第三話 霊薬
彼女の名前はトリス。
辺境にある寒村に暮らす一二歳の女の子だ。その割に背が低く痩せているのは、単に栄養が足りていないからだろう。
栗色の巻き毛が愛らしく、大きな瞳に力のあるかわいい子だ。
出発は二日後。それまでに準備をするというので、アンナは別れた。
村に戻ったトリスは、その足で村長の家へと向かった。そこで神に面会したと打ち明け、お告げに従い薬草を採りに行くと言ったのだ。その間、どうか母の世話を頼むと床に額を擦り付け懇願する。
それを聞いた村長の顔は曇るが、すぐに優し気な笑顔へと変わった。
「わかった。信じよう。だが、君のお母さんの面倒を見るのは一月だけだ。もしそれを過ぎれば――」
「わかっています。どうか、よろしくお願いします」
一月で戻らなければ、母親を殺す。
そう村長は言っているのだ。長年人々を苦しめて来た、あの凶悪な不治の病については聞いている。放っておけば、村に感染者が出る。それを防ぐため、いよいよ病状が悪化する一月後を目途に殺してしまうのだ。種の保存のためには止むを得ない手段と言える。
幸い子供には感染しない病なので、村長の息子と娘が日替わりで世話をすると約束してくれた。十代半ばくらいなので、やせ衰えた女一人くらいならどうにかなる。
家財道具を売り払い、旅に必要な物を整え終えた後、トリスは村を出た。神様に教えられた森へは、歩いて一〇日かかる。子供の足ではその倍くらいか。どう考えても一月で戻って来られる距離ではないが、トリスは昼夜を通して歩き続けた。
歩き続けて三日目、野盗に遭遇した。
荒野をふらふらになりながら歩いていると、遠くに馬に乗った一団が見えたと思ったら、あっという間に追いつかれ、捕まってしまったのだ。
「お願いです。なんでもしますから、どうか命だけは助けてください。病気の母が、私の持ち帰る薬を待っているのです」
その願いは聞き届けられ、二〇を超える男共の奉仕を命じられた。
裸に剥かれ、男の逸物を咥え込み、全身余すことなく嬲られた。饗宴は一昼夜に渡って続き、トリスが眠っている間に最後の一人が果てて終わりを告げた。
「約束だ。命だけは助けてやる。だが、荷物は置いていけ」
頭領が無慈悲に言い渡し、トリスはボロ布一枚を残してすべてを失った。
「時間がない。急がないと」
トリスは再び歩き始めた。頭から布を被るが、照り付ける日差しに蒸され、頭がぼーっとした。足の裏に石が刺さり、足取りが覚束ない。
水も食料もなく、とうとう倒れてしまう。このままではすべてが無駄になる。涙も出ない乾ききった顔で前を向くと、小さなトカゲがいた。とっさに捕まえ、頭から齧る。血の塩気と内臓の苦みがとても美味く感じた。
トリスはしばしの間地面に這いつくばって食料を探した。トカゲは見つからなかったが、蟻と名前も知らぬ黒い虫を見つけ、夢中で貪った。
「行かなきゃ」
気づけば夜だ。食欲が満たされ眠りに落ちそうになるが、懸命に堪え足を動かした。
「頑張るね。でも、このままじゃ間に合わないよ」
「神様・・・・・・」
目の前に、あの時の少女がいた。宙に浮かび黒髪を靡かせ、トリスを見つめている。
「諦めてもいいんだよ?」
「いいえ、私は諦めません」
「そんなになってまで、よく頑張るね。あなた、妊娠してるよ?」
「・・・・・・!」
トリスはギクリと硬直するが、唇を噛み締め、再び歩み始めた。
「うんうん、そうこなくっちゃ」
神は満足げに頷き、虚空へと消え去った。
翌日、体がなにかに揺られる感覚で目を覚ました。
慌てて体を起こすと、そこは馬が引く荷台の上だった。
「起きたかい。まだ疲れが残っているだろう。寝ているといいよ」
そう言って来たのは年老いた女性だった。隣には夫と思しき男性もいる。
(そうだ。昨日焚火の灯りを見つけて、そこに行ったんだ)
その後のことは覚えていない。恐らく、夫婦の元まで辿り着いたところで気を失ったのだろう。
(神様が、助けてくださった?)
夫婦は行商人だった。町から町へと品物を売って渡っているらしい。行き倒れたトリスを、目的地である森の近くまで送り届けてくれるという。
夫婦との旅は心休まるものだった。長年旅を続けているだけあり、安全な街道や抜け道に詳しく、また既に独り立ちした息子の子供、つまり彼らにとっての孫をトリスに重ね、とても優しく接してくれたのだ。
なので、別れる間際には必死でトリスを説得した。事情は聞いていても、幼い子供を魔物が棲む森に行かせるなど、心優しい彼らにはとても容認出来なかった。
「親を助けたいというお前さんの気持ちはわかる。だが、お前さんが死んじまっては、元も子もないだろう。親ってのは、子にどうあっても生きてもらいたいものなんだ」
「ありがとう。でも、子も親には生きて欲しいものなんです。病気が治る薬があるなら、私はなんとしてでも手に入れたい」
結局、トリスは一人で森へと入って行った。その小さな背中を見ながら、夫婦は目から涙が滲み出るのを感じた。
「今からでも、あの子を追いかけようか。あの子は恨むだろうが、ワシらがあの子の親代わりになれんものだろうか」
「それは無理でしょうよ。あの子は強い信念を持って生きていますもの。例え無理矢理攫ったって、きっとあの子はここに戻る。そう神様が定めているのでしょう」
実はその通りだ。この夫婦の役目は、トリスを迅速に森まで運ぶことのみ。もし、夫婦と共に行くことをトリスが望んだなら、その日のうちに殺すと決めていた。希望を持った分だけさらなる苦境に見舞われる。そんな宿命をトリスは背負っているのだ。
夫婦はしばらくトリスが消えた森を見つめ、やがてゆっくりと荷馬車を進めた。彼らの行く先には、トリスを襲った野盗がいる。
毒にも薬にもならぬ老夫婦は、彼らの退屈しのぎの見世物となる。
小型の魔物に犯される様を笑われて、それに飽きると四肢を少しずつ切り落とされ、誰が殺してしまうか賭けに使う。
人とはこんなにも残酷になれるのだと、神も満足して彼らを見守るのだ。老夫婦が死んでから、どうせならトリスにもこの光景を見せてやればよかったと、少し残念に思った。
〇
森に入ってすぐに、小さな川に行き当たった。トリスは夢中で顔を突っ込み水を飲んだ。喉が潤うとボロを脱ぎ捨て体を洗う。
トリスの細い体には、あちこち落書きがあった。焼いたナイフで刻んだそれは、この世界で『娼婦』や『肉』を意味する。特に多いのは五画一文字。それが体中に幾つもあり、これが犯された回数である。
ふと自身の下半身に目を向けるが、手でこすって洗う以外はしなかった。
「賢明だね。今さらどうしようもないから」
見れば、石に腰かけ、川の流れに足を泳がせる神がいた。
「この子は、生まれてくるの?」
「うん。今さら指を突っ込んで掻き出しても無駄だよ」
「そんなこと、しない」
「さすがに強いね。あんな目に遭ったって言うのに、あなたは神に救いを求めたりしない」
「もう、十分救ってもらってるから。お母さんが助かる薬があるって言われて、どれだけ私が救われたか、神様ならわかるでしょう?」
「もちろん」
「だから、これだけは教えて。ねえ、私は騙されているんじゃないの? 実はあなたは悪魔で、私を騙し、こんな目に遭わせているんじゃないの?」
神は少女の瞳を見た。そこにあるのは、猜疑よりもむしろ、祈りに近い。どうか、あなたが神であってくださいと、少女は祈るのだ。
アンナは笑った。
「もちろん違うよ。私は神。名前はアンナだよ。薬のこともホント。全部真実。だからこそ性質が悪いんだけどね」
神様はそう言って消え去った。黙々と体を清めるトリスを見ながら、アンナはくすくすと笑っていた。
奥へ奥へ。森の最深部へ。
歩を進めるごとに、森の様相が邪悪な物へと変わる。村で見慣れた草木と違い、高濃度の魔素に晒された植物は、歪な成長を遂げ、その立ち姿は悪魔の如く恐ろしく映る。
魔物も増えて来た。一度は背後から飛び掛かられ、背中を酷く傷つけられもした。運よく木に登って難を逃れたが、じくじくと痛む傷口は熱を持ち、さらに体力を奪う。
魔物の影に怯え丸三日。遂に泉へとたどり着いた。そこは開けた森の広場だ。陽光が差し込み、キラキラと光る水面が目を焼いた。
「ここは天国なの?」
思わずそんなことを口にしてしまう。返事はない。
トリスは我に返ると泉の周りを探し回った。どうやらこの辺りには魔物は近寄らないらしく、足跡も糞も見当たらない。一応警戒は怠らず探し続けると、神様の言う通り、赤くて小さな花を見つけた。
「あった・・・・・・」
涙が零れた。二〇人の男に凌辱されてさえ流さなかった涙が、今は溢れて止まらない。
「急がなきゃ」
顔をごしごし拭いて、ボロ布を破って花を大事に包んだ。
ふと思いつき、布に泉の水を染み込ませて持って行くことにした。森を戻る途中で出会った魔物に、泉の水を振りかけると酷く苦しみ逃げて行った。思った通り、それは聖なる水だった。
森を抜け、街道へと出ると、トリスは走りだした。疲れも傷の痛みもなにも感じなかった。途中、荷馬車があれば乗せてもらい、村に戻ったのは彼女が出発してからちょうど一月後だった。
諦めていた村長は驚き、彼女を労った。食事を出すとの申し出を断り、彼女は母の元へと向かった。
母はこの一月の間に変わり果てていた。変な色をしていた皮膚は溶け落ちベッドを汚し、露出したピンク色の肉が鮮やかに体を彩っているのだ。床に排泄の跡があるのは、看病を頼んだ村長の子が逃げ出したからだ。
だがそんな些事にトリスは構わなかった。母の元に駆け寄ると、せき込みながら言う。
「お母さん、薬を持って来たよ。神様が教えてくれた奇跡のお薬だよ。これで治るんだよ!」
母は虚ろな目で娘を見ると、優し気に微笑んだ。
もう喋れない。この笑顔だって、溶けかけの筋肉が緩んだだけかもしれない。そう思うととても悲しくなるが、今のトリスの手には奇跡の秘薬が握られている。
たくさんの薬草をナイフで刻み、鍋に水と一緒に入れ煮詰めていく。すぐに鮮やかな深紅の薬が出来上がった。
「さあ、これを飲んで」
母の身を起こしてやり、カップの中身を少しずつ流し込んでいく。すべてを飲み終えた母親は安らかに眠りについた。
翌日、母の容態は急速に回復した。溶け落ちていた皮膚が薄く膜を張り、目に見えて回復して行く。虚ろだった目にも光が戻り、娘にありがとうと言ったのだ。
トリスはまたも泣いた。