとかしていく。
やっぱり、すごくいい髪質。さらさらと櫛がはいっていく。羨ましいなんて思えない。きっと、持って生まれたもので、いくら望んでも手に入らない。
それでもいいと思える。触れられるだけで光栄。
半ば夢中になってブラシをしていいたら、急に「ねえ」と話しかけられた。
「は、はぃ」
「退屈だわ。何か、話して」
「何かって……」
ろくな生活を送っていないのに、そんなことできるはずない。
言葉に詰まっていると、彼女はさっきまで私が読んでいた文庫本を指さした。
「なんだっていいわ。あれの内容とかでも。無音が嫌なだけよ」
本来、図書室はそういう場所なのに……。
「早く」
急かされたので仕方なく、私はその文庫本の中を復唱し始めた。
よくある童話。家族からいじめられていた少女が、魔法使いに助けられて、王子様と結ばれる。誰もが一度は聞いたことのある童話の、原本とされる小説の翻訳版だった。
中身を思い出しながら、読み上げていると、急に竃山さんに「待って」と止められた。
「あなた、何をしているの?」
「え?」
「内容を話してとは言ったけど、一字一句読みあげろなんて言ってないわ」
「あ、ああ」
ただ、要約して何かを話すのは苦手だった。というか、まだ読み終わってないから、要約しようもない。
「え、ええと」
「……全部、覚えているの?」
「え?」
さっきから『え』しか言ってないような気がする。
「本の中身を全て覚えているのかと訊いたのよ」
「あ、はい……」
竃山さんは私が読んでいた本をじぃっと見つめた後、私を見上げた。
その綺麗な青色の瞳には、僅かに驚きが混じっていた。
「全部?」
「はい……。記憶力は、いいので」
「あれを全て覚えるのは、記憶力がいいという問題ではないわ」
それはわかっていたけど、どうしてもそれを特技と言う気にはなれなかった。
一度見た物を忘れないというのは、子どもの頃から無理矢理体になじませた習慣だったから。
お嬢様の命令、仕草、全てを覚えて何が必要か、何をしなければいけないか、瞬時に判断する必要があった。
恐怖心が記憶力を必要以上に成長させて、見た物は全て覚えられるようになった。
「……そういうことね」
竃山さんはそう独りごちると、不愉快そうに顔をしかめた。
「染井め、わざと黙っていたわね」
「あ、あの」
さっきから竃山さんが何を言っているのかがわからない。
ブラシだけは動かしていたけど、そんな私を無視して、竃山さんは急に立ち上がって、体をクルッと反転させた。すると、黄金の髪の毛が綺麗な弧を描いた。
そして彼女はまっすぐと私を見つめた。
「決めたわ。やっぱりあなたがバックアップメンバーよ」
「え」
改めて、しかも昨日よりもずっと力強くそう宣言された。さっき、私が拒否したことなんて忘れているみたいに。
ただ、彼女の目を見たら、それが冗談や気まぐれでないことはわかった。
「今度は逃がさないわよ、芙蓉」
その瞬間、初めて彼女に名前を呼ばれた。
高校時代の許せないエピソードで、図書室が広くて、それが入学希望の一つだったのに、
入学して一年もしないうちに、図書室が縮小されたことってのがあります。




