たったひとつのどうしようもないやり方
寮の部屋に戻ると、機嫌を直したお嬢様がすでに戻られていた。
「遅かったじゃない」
「申し訳ございません」
すぐに膝をついて頭を下げると、彼女は小さく笑ったあと「まあいいわ」と、嘘みたいにあっさりと許してくれた。
意外なことに嬉しい反面、拍子抜けしてしまう。
「何か、あったんですか?」
頭を上げてそう質問すると、お嬢様は腕を組んだまま「ええ」と答えた。
「染井に謝らせてやったわ。証拠がないのに犯人扱いしたからね。ざまあみなさい」
お嬢様曰く、あの後も染井さんはお嬢様に説明と責任を求め続けたみたいだけど、お嬢様はそれを振り切った。それどころか、人を犯人扱いしたことを謝れ、さもないと悪評を流してやると脅したらしい。
結果、染井さんは事態の悪化を避けて、謝ったという。
話を聞き終えると、ウッと、胸が苦しくなった。私を庇ってくれた染井さんにそんなことをさせてしまった……。
本当に、申し訳ない。
「あと、手紙が届いたわ。お前にも関係あるわよ」
お嬢様が指で挟んだ封筒をひらひらとさせながら見せてきた。
「お前の親からよ」
「……そうですか」
両親からと聞かされても、私の心は何の反応も示さなかった。
「今度、今後のことで話し合いの場を設けるそうよ。あいつら、こっちに来るって。私も同席するから」
「かしこまりました」
拒否権なんてあるわけもないから即答した。
ただ、急に胸騒ぎがしてきた。
お嬢様の笑顔が怖い。それはいつものことだけど、何か意味深な表情は、獲物をゆっくりと追い詰める蛇のように見えた。
9
両親と顔を合わせるのは、二年ぶりだった。
「久しぶりだな、芙蓉」
「……お久しぶりです」
父の挨拶に頭を下げて応えた。
話し合いの場は職員室の隣にある応接室で、六人掛けのテーブルに、私と両親が向き合うように座っていた。
お嬢様は部屋の端っこで、私たちを観察するように眺めていた。
「お嬢様に迷惑をかけてない?」
母の確認に私は「はい」と答えたけど、お嬢様が「どうかしら」と横やりを入れると、母は私の意見なんて無視して、お嬢様に頭を下げた。
「ダメじゃないか」
「そうよ。お嬢様は私たち家族の恩人なんですからね」
父と母が矢継ぎ早にそう注意してくるので、また頭を下げて謝った。そんな私の様子を、お嬢様がニヤニヤとしながら眺めていた。
でも、そんなことはもう気にならないようになっている。
そもそも、今の私は、心をこの場に持ってこられていなかった。
今日は両親との面談だというのに、頭の中にはまだ竃山さんがいた。あのお風呂から一週間が経って、その間、一度も会うことはなかった。
あの五人組に拉致されることもなくなり、私の日常は竃山さんと出会う前に戻っていた。そして、それは私が覚悟していた以上に、虚無感に包まれたものだった。
心に開いた穴は塞がるどころか、日に日に大きくなっていって、一人でいる時間では竃山さんのことばかり考えてしまう始末だった。
そんな状態で今日を迎えて、両親と再会したけど、気分転換にもならなかった。
「細かいことはいいでしょう。さっさと本題に入りなさい」
お嬢様が両親にそう命じると、彼らは「そうですね」と二人揃って頷いた。
私と両親の話し合いだけど、主導権はお嬢様にあった。
「芙蓉、お前ももうすぐ卒業だ。どうだ、進路は決めたのか?」
父がそう切り出してきたとき、素直に驚いた。私の進路なんて、興味がないと思っていたから。
「いいえ、まだ決めていません」
「そうか」
その返事に父が母に目配せをして、今度は母が話し始めた。
「行きたい大学とかはないの?」
「大学? ……いいえ、進学はしません。就職を予定しております」
何を今更言い出すんだろうと思わず眉を寄せてしまう。
「でも、働き口はまだ決まってないんでしょう?」
「卒業後に、アルバイトなどをしながら、ゆっくりと考えるつもりです」
「それは、よくないんじゃないかしら。ねえ?」
母が父に同意を求めると、彼は神妙な顔で頷いた。
「甘いぞ、芙蓉。バイトなんて不安定じゃないか。娘がそんな状況では、私たちも落ち着けない」
「…………」
余計にわからなくなってきた。この人たちは、どうしたっていうんだろう?
私たちに親子関係なんて、存在していなかったはずだ。だから、私は卒業したらお嬢様はもちろん、この両親とも縁が切れるものだと思っていた。
だから進路を気にかけてくるなんて、わけがわからなかった。
今までずっと私に興味なんてなかったはずなのに……。
「芙蓉、俺はまだお前は学校で学ぶべきだと思う」
「私もそう。やっぱり、大学は出ておくべきよ」
「そんなお金、ありません」
そんなこと、この人たちが一番よくわかっているはずなのに……。
一週間前のあの日から感じていた胸騒ぎが、急に暴れ出した。
気持ちが落ち着かない。鼓動が早いし、汗が出てくる。
「お金は、お嬢様たちが出してくれるわ」
母のその言葉で、私は全てを察した。
目の前が真っ暗になっていく。
呆然と両親を見つめながら、震える唇で知りたくもない事実を確認しようとしていた。
「また、ですか……?」
糾弾の混じった質問に、両親は何も答えなかった。
「また……旦那様から、お金を借りたんですか?」
そうとしか考えられなかった。
この人たちはまた旦那様――お嬢様のお父様からお金を借りて、返せなくなったんだ。だから私の奴隷契約を、延長させた。
「違う、そうじゃないんだ。お前のためを思うと進学が一番だった。ただお金が用意できなくて」
「そうよ。そこを旦那様やお嬢様が手を差し伸べてくださったの。だから、恩返しをするのは当然なのよ」
首を体ごと左右にぶんぶんと振った。
上辺だけの、軽薄な嘘で包まれた言葉に、心より体が先に拒否反応を示した。
そんな私の拒絶反応に困った両親と違って、お嬢様は楽しそうに声をあげて笑った。愉快で、楽しくて仕方ないというような、嗜虐をたっぷりと含んだ笑い声が、鼓膜を揺さぶってくる。
彼女は私のもとに近づいてくると、ぽんと肩を叩いた。
「残念だったわね」
お嬢様は大学進学が決まっている。つまり、私は来年以降もお嬢様とのこの関係を継続させないといけない。大学でも、ここと同じように奴隷として扱われる。
ああ、だから……だから、あのとき、お嬢様は上機嫌だったんだ。
「……どうして」
あと少し我慢すれば、解放されるって信じていたのに、どうして……。
「どうして、どうして」
その言葉しか出てこなくて、そう繰り返すと、さっきまで困っていた両親が急に顔を険しくした。
「なんだその態度は」
「私たちの借金は家族のものなんだから、あなただって手伝いなさい」
「お前は乙霧の家に育ててもらったんだ、恩を返すべきだろうっ」
「そうよ、こんな良い高校にも入れたんだから、文句を言う権利なんてないわっ」
「それに大学にも行けるんだ、むしろ感謝しなさいっ!」
「あなたのためでもあるんだから、わがままを言わないでっ!」
「今まで通りなんだから、いいじゃないかっ!」
「お嬢様に恩返ししないといけないでしょうっ!」
両親が腰を浮かせて、つばを飛ばしながら、聞きたくない言葉の数々で私をなじってきた。途中からは、意識が遠のいていき、何かを叫び続けている両親を、ただただ見つめるだけだった。
そんな狂った光景を、お嬢様はやはり楽しそうに眺めていた。そして私の耳元で、二人には聞こえないように囁く。
「お前は、こういう運命なのよ」
私の中で、何かが壊れた。
勢いよく立ち上がると、膝の裏で椅子を倒してしまったけど、そんなの構っていられなくて、全速力でその場から走り出した。
背中から両親の怒号と、お嬢様の笑い声が聞こえるから、力いっぱいに耳を塞いだ。
自然と涙が溢れてきた。耳を塞いでいるから、それを拭うこともできない。そんなみっともない姿で廊下を駆け抜けていく。
行き場なんて、ないくせに。
誰も味方なんていない。ここで逃げたからって、両親やお嬢様の呪縛からは逃げられない。
お嬢様の言うとおり、これが私の運命なんだ。
それを認めると、自分が置かれている状況が、いかに絶望的であるかがよくわかった。
仮にあと四年間、我慢してお嬢様の奴隷であることを耐えても、その先もきっとあるはずだ。もう誰もが私を一人の人間として扱うことをやめている。
走り続け、辿り着いたのは教室だった。そこでやっと涙を拭って、ふらふらと自分の机に向かう。
運命から逃れる方法は一つだけだ。
自分の机の中から筆箱を取り出して、その中にあった刃先の尖ったハサミを手にした。
これからすることを想像すると、恐ろしくて手が震える。
それでも震える両手でしっかりとハサミの柄を握り、刃先を自分の首に向ける。銀色の刃先が窓から差し込む夕日に照らされ、キラリと光っていた。
刃には惨めに泣く私が映っていた。
もういい……。こんな運命なら、もう、どうでもいい……。
覚悟を決めて目を閉じた――。
救いようがないなって人たちは、結構いますよね。
今日から更新再開で、金曜日まで毎日更新していき、金曜日で最終回となります。
できれば今週いっぱい、お付き合いください。