第四話 赤子
どんどんよくなる女の話を聞きつけ、村人が集まって来た。
病気だった頃は近寄りもしなかったくせに、奇跡の秘薬の話を聞きつけたかりに来たのだ。
しきりに薬草の場所を訪ねる者たちに、トリスは包み隠さずすべてを教えた。
薬を飲ませてから一〇日。母親は完全に以前の姿を取り戻した。立って歩き、娘を抱きしめ、畑仕事に精を出す。その体力は村の男共をも上回り、誰もが奇跡だと噂した。
しかし、違和感に気づいた。
母親が太って来たのだ。以前はは骨と皮ばかりの痩せた体だったので、それは喜ばしいことなのだが、碌に食料もない寒村において、その大柄な姿は酷く歪に映った。
いよいよ異常を感じたのはさらに三日後、母親は相変わらず太り続けている。
否、膨らんでいるのだ。
一体なにが起きているのか。焦燥に似た不安に苛まれるが、どうすることも出来ない。その日の夜に、母は再び倒れた。
「一体、どうして・・・・・・。薬はちゃんと飲ませたのに」
今や醜い肉の塊となった母親の手を握り、トリスは泣いた。
このまま太り続けたらどうなってしまうのか。いずれ増え続ける肉の圧力で破裂するのではないか。
答えはすぐに出た。翌日、昨日よりもさらに大きくなった母親が、突如呻き声を上げたのだ。
苦しい苦しいと泣き叫び、そうしている間にも体はどんどん膨らんで行く。最早顔も肉に埋もれて見えやしない。一際大きな叫び声を上げたと思ったら、それきり母親は動かなくなった。
ベッドから溢れた肉が垂れ下がり、スライムのように床へと流れた。そこには母の死を悲しむ娘がいた。肉の濁流にのまれ、身動きがとれない。
ベッドから流れ落ちた母親を持ち上げることは不可能だった。
(私は、このまま死ぬのだろうか)
満足に息も出来ず、薄れ行く意識の端で、トリスは神の顔を思い出した。
冷たい肉塊となった母と、その下で潰されている娘を発見したのは、様子を見に来た村長だった。急いで村の男を集め、五人がかりでようやくトリスを救い出した。ほとんど虫の息だったが、薬草から煮だした薬を一口飲ませると見る見る回復した。
「あの薬はダメです。あれは、飲んだ者を殺す毒です」
そう語るトリスに、村長を始めとした村人達は困惑の目を向けた。
「そんなことがあるか。あの薬で助かった者は多い。死んだのは、お前さんの母親だけだよ。それに、さっきお前さんにも飲ませた。おかげで生き返ることが出来たじゃないか」
愕然とするトリスを置き去りに、村人たちは葬儀の準備を始めた。
葬儀に参列する者は多くなかった。奇跡の秘薬すら効かなかった死に人々は恐怖し、肉の化物と化した女とその娘を遠巻きに見つめるだけであった。
死体は山の中にある墓地に埋めた。穴を掘り、死体を運んでくれた男達に礼を言い、トリスは墓石の前に佇んでいた。
「いるんですよね? 出て来てください」
「言い方きつくない? 私、神様なんだけど」
「神様、なんでお母さんは死んだの? あの薬は偽物だったの?」
「まさか。あれは間違いなく神が作った霊薬だよ。現に他の人や、瀕死のあなたには効いたし」
「なら、なぜ・・・・・・」
「一言で言えば、飲み過ぎ。あれは崩れた体を再生させるからね。飲ませ過ぎると、逆に肉が増え過ぎて内臓にダメージが行くんだ。お母さんの死因は、自分の肉に潰された圧死だよ。薬ってのは、用法用量を守って正しく使わなきゃいけないの。母親は、あなたが殺した」
「どうして、教えてくれなかったんですか」
「言ったら面白くないじゃん」
「・・・・・・なに、それ」
愕然としたトリスを見て、アンナはくすくすと笑った。これまで決して折れなかった少女の心が、今は触れれば崩れるほどに脆い。
「私ね、この世界で遊んでるんだ。今は神様なんてやってるけど、元は人間なの。結構つらい人生でね、その憂さ晴らしに、こうしてあなたみたいな強い子を選んでは、虐めて楽しんでるの。要は八つ当たりってわけ」
「やっぱり、悪魔だったんですね」
「まさか。私は神。それは本当。だからこそ性質が悪い。悪魔なら神様が倒してくれるだろうけど、この世界の災厄は、すべて私が望んだ結果。救いなんて、どこにもないんだよ」
トリスが恐ろしい形相で砂を掴み、力一杯ぶつけて来た。アンナの体はそのすべてを透過した。
「じゃあ、元気でね。これからも辛いことしかないけど、精一杯生きてよ。んで、もうダメだって思ったら自殺でもしてちょ・・・・・・ま。できれば、だけど」
アンナはそれだけ言うと、トリスに背を向け徐々に消え去った。
残されたトリスはその場に膝をついて泣きじゃくった。なぜ、どうしてと何度も叫び、すぐにそんな問いかけなど無駄だと悟る。
人が投げかける答えようのない疑問は、いずれ神へと辿りつく。
だが、神は敵だった。いいや、敵とさえ言えない、ただの嫌な奴。有り余る力で人々を苦しめることしかしない、ただの害悪なのだ。
そんな奴に、多くの人が救いを求め祈る・・・・・・なんてバカみたいなのだろう。
いっそのこと、本当に死んでしまおうか。そんな思いが脳裏を過った時、不意に吐き気がこみ上げた。
「嘘・・・・・・」
恐怖に震えながら、お腹を触る・・・・・・微かに、膨らんでいる。
確かに感じる命の脈動。
ありえない! 処女を失ったのは、つい一月前だ。
「まさか、あの薬が――」
神は言った。あの薬は体を再生させると。もしもそれが妊娠中の母体に取り込まれたなら、新しい命の成長も促進させるのではないか。
「どうしよう、どうしよう・・・・・・」
出産なんて、どうしていいかわからない。そもそも自ら望んだことではない。名も知らぬ野盗に植え付けられた、汚らしい命だ。
トリスは側に落ちていた石を拾った。強く両手で握り、頭上高くに振り上げる。これを振り下ろせば、すべては終わる。
終わるだろうか? 神の寵愛を受けたと言っても過言ではない我が子が、こんなことで死ぬだろうか。
パニックに陥る頭で逡巡していたその時、お腹の張りを覚えた。服を捲り上げると、そこには目に見えて大きくなって行く自分の腹が。
そっと手を触れてみる。強く蹴られた。
「ダメ! 出来ないよ!」
トリスは腹を抱え込んで泣き叫んだ。
何物にも我が子に触れさせてなるものかと、彼女は絶叫した。
お腹はどんどん大きくなり、凄まじい激痛が襲った。村まで戻っている時間はない。
「どこか、どこか・・・・・・」
既に歩ける状態ではない。母が眠る墓石に背を預け、どうにか楽な体勢をとる。足を開いてみるものの、どうすればいいかわからない。
村で子供が生まれる時はどうしていたのだろう。近所のお姉さんの時は、子供は邪魔だからと強く言われて追い出されてしまった。湯を沸かし、夜通し頑張っていたことしかわからない。
「お願い、どうか無事に生まれて来て」
深夜。
一際激しい痛みが襲い、股を引き裂くようにして子は生まれた。産声を上げる我が子の横で、トリスの意識は飛びかけていた。
土に塗れた我が子に手を伸ばす。ようやく触れたそれは、夜の冷気の中にあっても熱かった。
「お乳をあげないと」
虚ろな目は、既にほとんど見えていない。赤ん坊を抱き寄せ、碌に膨らんでもいない胸に吸い付かせた。
「痛いよ。あはは」
信じられないくらい強い力で胸を吸う。だが、いくら力を込めても母乳が出ない。胎児の急激な成長に母体がついて行かないのだ。トリスは指先を嚙み切ると、我が子にそっと吸いつかせた。
「よしよし、いい子。いい子」
トリスは落ちていた胎盤を食べながら、我が子をあやした。名前を決めなければと思い、そう言えば性別も確認していなかったと思い至る。赤子は女の子だった。
「あなたの名前は――」
「もう決まってるよ」
「神様・・・・・・」
神はその名を口にした。それは神言となってトリスを縛る。
今、娘の名と命運は決したのだ。
トリスは絶叫した。たった今、神が口にした言葉をかき消そうと、喉がひりつく程に泣き叫んだ。
「ナイスリアクションありがと。じゃ、その子とお幸せにね」
神はにっこり笑い、跡形もなく消え去った。
なんという理不尽。これが神の思し召しだというのか。
ならば、それに抗う自分は背信者か。トリスは娘を抱きしめ、涙を拭いた。
「大丈夫。あなたは私が守るから」
生涯愛すると決めた。
〇
夜が明け、戻らぬトリスを心配した村人が目にしたのは、虚ろな笑みを浮かべるトリスと、母の血を啜る赤ん坊だった。
妊娠の兆候などなかったはず。
しかし、明らかに出産した形跡と、生まれたての赤ん坊がいるのは事実。なにより、トリス本人が我が子だと認めている。
村の者たちは戦慄した。
明らかに、この娘の周囲には異常なことが起きている。母親然り、娘然り。こんな子供が一人で魔物が棲む森から生きて帰ったことだって、今となっては不穏に思える。
「まさか、あの子を産ませるために、悪魔が――」
尋常ではない。
それからは早かった。赤ん坊の体を清めるからとトリスから引き離し、そのまま森を抜け遠く離れた谷へと連れ去ったのだ。そこは忌み子谷と呼ばれ、遥か以前から食い扶持減らしや奇形児を葬って来た場所だった。
このまま谷に投げ入れてしまえばいい。トリスは悲しむだろうが、明らかにおかしいことが起きている。その末に生まれた子を、生かしておくわけにはいかない。いいや、子だけではない。親であるあの少女も、いずれ・・・・・・。
悪魔に魅入られ、半ば狂っているようなものだ。このまま村に置いても益はない。迷う場面ではない。
そう思うのだが、村人は躊躇した。腕に抱かれている赤ん坊は、なにも知らずに眠っている。
自身も親であり、また幼いころからトリスを知っている男は、最後の一歩をどうしても踏み切れずにいた。
「よこしな」
老婆が男から赤ん坊を奪い取った。長年に渡り、忌み子を葬って来た長老である。齢七〇を優に超えると言われるが、男に負けぬ健脚と鋭い眼光は衰えを知らぬ。赤子の精気を吸っているからだと真しやかに噂される、魔女だ。
「これは悪魔の申し子。この世にいてはならぬ者。恨むなら、生まれ出て来たこの世界をこそ恨むがよい」
「いいこと言うね、おばあちゃん」
雷鳴が轟き視界が白く染まった。男たちが目を開けると、そこには真っ黒な炭と化した老婆と、その足元で泣きじゃくる赤ん坊がいた。
祟り。否、悪魔の所業。
村人は逃げ去り、後には赤ん坊の泣き声だけが残った。
〇
赤子を奪われたと知ったトリスは、手足を縛る縄を皮膚ごとちぎって村を出た。忌み子谷の話は聞いている。なけなしの体力を振り絞り、髪を振り乱しながらたどり着くと、そこには黒い木をしゃぶる愛しの娘がいた。
「いい子、いい子」
雨が降り出した。