あなたはだれ
コンコン、とガラスをノックする音が部屋に響いた。ベランダの方からだ。
今夜は早めに床に就いていたせいだろうか。その小さな音で意識が覚醒した。壁時計の短針はⅡを指していた。
こんな夜中にいたずらをするのは誰かと不思議に思い体を起こして確認すると、中学生ぐらいの少女がベランダからガラス戸をノックをしていた。
少女は、こちらが体を起こしたのに気づくと、腰まである黒い髪をたなびかせ、こちらにむかって小さく手を振った。
少女は新雪のように真っ白なワンピースを着ていて、その姿が月の光に照らされることで神秘的な雰囲気を漂わせていた。
ベランダの窓が開けられると、少女は目を輝かせてにっこりと笑ってみせた。
君はだれ。と訪ねてみる。
しかし少女はその質問に答えなかった。返答のつもりなのか、水晶のように透き通った目でこちらをじっと見つめてきた。
負けじと見つめ返すが、彼女の瞳に吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚え、ほどなく目をそらしてしまった。
ふと、手が引っ張られた。彼女が外へ行こうと誘っているのだとわかった。彼女の手は陶器のように美しくそして冷たかった。手に少し力を入れれば壊れてしまいそうで、握り返すのが躊躇われる。
だが次の瞬間には彼女にすさまじい力で引っ張られていた。少女の細腕のどこからそのような力が湧いてくるのだろうか。
そして彼女は手すりを乗り越えて飛び降りた。
彼女に腕をつかまれているせいで落下の運命を共にすることになる。思わず目を閉じて、落下の衝撃に備えて身構えた。
が、予想していた衝撃が肉体を襲うことはなかった。
いつのまにか少女と手をつないだまま、住んでいるマンションの下に来ていたのだ。頭上の数メートル上にさっきまでいたバルコニーがみえる。
全く痛みはなかった。これは夢なのだろうか。
空を仰ぐが、月は見えなかった。
……こんな真夜中に外へ繰り出したのは初めてかもしれない。
人通りのない道を、街灯が寂しく照らしている。かといって、周囲が静まりかえっているわけでもない。耳を澄ませばどこからか鈴虫の鳴き声が聞こえてくる。
こういう季節ならではの風情を楽しむ人も世の中にはいるのだろうな、とくだらないことを考えていると、こっちへ来てというように、また彼女が腕を引っ張った。
どこか夢ごこちのまま、川に流される木の枝のごとく、腕が引っ張られる方向に体は引きずられていった。
街灯からネオンサイン、ホタルの光まで、すべての光が少女を照らし出す。
少女は確かに存在しているのだと世界に訴えかけるのだ。
三日月だけが孤高の存在であった。
少女に導かれること数分、やがてたどりついたのは近隣にあるショッピングモールだった。当然とっくに営業は終了していて、昼間の喧騒からは想像できない静けさが支配している。
日中はすべてを受け入れてくれる自動ドアだが、夜中はすべてを拒絶する。
彼女はやっと腕から手を放すと障害物などないかのように自動ドアをすっと通り抜け、ショッピングモールへの侵入を果たした。
そして彼女は振り向きこちらを見つめた。待っているからはやくついてきなさい、とでも言いたげだ。
無茶を云わんでほしい。
物は試しとばかりに自動ドアに手を触れてみれば、あるはずの手ごたえはなかった。
さすがにこうともなれば、これはどうやら夢なのだなと確信していた。いくら鈍くても分かる。
ふと思いついて地面に手を伸ばす。普通に触れることができた。
もし地面を通り抜けることができたなら、足は地面を突き抜けてまるっと反対側に出ていたかもしれない。
そしてそのまま、少女に続きショッピングモールへの侵入を果たした。
少女は嬉しそうにぴょんぴょんはねた。
ショッピングモールの中の明かりは非常口のランプぐらいのものだったが不思議と薄暗い程度で移動に困ることはなさそうだ。
気が付けば再び彼女は跳ねるように走り出していた。使命感のようなものから自然と足は動いていた。
少女の目的地は地下の食品売り場だった。
何か食べたいものでもあるのだろうか。
少女はキョロキョロと棚を見渡して探し物をしているようだ。
しばらくしてピタリと彼女の動きが止まった。パンの並ぶコーナーだった。
パンコーナーにとててて、と駆け寄ると、惣菜パンには目もくれず、食パンの袋を一つ手に取った。袋のパッケージにはなんたらのパン祭りという文字がプリントされている。
少女は1枚を袋から取り出し、手で16分割すると、もそもそとちぎった16分の1ずつを食べている。
その様子をじっと観察していると、彼女は1切れをこちらに差し出した。
別にパンが欲しくて観察していたわけではなかったのだが、せっかくなので差し出されたパンを受け取り口に放り込んだ。安定した味だ。特筆するべきことは時にない。
パンを噛み続けていると唾液が混じり、ペースト状になったのがわかる。ほんのちょっとだけ甘かった。ぐちゅぐちゅになったパンを我慢できずに飲み込んだ。
少女はやがて食パンにも飽きたようで、残りを袋ごと投げ出した。焼きもせず、バターもジャムも、ハムでさえなしで食べていたらそりゃあ飽きる。
少女はぺたぺたと足音を立てながら下りのエスカレーターを駆け上がっていった。次はどこへ向かうのだろうか。
……少女を見失った。
どこかの店へはいっていくのまでは確認できたのだが、テナントにはすべてシャッターが下りていてどの店に入ったのか判断がつかなかった。
何もすることがないので並んでいるベンチに腰かけて少女が現れるのを待っていた。彼女は再び現れるという奇妙な確信があった。
暇なので意識を宇宙の彼方まで飛ばして旅をさせていた。地球を飛び出せばちょうど半分が陰になっている月がある。太陽へ近づくと暑いので太陽のある方向とは逆に進んでいくことにする。火星人に軽く挨拶をし、木星をするりと通り抜け、土星の輪っかを粉々にするツアーを終えたところで彼女はどこからか現れた。
しかし、先程とは服装が大きく異なっていた。黒い白鳥とでも表現すればいいのだろうか。ふわふわした黒いコートを身に纏っている。そして自分の姿を見せつけるかのようにその場で一回転して軽くお辞儀をした。
黒いスカートが翻る様子はさながら映画のワンシーンのようであった。
とてもよく似合っている。と伝えると彼女は嬉しそうにはにかんだ。
また少女はどこかへと歩き出した。次はどこへ行くのだろうか。行き先について思考を巡らせながら彼女についていった。
少女は屋上の立体駐車場で足を止めた。駐車場にはなぜか一台だけ赤い車が停まっている。
「あなたはだれ」
誰の声かと頭にはてなマークが浮かんだのも束の間。それは少女の声だった。容姿にふさわしい凛とした声だ。
こちらの目をしっかりと見つめ、彼女は云った。
「なんだ、ずっとだんまりだから喋れないのかと思っていた。出会った時からそうしてくれれば――」
「あなたはだれ」
少女は再び同じ問いを投げかける。
「では自己紹介しようか。『 』の名前は『 』だ」
あれ、なぜだ。おかしい。『 』の名前。思い出せるはずだ。
しかし『 』の記憶には己を特定するものは一切なかった。
『 』はいったいだれだ。名前は。年齢は。性別は。家族は。趣味は。
「教えてくれないか。『 』は一体なんであるかを」
「知らない」
少女がその言葉に付け加えるように一言。
「あなたは真っ黒」
真っ黒だって?
『 』は思いついて、急いで駐車してある赤い車へ走った。そして窓ガラスに自分の姿を映す。だが映った顔には黒いもやがかかっていて、そこから得ることができる情報は何もなかった。
「バイバイ」
バッと少女の声のした方を見ると、目にしたのはまさに背中から地面へ転落しようとする少女の姿だった。彼女の着ているコートの漆黒は、皮肉にも映った顔の深さと同じだった。
もちろん『 』は赤い車から翻るように離れ、すぐさま手を伸ばし彼女の白く小さな手をつかもうとした。
だが、到底間に合わないことはわかっていた。わかっていても動かずにはいられなかった。
少女は月に照らされながら地面へと落下していった。あまりに唐突で、少女の行動の理由もさっぱりわからない。
数秒経っても世界は沈黙したままであった。いや、あるいは数分だったかもしれない。
手を伸ばしたまま固まっていた『 』は恐る恐る駐車場から真下を覗いてみた。だが真下はちょうど建物の陰になっていて、深い深い闇が広がるばかりであった。
やはりこれは夢に違いない。『 』はそう思った。夢ならば早く覚めなければならない。
夢から覚めるにはどうすればいい。答えはもう出ていた。
『 』は屋上の淵によじ登り全身に夜風を浴びた。
そして一切のためらいなく跳んだ。この夢から抜け出すにはこうするしかない。
身体はすぐさま重力に従い落ちていく。『 』と地球が引かれ合う。
その中で、ほんの一瞬だけ月に祝福される。
満月だった。
月の光は建物に遮られ、すぐにその祝福は終わった。
しかし、『 』には本能のようなもので理解できた。祝福のあった短い時間。その瞬間だけ顔の黒いもやが晴れたのだ。
待ってくれ。
そのセリフを発する前に頭はずぶり、と闇に飲み込まれていた。
一縷の希望を信じて伸ばした手も、むなしく空を切るばかりで数瞬の内に闇に溶けた。
そして―――。
『 』がこの後どうなったかはご想像にお任せします。